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第40話 式で見る


Mechanicaの草稿が正式に封じられた日の夜、俺は机の前に座っていた。


外は静かだった。

サンクトペテルブルクの雪はやみ、窓硝子には薄い霜だけが残っている。暖炉の火は小さく、薪の奥で赤い芯が息をしていた。部屋には封蝋の匂いと、乾ききらないインクの匂いが漂っている。

机の上には、審査を終えた草稿の控えが置かれていた。大判写し、通常写し、図版、数表、条件表。どれも今日までに増えた俺の目だった。


右目で見ると、紙の右端が白く滲む。


左目で見ると、文字はまだ読める。


それだけのことなのに、胸の奥で何かが削られるようだった。人間は、失ったものより、まだ残っているものを数える方が難しい。右目が完全に消えたわけではない。だが、細い線はもう信用できない。細字は敵だ。朝の白光も、蝋燭の明かりも、右目には優しくない。


俺は右目を閉じた。


世界は狭くなった。けれど、線は戻った。


「閉じていらっしゃいますね」


扉の方から、カタリナの声がした。


振り返ると、彼女が盆を持って立っていた。薬湯と黒パン、それから新しい紙束。家の匂いと工房の匂いが混じっている。薬草、焼いたパン、紙、わずかな顔料。彼女のいる場所には、いつも記録の気配があった。


「見られていましたか」


「いつも見ています」


「言い切りますね」


「はい。今夜は特に」


カタリナは盆を置き、机の端に大判写しを並べた。今日の審査で正式に付属記録として認められた、右目用の写しだ。太い文字。広い余白。大きな図。読みやすいというだけでなく、俺がまだ学問の中にいられる形だった。


「お薬が冷めます」


「苦いので、少し冷めた方が」


「苦さは冷めても残ります」


「残酷な事実ですね」


「事実ですので」


その言い方が、ほんの少しエリザに似てきている。本人は気づいていないかもしれない。


俺は薬湯を飲んだ。舌の上に苦味が広がり、喉を降りる時に熱が残る。熱病以来、こういう味に敏感になった。身体が、薬を記憶している。


「今日は、終わりましたね」


カタリナが言った。


「ええ。Mechanicaの草稿は、ひとまず残りました」


「ひとまず、ですか」


「完全に安心できる日は、たぶん来ません」


「それでも、残りました」


彼女は静かに言った。


その言葉には、第一部から積み上げてきたものが全部入っていた。白化した紙。守った名前。橋の都市。声に出した式。消えかけた赤線。大きく描き直した図。今も机の上にある太字の文字。


俺は、右目を少し開いた。


大判写しの文字は読める。


位置。速度。加速度。力。そしてそれらをつなぐ式。


「読めますか」


「読めます」


「では、明日からもこの大きさで書きます」


「紙がさらに増えますね」


「増やします」


「カタリナ」


「はい」


「いつか、本当に見えなくなったら」


言ってから、言葉が止まった。


その先は、まだ言うべきではない気がした。未来を知っているからこそ、怖い言葉がある。オイラーは後にほとんど視力を失う。俺はそれを知っている。だが、今のカタリナにそれを背負わせたくなかった。


彼女は少しも急かさなかった。


ただ、机の上の紙を整えた。


「見えなくなったところは、別の形にします」


「簡単に言いますね」


「いつも簡単ではありません」


彼女は柔らかく言った。


「でも、紙を大きくすることはできます。声に出すこともできます。点を触れるように押すこともできます。線を太くすることもできます。今朝より、できることが一つ増えました」


