第41話 素数だけが見える
素数の列だけが、奇妙にはっきり見えた。
二、三、五、七、十一。
その下にも、十三、十七、十九、二十三と続いている。紙全体は右目で見ると白く滲むのに、その数字の並びだけが、雪の中に残った黒い足跡のように意識へ沈んできた。蝋燭の火は小さく、窓の外には凍った夜の青がある。Mechanicaの控えは閉じられ、机の端に置かれていた。その横に放り出された古い覚書が、次の扉のようにこちらを見ている。
俺は右目を細めた。
紙は滲む。
数字は残る。
いや、数字が見えているのではない。俺の頭が、その列を勝手に拾っている。二、三、五、七、十一。割れない数。これ以上分けられない数。数の奥に埋まっている何か。
「レオンハルト様、まだ起きていらっしゃるのですか」
扉の向こうから、カタリナの声がした。夜更けの声だった。柔らかいが、寝ていない人の声でもある。返事をする前に扉が開き、彼女が燭台を持って入ってきた。揺れる灯りが壁に大きな影を作る。彼女の袖口には、子どもの寝台で使った布の匂いが少し残っていた。乳と石鹸と乾いた紙の混じった匂い。それが、この部屋を研究室ではなく家にしている。
「少しだけです」
「その少しは、いつも長すぎます」
カタリナは机へ近づき、俺の視線の先を見た。
「素数表ですね」
「ええ」
「右目で読めますか」
「紙は滲みます」
「では、数字は?」
「数字だけ、なぜか残る気がするんです」
彼女はすぐに椅子へ座った。眠気をこらえるのではなく、記録するために座る動きだった。机の上に新しい紙を置き、太い羽ペンを取る。右目用の大きな字を書く時の筆だ。
「読み上げますね」
「眠くないんですか」
「眠いです」
「では休んでください」
「眠くても、数字は読めます」
そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。俺は言葉を失う。カタリナはいつも、優しい顔で逃げ道を塞ぐ。
「二、三、五、七、十一、十三、十七、十九、二十三」
彼女の声で数字が並ぶ。紙の上では滲む列が、音になるとはっきりした。二。三。五。七。カタリナの声で聞く素数は、階段の石を一つずつ踏むようだった。
「これらの数は、何が特別なのでしょうか」
「割れないんです」
「割れない?」
「一と自分自身以外では割れない。たとえば六は二と三に割れる。十二は二、二、三にほどける。でも五は、一と五だけ。七も、七だけ」
カタリナはそのまま書いた。
『一と自分自身でしか割れない数』
文字は大きい。
右目でも読める。
「数の、石材のようなものですか」
「石材?」
「父の工房で使う顔料にも、混ぜものをする前の粉があります。そこから色を作ります。素数も、そのようなものでしょうか」
「なるほど、近いです」
俺は頷いた。
「素数は数の材料です。すべての整数は、素数の積にほどける」
「では、数の骨ですね」
その言葉に、胸の奥が少し震えた。
数の骨。
いい言葉だ。
「それ、使えます」
「骨、でよろしいのですか」
「はい。目では数は見えない。でも、素数はすべての数の骨だ」
カタリナの羽ペンが止まった。
「今の言葉、残します」
「少し大げさでは」
「大げさでも、レオンハルト様の言葉です」
彼女は大きく書いた。
素数は、すべての数の骨。
その文字を見ていると、右目の滲みの中でも、何かが黒く残る気がした。
翌朝、エリザが来た。
彼女はいつものように雪を払う前から部屋へ入り、机の上の紙を一瞥しただけで眉を寄せた。外套には細かな雪が残っている。
「骨という比喩は有効です。ただし、証明ではありません」
「第一声がそれですか」
「当然です。比喩は入口であり、論証ではありません」
「おはようございます」
「おはようございます。定義を確認します」
挨拶が後だった。
彼女らしい。
