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第39話 Mechanica(力学)



Mechanicaの草稿は、病人の机から審査室へ運ばれた。


それは一冊の本というより、まだ束ねられた戦場だった。

大判写し、通常写し、図版、速度表、力の定義、砲弾条件表、斜面実験の記録、馬車事故の観察記録。紙の厚みは増え、封紐は何度も結び直され、端にはカタリナの小さな記号がいくつも並んでいた。

右目で見ると紙束の右端は白く滲む。だが、左目で見ると、その重さははっきりわかった。これは、俺一人の視力ではなく、何人もの目と声で作った草稿だった。


審査室は、いつもの会議室より狭かった。壁には古い天体図と機械図が掛けられ、中央には長い机がある。窓の外は薄暗く、雪雲が低い。暖炉の火は弱く、部屋には乾いた羊皮紙と蝋燭油の匂いが満ちていた。審査員たちは、黒い服を着た年長の学者たちで、誰も余計な笑みを浮かべていない。オルロフもその席にいた。彼の前には幾何図が置かれている。だが今日は、その隣に俺たちの速度表も置かれていた。


カタリナは、俺の隣に立った。右目の滲みを補うためだ。大判図版を抱え、必要な時に壁へ掛ける。エリザは定義表を手にしている。彼女の顔はいつも通り冷静だが、赤い羽ペンの先はすでにインクで湿っていた。アレクセイは後ろで腕を組み、数表の束を机に置いている。ぶっきらぼうな顔だが、目は真面目だった。アンナは審査員席の後ろに座り、宮廷の立場として見ている。灰色の外套を膝に置き、指先だけが静かに動いていた。