胸が詰まった。


この人は、いつも世界を保存方法で見る。消えるものを前にして、嘆くより先に、どう残すかを考える。だから、俺はまだ机の前に座っていられる。


オイラーにはまだ、なすべき仕事がたくさん残っている。


扉が叩かれた。


今度は遠慮のない音だった。


「起きてるか」


アレクセイだった。返事を待たずに入ってくるところまで、いつも通りだ。片手には数表、もう片手には小さな木箱を持っている。


「夜ですよ」


俺が言うと、彼は肩をすくめた。


「数表に昼夜はない」


「それは悪い働き方です」


「お前に言われたくない」


アレクセイは机に木箱を置き、中から小さな板と丸い粒を出した。木製の数え玉だ。位置表や速度表を、指で動かして確認するための道具らしい。


「細かい数字が読みにくいなら、玉で追え。時刻一、位置一。時刻二、位置三。こう動かせば、目が少し死んでも手で追える」


乱暴な言い方だった。


だが、内容は優しかった。


カタリナが目を輝かせる。


「触れる位置表ですね」


「名前は任せる」


「では、運動玉表と書きます」


「もう少し格好よくならねえのか」


「具体的な方が間違えません」


「まあ、そうか」


アレクセイは諦めたように椅子へ座った。


そこへ、さらに扉が開いた。


エリザだった。


「全員、病人の部屋へ集まる悪癖がありますね」


「あなたもですよ」


俺が言うと、彼女は当然のように紙束を置いた。


「私は必要があって来ました。草稿の終端処理が未完成です」


「終端処理」


「部の結論です。運動を式で追うという理念は示されましたが、あなた自身の覚悟が文章化されていません」


「私の覚悟まで草稿に?」


「草稿ではなく、保管記録です。校閲者はあなたの視力を攻撃軸に選びました。ならば、こちらも応答を正式化する必要があります」


アレクセイが呆れたように笑う。


「覚悟まで記録かよ」


「記録しない覚悟は、後で美談に変形されます」

エリザは断定した。

「美談は危険です。事実と区別してください」


まったく、その通りだった。


俺は深く息を吐いた。暖炉の火が小さく揺れ、部屋の影が伸びる。机の上の大判写し、数え玉、薬湯、赤い羽ペン。どれも、この数か月で増えた俺の視覚だった。


「では、何を書けばいいんですか」


「あなたの言葉です」


エリザが言った。


「ただし、曖昧な感傷は却下します。そのために来ました」


「難易度が高い」


「いつも通りです」


俺は羽ペンを取った。


右目を開ける。滲む。だが、太い紙なら見える。左目で補いながら、最初の一行を書いた。


『図が滲むなら、式で追えばいい』


カタリナが、その文字を見て静かに息を吸った。


アレクセイが低く言う。


「続きは?」


俺は書いた。


『物体の動きは、目ではなく、関係とその変化で捕まえる』


エリザがすぐに紙を覗き込んだ。


「変化で捕まえる、は比喩が残ります。学術記録としては、変化率で追跡する、が妥当です」


「固い」


「必要です」


俺は少し考え、書き直した。


『物体の動きは、目ではなく変化率で追跡する』


アレクセイが顔をしかめる。


「読者が逃げるぞ」


「誰の読者ですか」


「知らん。だが、硬すぎる」


カタリナが柔らかく言った。


「両方、残してはいかがでしょう。上の行はオイラー殿の言葉、下の行はエリザ様の記録用の言葉として」


エリザが少し黙った。


「妥当です」


「珍しく折れましたね」


「折れていません。分けただけです」


アレクセイが笑った。


「便利だな、分類」


俺は二つの文を並べて書いた。


『図が滲むなら、式で追えばいい』


『物体の動きは、目ではなく変化率で追跡する』


その瞬間、机の端に置かれたMechanicaの控えが、かすかに黒く滲んだ。


全員が黙る。


大判写しの余白に、黒い文字が浮かび上がる。


【見えぬ者に、運動は見えない】


今日の審査で出た言葉と同じだった。


だが、今度は続きがある。


【見えぬ者の式は、誰の目にも届かない】


カタリナの指が紙の端を押さえた。


エリザの赤い羽ペンが動く。


アレクセイが数え玉を握った。


俺は、その文字を見た。


右目では、ほとんど読めない。


左目で読む。


意味は、深く刺さる。