エリザはカタリナの書いた大字の素数表を見た。目が速い。数字を追う速度だけで、彼女が何を見ているかがわかる。欠落、重複、誤定義。すでに全部疑っている。
「素数。約数が一と自分自身のみである整数。ただし一は除外」
「いきなり一を除外しますか」
「当然です。ここを曖昧にすれば、後で破綻します」
「まだそこまで説明していません」
「先に釘を打ちます」
エリザは赤い羽ペンで紙の端に書いた。
『一を素数に入れないこと』
「赤線が早い」
「早期治療です」
その時、廊下から乱暴な足音がした。
「また朝から数字か」
アレクセイが入ってきた。手には黒パンをかじった跡と、古い数表。寝癖のついた髪を直す気もない。顔は不機嫌だが、部屋へ入ると自然に机の上を見るあたり、もう完全にこちら側の人間だった。
「素数です」
カタリナが答えた。
「すべての数の骨だそうです」
アレクセイは黒パンを噛みながら紙を覗いた。
「骨ねえ。それで船が動くのか」
「動きません」
俺が答えると、彼は鼻で笑った。
「じゃあ宮廷は興味持たねえな」
「そう願います」
「無理だ。お前が興味を持つものは、だいたい後で誰かが悪用する。そろそろ自覚しろ」
嫌な経験則だ。当たっているので、なんとも嫌な気分になる。
アレクセイは数字を指で追った。
「二、三、五、七、十一。まあ、わかる。割れねえやつらだな」
「検算できますか」
「その程度ならな」
彼は椅子を引き、紙を取った。
「だが、何のためにこんな列を見るんだ。バーゼル問題みたいに何かに化けるのか」
「たぶん」
「たぶん?」
およそ240年後、1977年に素数を利用した公開鍵暗号(RSA暗号)が発明される。その数学的基盤のひとつ、オイラーの定理はこの先、1760年に発表される。いずれもまだ先の話だ。
その前に、もっと重要な数学に取り組む必要がある。
俺は言った。
「級数の奥に、素数がいるかもしれない」
アレクセイは黒パンを置いた。
「例の足し算の奥に、割れない数が?」
「そうだよ」
「また面倒なことを言い出したな」
エリザが即座に言う。
「面倒ではなく、危険です。足し算から掛け算への移行は飛躍を含みます。慎重に扱うべきです」
「女史が危険って言うと、本当に危険そうだな」
「本当に危険よ」
その時、机の上の素数表がかすかに白く光った。
カタリナの手が、すぐに紙の端へ伸びる。
「来ました」
素数列の中で、十一の後ろに黒い数字が浮かんだ。
【九】
部屋が静まった。
九は、素数ではない。
「変えるんじゃなく、混ぜてきたか」
アレクセイが低く言う。
「九は三で割れます」
カタリナがすぐに書いた。
九は三と三。
エリザが赤で大きく線を引く。
「合成数。素数表から除外」
「混ぜるなら、もっと紛らわしい数にすればいいのに」
アレクセイが言った。
「最初は粗い攻撃か警告の意味でしょう。今度は素数を狙っている、と」
エリザの声は冷たい。
「だったら、先に定義を固めます」
俺は素数表を見た。右目では九の黒さが妙に滲み、他の数字より大きく見える。まるで汚れのようだった。校閲者は、最初に数の列を汚しに来た。バーゼル問題でπを剥がしたように、橋問題で八本目を足したように、今度は素数表に偽物を混ぜる。
「九は骨ではありません」
俺は言った。
「三と三でできたものです」
カタリナが、積み木のような図を描いた。三の小さな箱が二つ並び、それが九という大きな箱になる。彼女の図は柔らかい。抽象的な数に、手で触れるような形を与える。
「では、十五も駄目ですね」
カタリナが言う。
「三と五です」
「はい」
彼女は三と五の箱を並べ、十五と書いた。
すると、素数表の端にまた黒い数字が浮かぶ。
【十五】
アレクセイが机を叩いた。
「言ったそばから来るなよ」
「逆にわかりやすいわ」
エリザが言う。
「合成数を混ぜる攻撃。対象は素数の列」
