第42話 二が消える
【一】
素数表の先頭に浮かんだその黒い数字は、小さいのに妙に重かった。
二の前に、一がいる。紙の上では、ただ一文字が増えただけに見える。だが、その一文字が、机の上の空気を変えた。
蝋燭の火がわずかに揺れ、窓の外の雪明かりが薄くなったように感じる。素数表の紙は、カタリナが大きな字で清書したものだ。右目でもどうにか読めるはずの太い数字たち。その列の先頭に、一だけが濡れた黒石のように沈んでいた。
エリザは、赤い羽ペンを握ったまま動かなかった。珍しいことだった。
彼女はいつもなら、どんな怪異にも即座に線を引く。だが今は、まずその数字を見極めている。単なる混入か、定義の根を壊す攻撃か。それを判断している顔だった。
アレクセイが低く言った。
「一くらい、放っとけねえのか」
「放置不可です」
エリザが即答した。声はいつも通り冷たいが、いつもより少し低い。
「一を素数に入れると、素数の表だけではなく、分解の規則が破綻します」
「一は割れねえだろ。一と自分自身でしか割れないなら、素数っぽく見えるが」
「だから危険なのです。定義を見た目で決めてはならない理由です」
カタリナは、紙に顔を近づけていた。彼女は一の文字の沈み方を見ている。黒い線は、他の素数より深い。紙の繊維そのものが、その一を正しいものとして受け入れようとしているようだった。
「この一、かなり深いです。九や十五より、紙に強く入っています」
「一は便利な嘘だからです」
俺は言った。
自分の声が、少し掠れているのがわかった。右目は今日も滲む。だが、この一は左目でも嫌にはっきり見えた。
「便利な嘘? どういうことですか?」
カタリナが尋ねる。
「一は、何に掛けても数を変えません。だから、どこにでも紛れ込める」
俺は答えた。
アレクセイが眉を寄せる。
「変わらないなら、いいんじゃねえのか」
「違います」
エリザが断定した。
「変わらないからこそ、紛れ込むのです」
彼女は白紙を取った。
「たとえば、六を分解してみます。六は二掛ける三。これはよい」
赤い羽ペンが走る。
六、二、三。
「しかし、一を素数に入れると、六は一掛ける二掛ける三とも書ける。さらに、一掛ける一掛ける二掛ける三とも書ける。さらに、一をいくつでも加えられる」
アレクセイの顔が変わった。
「終わらねえな」
「終わりません」
エリザは言った。
「一意性が壊れます」
「一意性って何だ」
「ただ一つに決まる、ということです」
カタリナが柔らかく補った。
「六の骨が、二と三で決まるはずなのに、一を入れると、同じ骨のまわりに影をいくらでも足せる、ということでしょうか」
エリザが少しだけ頷いた。
「比喩として有効です」
「珍しい」
俺が言うと、エリザは俺を見た。
「有効なものは採用します。無効なものは切ります。それだけです」
アレクセイが苦笑した。
「女史は今日も平常運転だな」
「あなたの数表より安定しています」
「そりゃどうも」
二人のやりとりを聞きながら、俺は一の文字を見た。
校閲者はずる賢い。
九や十五を混ぜるだけなら、「合成数を除外する」という定義で弾ける。
だが一は違う。古い時代には一を単位として扱うか、数として扱うか、素数として扱うか、その境界が揺れていた。そこを突いてきたのだ。
「一は、骨ではありません」
俺は言った。
「では何ですか」
カタリナが問う。
「骨と骨を変えずに包む影です」
カタリナはしばらく考え、紙に絵を描いた。二つの小さな黒い箱。二と三。それらを並べて六。そのまわりに、薄い灰色の輪を一つ描く。さらにもう一つ。何重にも囲む。
「一は、この灰色の輪のようなものですか。中の数は変えませんが、輪を増やすことはできる」
「はい」
「では、素数表には入れません。けれど、単位として別に記録します」
その判断は、鋭かった。
消すのではない。
素数からは外すが、役割を与える。
名前や日付や赤線と同じだ。役割を正しく定義すれば、校閲者のずらしは弱くなる。
「一。単位である。素数にあらず」
エリザが書いた。
「理由。一意分解を破壊するため」
「また硬いな」
アレクセイが言う。
「硬い方が折れません」
「骨だけにか?」
「……今の発言は不要です」
「ちょっと悔しそうじゃねえか」
「不要です」
カタリナが小さく笑った。その柔らかい笑いが、黒い一の圧を少し薄めた気がした。
俺は太い羽ペンを取り、一の横に書いた。
一は数を変えない。だから、素数の列には入れない。
エリザがすぐに訂正する。
「不十分です。数を変えない、だけでは説明が弱い。分解が一つに定まらなくなる、と追加してください」
俺は頷いた。
『一を素数とすると、分解が一つに定まらない』
カタリナがそれを大きく清書する。
アレクセイが声に出した。
「六は二掛ける三。一を入れると、一掛ける二掛ける三。一掛ける一掛ける二掛ける三。きりがねえ。だから一は外すんだな」
「いいですね」
俺が言うと、アレクセイは鼻を鳴らした。
「雑な方が覚えやすいんだよ」
「雑ではなく、口述向きです」
カタリナが言った。
「アレクセイ様の言い方も、別紙に残します」
「やめろ。俺の雑さを歴史に残すな」
「役に立つ雑さですので」
「そんな分類あるのかよ」
「今作ります」
エリザみたいなことを言い出した。
影響が広がっている。
その時、【一】の黒い文字が揺れた。