審査長が草稿の表紙を叩いた。


「オイラー殿。これは、運動を幾何ではなく解析的方法によって扱う試みである、と理解してよいか」


「幾何を捨てるものではありません」


俺は答えた。


喉は以前より戻っている。だが、長く話すとまだ痛む。


「運動を追うために、幾何へ式を足すものです」


オルロフの眉がわずかに動く。前なら、その一言だけで反論しただろう。だが、彼は黙っていた。


審査長は草稿をめくった。


「位置、速度、加速度、力。定義が並んでいる。ずいぶんと太い字だな」


「私の右目用です」


言ってから、少し場が固まった。


隠すより先に言った。


審査員たちが互いを見る。カタリナが静かに俺を見た。エリザは表情を変えない。アレクセイは小さく鼻を鳴らした。


「病を理由に、記録形式を変えました。細字だけではなく、大判写しを併用しています」


審査長は、少しだけ目を細めた。


「学問の形式を、身体に合わせたと?」


「はい」


「危険な前例だ」


「必要な前例です」

エリザが即座に言った。

「記録形式は、内容の可読性を保証するためにあります。可読性が失われる形式を守ることは、本末転倒です」


審査員の一人が不快そうに言う。


「ベルヌーイ嬢、あなたは審査員ではない」


「承知しています。定義不備への補助発言です」


「補助発言にも限度がある」


「では、限度を定義してください」


審査室の空気が一瞬止まった。


アレクセイが下を向いて笑いをこらえた。カタリナは困ったように目を伏せる。オルロフが低く咳払いした。


「彼女の発言は、草稿の作成過程に関わる。聞く価値はあります」


オルロフがそう言うと、審査員たちは少し黙った。


エリザは目だけで礼をした。


審査長は表紙をもう一度見た。


「よろしい。では内容へ進む。位置とは何か」


「物体が、時刻ごとに占める場所です」


「速度とは」


「時間に対する位置の変化です」


「加速度とは」


「速度の変化です」


「力とは」


俺は一呼吸置いた。


「速度を変える働きです」


審査員席が少しざわついた。


「力を、働きと言うのか。物ではなく?」


「はい。直接手に取るのではなく、運動の変化から認識します」


オルロフがそこで口を開いた。


「この定義には危険があります。力を目に見える矢印だけから切り離すからです」


やはり来た。


だが、彼の声には以前ほどの敵意はなかった。警戒だ。


「しかし、矢印が誤れば、運動の変化によって訂正できる。これは、公開討論で確認した通りです」


審査長がオルロフを見る。


「オルロフ殿、それは承認か」


「限定承認です」


オルロフはきっぱり言った。


「幾何図は不可欠です。だが、運動を時刻ごとの位置として追跡する方法には、有効性がある。図と式は、互いに監視すべきです」


エリザがすぐに記録する。


「相互監視。よい語です」


オルロフは苦い顔をした。


「私の言葉をすぐ捕獲するのはやめなさい」


「有効語は保管します」


アレクセイが小声で言う。


「怖えな、言葉の狩人かよ」


「聞こえていますよ」


「だろうな」


審査長が草稿の中ほどを開いた。そこには斜面上の木球の実験、雪道の馬車事故、砲弾条件表が並んでいる。彼は砲弾条件表で手を止めた。


「宮廷からも注記が来ている。砲弾軌道の利用についてだ」


アンナが静かに顔を上げた。


「宮廷は、命中表ではなく条件表として受理する意向です」


審査員の一人が驚いた。


「命中表を求めないのか」


「現時点では求めません」


アンナの声は冷たい。


「火薬、砲身、風、砲弾の傷、地面。条件を無視した軌道表は危険です。オイラー殿の主張は、宮廷にとって不便ですが、無用ではありません」


「不便ですが、という部分は記録しないでください」


俺が言うと、アンナは薄く笑った。


「では、正確に記録させましょう」


嫌な予感しかない。


アレクセイが砲弾条件表を指で叩いた。


「美しい曲線だけ欲しがる連中がいる。だが、表には全部書いた。火薬が湿ればズレる。風が吹けばズレる。砲身が歪めばズレる。何もかも理想通りなら、戦場なんざ存在しない」


「口調は粗雑ですが、有効です」

エリザが言った。


「だからそれ、褒めてんのか刺してんのかわからないぞ」


「両方です」


審査長は、しばらく紙をめくっていた。羊皮紙が擦れる音が、部屋に細かく響く。俺は右目の奥に鈍い熱を感じながら、それを聞いていた。紙の音が、妙に大きい。昔なら、目で追っていたものを、今は音でも追っている。どの紙が開かれたか。どの図版が動いたか。カタリナが立つ位置。エリザの羽ペンの走る音。アレクセイが退屈そうに靴先を動かす音。それらが、俺に部屋を見せていた。