「九、十五、二十一あたりが来るか」
アレクセイは紙を取り、合成数の候補を並べ始めた。
「二十一、三×七。二十五、五×五。二十七、三×三×三」
「検算が速いですね」
カタリナが言うと、アレクセイはぶっきらぼうに返した。
「こういうのは手が覚える。船を浮かべるよりは簡単だ」
エリザは、素数表の上に大きく題を書き、定義を加えた。
『素数表。
定義。
一と自分自身以外で割れない。
ただし一は除外。
合成数は除外』
「硬いですね」
俺が言うと、彼女は即答した。
「硬くします。柔らかい骨は骨ではありません」
アレクセイが笑った。
「今のはうまいな」
「偶然です」
エリザは涼しい顔で言った。
校閲者の混ぜた九と十五は、白く薄れた。完全には消えない。だが、素数表の外へ追い出された。カタリナはそれらを別紙に写し、「偽混入」と記した。
「嘘にも、嘘としての場所が必要です」
彼女はそう言った。
何度も繰り返してきた考え方だった。
消すのではなく、嘘として保管する。
「では、素数表を声に出します」
カタリナが言った。
「また唱和か」
アレクセイが聞く。
「はい。数字が小さいと、オイラー殿の右目では読みづらいので」
「俺も読むのか」
「はい」
アレクセイは面倒くさそうに顔をしかめたが、紙を見た。
「二、三、五、七、十一、十三、十七、十九、二十三」
エリザが続く。
「二十九、三十一、三十七、四十一、四十三」
カタリナの声が重なる。
「四十七、五十三、五十九、六十一、六十七」
俺も声に出す。
数字が、部屋に並ぶ。
素数の列が、紙だけでなく、声になった。
右目が滲んでも、耳は拾う。
暗算が、それを確かめる。
二、三、五、七。割れない。十一、十三。割れない。十七、十九。割れない。
数字が骨のように、頭の中で組み上がっていく。
その時、素数表の最初が白く光った。
二の文字が薄れ始めた。
カタリナが息を呑む。
「二が」
エリザの目が鋭くなる。
「最小素数を狙っています」
アレクセイが椅子を蹴って立った。
「二を消すとか、雑どころじゃねえぞ」
俺は、薄れていく二を見た。
右目では、もともと滲んでいる。
だが、今は左目でも薄い。
二。
最初の素数。
唯一の偶素数。
偶数と奇数を分ける門。
これが消えれば、数の骨格が傾く。
「二を、数字以外でも残します」
カタリナが言った。
彼女は紙に、二つ並んだ点を描いた。
さらに、二本の線。
二つ組。
対。
「二は、対です」
彼女は柔らかく言った。
「一つと一つが並ぶ形です」
エリザが赤で書く。
『唯一の偶素数』
アレクセイが続ける。
「全部の偶数は二で割れる。二が消えたら、偶数表が死ぬ」
俺も声に出した。
「二は、ただの最初の素数ではありません。偶数と奇数を分ける門です」
二の白化が止まった。
薄い。
だが、残った。
カタリナが二つの点をさらに大きく描く。
「この図なら、右目でも見えますか」
「見えます」
「では、二はここにもあります」
その言葉で、胸の奥が少し温かくなった。
二は数字だけではない。
対として残る。
偶数として残る。
声として残る。
図として残る。
校閲者の攻撃は、また俺たちに新しい保存法を作らせた。
エリザが、素数表の余白へ書く。
定義防衛、第一段階。
「また硬い」
「必要です」
アレクセイが椅子に座り直した。
「で、次は何が来る?」
エリザが即答した。
「一です」
「何でわかる?」
「一を素数に混ぜれば、骨格が崩壊します。校閲者が定義を崩すなら、当然そこを狙います」
その言葉の直後だった。
素数表の一番上、二の前に、小さな黒い数字が浮かんだ。
【一】
部屋の空気が凍った。
カタリナが紙を押さえる。
エリザは、赤い羽ペンを持ち直した。
アレクセイが低く呟く。
「来やがった」
俺は、黒く沈む【一】を見た。
次の戦いは、そこから始まる。




