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第38話 病める目の証明


右側の世界が、また白くなっていた。


公開討論の翌朝、俺は机の前で、黒板に書き写された一文を見ていた。


【運動は、図と式の双方により追跡される】


左目では読める。右目だけでは、黒い文字が灰色の帯になってしまう。輪郭が溶け、文字の区切りが消え、ただ紙の上に煤をこすりつけたような影になる。蝋燭の火を近づければ少しはましになるかと思ったが、今度は光が滲み、文字の周囲に白い輪ができた。


俺は右目を閉じた。


世界は狭くなったが、線は戻った。


その事実が、思ったより深く胸を刺した。


部屋には、朝の冷気と薬草の匂いが残っている。寝台の脇には、カタリナが置いた温かい布と水差し。机の上には、公開討論の記録、位置表、速度表、加速度表、砲弾条件表、そしてMechanicaの草稿。紙束は昨日より増えていた。運動を追うための紙が、俺の目の代わりに積まれていく。


扉が静かに開いた。


「レオンハルト様」


カタリナだった。彼女は大きな図版筒と、布で包んだ厚い紙束を抱えていた。袖口には黒いインクの小さな染みがある。昨夜遅くまで描いていたのだろう。


「また右目を閉じていらっしゃいますね」


「たまたまです」


「たまたまではありません」


柔らかい声なのに、すぐ見抜く。


彼女は机へ近づき、草稿の一枚を取った。細かい字で書かれた通常の草稿ではない。太い線、大きな文字、広い余白。紙の左上には、彼女の字でこう書いてある。


右目用大判写し。


「名前が恥ずかしいです」


「実用名です」


「もっと詩的な名前は」


「読めることが大事ですので」


カタリナは机の上に大判写しを広げた。位置、速度、加速度、力。文字は通常の三倍ほど大きい。右目を少し開けても、どうにか読める。滲みはあるが、文字の骨格は残る。


「見えますか」


「見えます」


「では、ここは」


彼女が指したのは、小さく添えた注釈だった。


「……滲みます」


「では、注釈も大きくします」


「紙が足りなくなりますよ」


「紙は増やせます。目は増やせません」


その言葉は、静かだった。だからこそ、重い。


俺は何も言えなくなった。


カタリナは、こちらを責めるでもなく、励ますでもなく、ただ紙を整えた。彼女の手つきは工房の職人のように正確だ。紙の端を揃え、図の向きを決め、光が反射しない角度へ置く。俺が見えないことを嘆くより早く、世界を見える形へ作り替えていく。