【見えない者の式は、誰にも届かない】


そうかもしれない。


俺一人なら。


俺だけの目で、俺だけの手で、細かい紙に書いていたら。


だが、今は違う。


「届きます」


カタリナが先に言った。


声は柔らかいが、まっすぐだった。


「大きく書けば、届きます。声に出せば、届きます。図を描き直せば、届きます。紙を分ければ、届きます」


エリザが続ける。


「可読性、口述性、複数媒体性。伝達経路は一つではありません。校閲者の命題は偽です」


アレクセイがぶっきらぼうに言った。


「読めねえなら読ませる。計れねえなら測り直す。終わりだ」


三人の言葉が、机の上で重なった。


俺は羽ペンを取った。


『なら、見える形に変える』


以前書いた言葉だ。


けれど、今は少し違う。


ただ字を大きくするだけではない。


人へ渡す形にする。


声にする。


表にする。


図にする。


触れる玉にする。


俺は新しい一文を書いた。


『一つの目に届かぬなら、多くの目と手に渡す』


黒い文字が揺れた。


【見えぬ者の式は、誰の目にも届かない】


その文字は薄れた。


完全には消えない。


だが、力を失った。


カタリナが、その一文を大きく清書する。


「この文字なら、右目でも読めますか」


俺は右目で見た。


白く滲む。


だが、読める。


「はい、読めます」


「よかったです」


エリザが書類をまとめる。


「では、保管記録に入れます。視力障害に対応する記録方式の初出として分類」


「そんな分類あるんですか」


「作ります」


アレクセイが数え玉を箱に戻しながら言った。


「お前ら、何でも分類するな」


「分類しないと、後で歪められます」


エリザが返す。


「それもそうだな」


彼はあっさり認めた。


夜が深くなった。


三人が帰った後も、俺は少しだけ机の前に残った。カタリナは最後まで残ろうとしたが、俺が薬湯を飲むことを条件に、隣室で休むことにした。扉の向こうに彼女の気配がある。それだけで、部屋の暗さは少し薄れる。


俺はMechanicaの控えを閉じた。


『運動は、図と式の双方により追跡される』


『図が滲むなら、式で追えばいい』


『物体の動きは、目ではなく変化率で追跡する』


『一つの目に届かぬなら、多くの目と手に渡す』


そこまで書いて、ようやく息を吐いた。


右目の滲みは治らない。


けれど、右目が滲んだからこそ、俺は別の見る方法を手にし始めている。


窓の外では、雪雲の切れ間から月が覗いていた。右目では白いぼんやりした光。左目では、輪郭のある淡い円。俺はその円を見ながら、ふと別の紙へ目を落とした。


それは、エリザが置いていった未整理の草稿だった。


無限級数に関する雑多な覚書。


その片隅に、小さな数列が並んでいる。


二、三、五、七、十一。


素数。


右目では、紙全体が滲む。


なのに、その数列だけが、奇妙にはっきり見えた気がした。


俺は、左目で見直した。


やはり、そこにある。


無限級数の奥に、素数の影が見えていた。


次の扉が、静かに開きかけていた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

第四部:「力学と病める右眼」、これにて完結です。


第五部では、オイラーの右目の世界は、少しずつ白く滲み始めます。


細かな図は読みにくくなり、数字の列は声に頼るようになる。

だが、曇る視界の奥で、レオンハルトは奇妙なものを見る。


二、三、五、七、十一。


それ以上割れない数。

すべての整数の奥にある、数の骨。


バーゼル問題で扱った無限級数。

その足し算の奥に、素数の掛け算が隠れている。


一方、サンクトペテルブルクの宮廷では政情が揺らぎ始める。

アンナは都を去り、代わって現れた陰気な使者グリゴリー・ヴォルコフは、数学を皇子の星回りと秘密文書へ利用しようとする。


数は未来を命令しない。

だが、権力は数に未来を語らせようとする。


右目の光は戻らない。

紙は足りず、給金は遅れ、宮廷の影は濃くなる。

それでも、素数の影は消えない。


次章、第五部:右目の曇りと素数の影。


足し算の奥には、数の骨がある。

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