その時、草稿の上部がかすかに白く光った。


カタリナがすぐに息を呑む。


「来ています」


審査員たちが身構える。校閲者の干渉は、もう一部の者だけの秘密ではない。大きな審査の場では、必ず来る。そういうものとして扱われ始めていた。


白くなったのは、一つの語だった。


【解析的方法】


その文字が、薄れていく。


審査長が眉をひそめる。


「何が消える?」


「方法名です」


エリザが即答した。


「内容ではなく、分類を狙っています。危険です」


「分類が消えると?」


「後世が、この草稿を何として読むかが曖昧になります」


カタリナが大判写しを広げる。


「こちらにも同じ言葉があります。解析的方法」


アレクセイが言う。


「数表にも書いとけ。運動を数で追う方法、ってな」


オルロフが幾何図の余白に羽ペンを走らせた。


「幾何と併用される解析的方法」


エリザが彼を見る。


「併用、と入れるのですね」


「幾何を消させるつもりはありません」


「妥当です」


俺は、草稿の中央に大きく書いた。


運動を、時間に対する量の変化として扱う方法。


解析的方法という語が薄れても、意味を残すために。


白化は、そこで止まった。


解析的方法の文字は薄い。


だが、周囲に説明が増えた。


分類名だけでなく、内容が網になった。


審査長が静かに言う。


「なるほど。名が消えても、説明が残る」


「名前だけでは危ういので」


俺は答えた。


「この数年で学びました」


エリザが小さく頷いた。


カタリナは、白化の止まった位置を丁寧に記録している。


審査長は、長く沈黙した。やがて、草稿を閉じる。


「この草稿は、完全ではない」


いつもの言葉だ。


俺は内心で苦笑した。完全ではない、から始まる承認には慣れてきた。


「だが、運動を扱う新しい方法を含む。幾何図と競合するだけではなく、これを補い、時刻ごとの変化を追う道具となり得る」


オルロフが頷いた。


「私は、幾何を捨てるものとしてなら反対します。しかし、幾何を補う方法としてなら、審査に進める価値を認めます」


「宮廷も、条件付きで保護します」


アンナが言う。


「利用ではなく、保護ですか」


俺が聞くと、彼女は涼しい顔で答えた。


「利用するためには、壊さず保護する必要があります」


「本音が漏れていますよ」


「隠していませんから」


アレクセイがぼやく。

「この女、ほんとに厄介だな」


「聞こえていますよ」

アンナが返す。


「聞かせたんだ」

アレクセイはめんどくさそうに答えた。


審査長は、正式記録用の紙を取り出した。厚い紙だ。アカデミーの印が薄く透けている。カタリナが、すぐに紙質を確認する。白化しやすい透かし紙かどうか、見ているのだろう。


「記録する」


審査長は言った。


「オイラー草稿、Mechanica。運動を、幾何図に加え、時間に対する量の変化として解析的方法で扱うもの。審査継続を認め、正式草稿として保管する」


低い封印音が、部屋に落ちた。


ごん。


草稿の束が、一段深く机の上へ沈んだように感じた。


俺は息を吐いた。右目の白い滲みは消えない。だが、今はそれを言い訳にしなかった。見える形を変えた。図を大きくした。式を明確にした。表を太くした。声を使った。人の目を借りた。


それでも、草稿は進んだ。


カタリナが、そっと囁く。


「残りましたね」


「はい」


「右目用の写しも、一緒に保管していただけますか」


審査長が少し驚いた顔をした。


「それもか」


カタリナは柔らかく、しかしはっきりと言った。


「はい。読める形も、草稿の一部です」


エリザがすぐに続ける。


「可読性の保証記録です。保存価値があります」


アレクセイが肩をすくめる。


「小せえ字だけ残しても読めなきゃ意味ねえだろ」


オルロフも、静かに言った。


「残しなさい。図の大きさも、学問の条件です」


その言葉は、意外だった。


俺はオルロフを見た。


彼は目を逸らし、幾何図を巻き取っている。


審査長は頷いた。


「よろしい。大判写しも、付属記録として保管する」


カタリナの指が、少しだけ震えた。


それは疲れではなく、何かが報われた震えだったと思う。


その時、正式記録の端に黒い文字が浮かんだ。


見えぬ者に、運動は見えない。


部屋の空気が再び冷える。


校閲者は、最後にそこを突いてきた。


俺は、その文字を見た。右目では滲む。左目で読む。読めるうちに読んだ。


【見えぬ者に、運動は見えない】


カタリナが、俺の前に大判写しを置いた。


そこには、力の定義が太く書かれている。


位置。


速度。


加速度。


力。


その横に、時刻ごとの点列。


俺は羽ペンを取った。


手は震えていなかった。


物体の動きは、目ではなく、変化で追う。


エリザがすぐに言った。

「微分、という語はまだ避けるのですか。πの記号は使ったのに」


「まだです」


「妥当です。では、変化率、と補います」


アレクセイが言う。

「実測で補強する」


カタリナが続ける。

「図は、大きく描きます」


オルロフが言う。

「幾何も添える」


アンナが言う。

「宮廷記録にも残す」


黒い文字は、薄れた。


完全には消えない。


だが、もう俺を止める力はなかった。


審査室の窓の外で、雪がやんでいた。灰色の雲の切れ間から、ほんの少しだけ淡い光が差している。右目では、その光は白く滲む。左目では、窓枠の形が見える。


俺は思った。


見えるものは減っていく。


だが、見る方法は増えている。


Mechanicaの草稿は、封じられた。


そして、次の問いがもう、机の隅で息を潜めている気がした。


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