紙に沈んでいた黒が、少し浅くなる。しかし完全には消えない。素数表の先頭に居座ろうとしている。
エリザが目を細めた。
「まだ足りません。素数表から外すだけでなく、別の表へ移す必要があります」
「単位表ですか」
俺が言うと、彼女は頷く。
「単位表。一。掛けても数を変えない数。素数ではない」
カタリナが別紙を出す。
単位。
一。
役割。
数を変えない。
素数表には入れない。
エリザが赤で補足する。
合成数でもない。
アレクセイが眉をひそめる。
「素数でも合成数でもないのか。面倒なやつだな」
「だからこそ重要なやつです」
俺は言った。
「一をどこに置くかで、数の骨格が変わります」
「小さいくせに厄介だ」
「小さいものほど厄介です」
エリザが断定した。
単位表ができた瞬間、素数表の一が薄れた。
黒い文字は、素数列の先頭から剥がれるように浅くなり、別紙の単位表に移った。そこでは、一の文字は落ち着いている。沈み方も穏やかだ。正しい場所を与えられたように見えた。
カタリナが息を吐いた。
「移りました」
「役割が定まると、落ち着く」
俺は呟いた。
名前もそうだった。
赤線もそうだった。
アレクセイの名も、ハインリヒの名も、単独で奪われると危険だった。だが正しい役割を与えると、校閲者のずらしは弱まる。数も同じなのかもしれない。
「数にも、居場所が必要なんですね」
カタリナが言った。
それは、柔らかい言葉だった。
だが、深い。
素数には素数の場所。
一には一の場所。
合成数には合成数の場所。
それらが混じると、世界の骨格が歪む。
アレクセイが表を見ながら言った。
「じゃあ、次は合成数の表もいるな。九や十五を追い出す場所が必要だ」
「正解です」
エリザが言う。
「素数表、単位表、合成数表。分類を三つに分けます」
「また分類か」
「分類は防衛です」
「その言い方、女史っぽくて嫌だな」
「必要な言い方ですが」
「分かってる。だから嫌なんだよ」
三つの表が机に並ぶ。
素数表。
単位表。
合成数表。
カタリナはそれぞれの紙の色を少し変えた。素数表は白い紙。単位表は薄い灰色。合成数表は、工房から持ってきた少し黄色い紙。右目でも紙の違いがわかるように、と彼女は言った。
「紙の色で分けます。数字が滲んでも、表の役割がわかります」
「ありがたいです」
「あと、素数表には小さな骨の印を付けてもよろしいでしょうか」
「骨の印?」
「見分けるためです」
エリザが少し考える。
「比喩記号としては許容。ただし定義文を必ず添えること」
「はい」
カタリナは素数表の隅に、小さな骨のような印を描いた。可愛らしい。だが、それをエリザが見ると、すぐ横に赤字で注記した。
骨印。素数表を示す便宜記号。数学的対象ではない。
アレクセイが笑う。
「可愛い骨が台無しだな」
「誤解防止です」
エリザは涼しい顔だった。
その時、部屋の扉が叩かれた。
アカデミーの書記が顔を出す。彼は少し息を切らしていた。手には封書がある。
「オイラー殿。あ、えーと、ベルヌーイ嬢からの書簡が届いておりますが」
「え? 私から?」
エリザが眉をひそめた。
書記は慌てて訂正した。
「いえ、こちらのエリザ様ではなく……申し訳ありません、差出人名が、E、とだけ」
エリザは一瞬で理解した。
「私です」
「どういうことですか」
俺が聞くと、彼女は封書を受け取った。
「これは、私が昨日投函した草稿返送です。校閲者に経路を確認されないよう、私宛ではなくE記号で回しました。今届いたなら、ちょうどよい」
「何がちょうどよいんです?」
エリザは封を切り、中の紙を広げた。
赤字が最初から見えた。
『一を素数に入れるな』
俺は思わず笑いそうになった。
「予言ですか」
「ただの、論理的予測です」
エリザは断定した。
「素数定義を攻撃するなら、一を混入する。当然です」
赤字の下には、さらに続きがあった。
『一を素数に含めると、素因数分解の一意性が崩壊する。単位として別に扱うこと』
「完全に今やったことですね」
カタリナが言う。
エリザは紙を机に置く。
「遠隔赤線の有効性も確認できました」
「遠隔? 同じ部屋にいますけど」
「距離は問題ではありません。経路が別であることが重要です」
アレクセイが腕を組む。
「いよいよ手紙でも刺す練習か」
「そのうち必要になります」
エリザは短く言った。
その言葉に、少しだけ空気が変わった。
ーー必要になる。
つまり、いつまでも彼女は同じ部屋にいない。
サンクトペテルブルクを離れる可能性が、まだ言葉にならないまま、机の上を通り過ぎた。
俺は、それを今は追わなかった。
素数表へ目を戻す。
一は、もうそこにいない。二が先頭にある。
二、三、五、七、十一。
列は、ようやく骨格を取り戻したように見えた。
その時、素数表の下に新しい文字が浮かび上がった。
【Omnes numeri integri ex numeris primis constant. (すべての整数は、素数からできている)】
しかし次の瞬間、その文の中央から白く抜け始めた。
ex numeris primis(素数から)の部分だけが、消えようとしていた。
カタリナが紙を押さえる。
エリザが赤い羽ペンを構える。
アレクセイが合成数表を引き寄せる。
俺は、滲む右目を閉じ、左目でその白化を見た。
次の戦いは、数の骨そのものを守るものだった。