「カタリナ」


「はい」


「怖くありませんか」


彼女の手が一瞬止まった。


「何がでしょう」


「私の目が……失われることが」


窓の外で馬車が通り過ぎる音がした。凍った石畳を車輪が削る、硬い音。運動の音。速度の音。俺が式で追おうとしている世界の音だ。


カタリナは、ゆっくり答えた。


「怖いです」


「ですよね」


「でも、紙を見ている時と同じです。怖いから、見ます。見ないと、どこから消えるかわかりません」


彼女は、右目用大判写しの端を指で押さえた。


「右目で読めないところは、私が見ます。小さい図を、大きく描きます。細い線を、太くします。白くなる前に、黒く残します」


胸の奥が熱くなった。


熱病とは違う熱だった。


そこへ、扉が勢いよく開いた。


「感傷は終わりましたか」


エリザが入ってきた。今日も語彙が冷たい。だが入室を待つだけの思いやりはあった。


手には定義表と赤い羽ペン。彼女はカタリナの大判写しを見て、すぐに頷いた。


「有効ね。字間も広い。右目用写しとして採用できる」


「評価ありがとうございます」


カタリナが柔らかく言う。


「ただし、定義文が長すぎる。大字化するなら、文を短くする必要があるわ」


「いきなり赤が入った」


俺が言うと、エリザは当然の顔で返した。


「赤じゃない。改善よ」


「あなたの改善は赤いんですよ」


彼女は俺の方を見る。


「右目の状態は?」


「少し滲むだけです」


「不正確です。昨日より悪化していますね」


「……少し」


「少し、という量を定義してください」


「病状にも定義を求めます?」


「当然です。曖昧な申告は対策不能です」


本当に容赦がない。


だが、その容赦のなさに助けられている。怖い、つらい、見えないかもしれない。そういう曖昧な恐怖を、彼女は定義へ落とす。定義できれば、扱える。扱えれば、まだ戦える。


「右目で細字が読めません。太字なら読めます。細い図線は滲みます。大きな点と太い線なら追えます」


「よろしい。記録しましょう」


エリザが言い終わる前に、カタリナがすでに書いていた。


その時、廊下から乱暴な足音が近づいた。


「まだ寝てるのか」


アレクセイが入ってきた。片手に数表、もう片方に木箱を持っている。木箱の中には砂時計、紐、測り棒、小さな木球。実測道具一式だ。


「病人の部屋にその挨拶ですか」


「病人なら寝てろ。仕事するなら測るぞ」


「選択肢がひどい」


「いつもだろ」


彼は机の上の大判写しを見て、少しだけ表情を変えた。


「見やすいな」


「右目用です」


カタリナが言った。


「なら、数表も太くする。小さい数字は事故の元だ」


アレクセイはぶっきらぼうに言い、持ってきた紙束を机に置いた。


「位置表と速度表、でかい版を作った。俺の字だから美しくはないが、読める」


見てみると、たしかに字は乱暴だった。


だが、読める。


数字が太い。


俺は思わず笑った。


「ありがとうございます」


「礼はいらん。お前が読めないと、俺が全部読む羽目になる」


「それは嫌ですね」


「お互いにな」


エリザが冷静に言う。


「では作業を始めます。目的はMechanica草稿の中核を、視覚障害を前提として進めること。感傷、隠蔽、過剰な自尊心は不要です」


「三つ目が刺さりますね」


「刺しています」


彼女は断定した。


作業はすぐに始まった。


カタリナが大きな斜面図を壁に掛ける。アレクセイが大字の数表を並べる。エリザが定義を一文ずつ読み上げ、俺がそれをこの時代の言葉に直していく。右目では図の細部が読めない。だが、壁に大きく描かれた点と線なら追える。カタリナの声が図を補う。


「斜面の上端に木球。時刻一、位置零。時刻二、位置一。時刻三、位置四。点の間隔は広がっています」


「速度は増加」


俺が言う。


「速度の増加がほぼ一定なら、加速度を一定と見る」


エリザがすぐに入る。


「ほぼ、という語は危険です。実測誤差を含む、と書くべきです」


アレクセイが頷く。


「そうだな。現物は机の上を転がってるだけだ。摩擦もある。完全な一定なんざない」


「では」


俺は書く。


実測では誤差を含むが、速度の変化を一定と仮定すれば、運動は単純な形で扱える。


エリザが見る。


「許容。ただし、仮定と明記してください」


「はい」


カタリナが、その文を大きく写す。


病める右目でも読めるように。


その時だった。


机の端に置いた通常サイズの草稿が、かすかに白く光った。


カタリナが即座に気づく。


「校閲者です」


エリザが草稿を押さえる。


「どこ?」


「図の細線ではありません。注釈です」


注釈に黒い文字が浮かび上がっていた。


【見えぬ者に、図は残せない】


部屋の空気が冷えた。


文字はゆっくり沈んでいく。右目では読めない。左目でどうにか読める。だが、その内容は、見なくても胸に刺さる。


【見えぬ者に、図は残せない】


カタリナの顔が硬くなる。


エリザは無表情だが、羽ペンを握る指に力が入っていた。


アレクセイが低く言った。


「性格悪いな」


「相手に人格があるかは未確定です」


エリザが返す。


「だが趣味は悪い」


「同意します」


俺は紙を見た。


校閲者は、俺の右目を攻撃経路として使ってくる。


俺は羽ペンを取った。


手が少し震えた。


カタリナがそれを見て、そっと大判写しを前へ出した。


「こちらへ書いてください。大きな字で」


俺は頷いた。


大きく書く。


『なら、式で残す』


黒い文字が揺れた。


エリザがすぐに言う。


「不十分です。図を捨てるという誤読を招きます」


「では」


俺は続けて書いた。


『図は大きくし、式は正確にする』


アレクセイが加える。


「数値も太くする」


カタリナが柔らかく言った。


「紙の痕も見ます」


エリザが締める。


「複数媒体で保管。図の縮小版、大判版、数表、定義表、口述記録。以上を一組とします」


校閲者の文字は薄くなった。


【見えぬ者に、図は残せない】


その文字は完全には消えない。だが、浅くなった。


カタリナは、細い草稿を閉じ、大判写しの上へ手を置いた。


「見えないから残せないのは違います。見えるように変えればいいのです」


その声は静かだった。


だが、強かった。


俺は胸が詰まった。


「カタリナ」


「はい」


「ありがとうございます」


「まだ、これからです」


彼女は微笑まない。


その代わり、次の紙を置く。


「次は、力の章です。こちらの図は、まだ細すぎます」


エリザが定義表をめくる。


「力。速度を変えるもの。向きは速度変化と照合。矢印単独を根拠としない」


アレクセイが数表を置く。


「机上の斜面、馬車の滑り、砲弾条件。三つで照合できる」


俺は、それらを見た。


右目では、紙束の右端が白く滲む。


左目では、文字が読める。


耳では、カタリナの声が聞こえる。


エリザの定義が聞こえる。


アレクセイのぶっきらぼうな数字が聞こえる。


目は一つ弱った。


だが、見る方法は増えている。


「続けましょう」


俺は言った。


「休まなくてよいのですか」


カタリナが聞く。


「休みます。でも、一段落だけ」


エリザが即座に言う。


「一段落の定義を明確化してください」


「力の章の第一節まで」


「過剰です」


アレクセイが言った。


「半分にしろ。病人の一段落は信用ならねえ」


「では、力の定義まで」


カタリナが頷いた。


「それなら、薬湯が冷める前に終わります」


三人に制限される数学者。


情けない。


でも、悪くない。それは三人に支えられている、ということだから、


俺は大きな紙に向かった。


力とは、速度を変える働きである。


その文字は、太く黒く残った。


右目でも、かろうじて読めた。


その時、部屋の外で鐘が鳴った。


アカデミーの午後を告げる鐘。


音は、はっきり聞こえた。


目が滲んでも、音は届く。


カタリナが読み上げる。


「力とは、速度を変える働きである」


エリザが確認する。


「暫定定義として採用」


アレクセイが言う。


「実測で殴れる」


俺は、右目を閉じずに、その太い文字を見た。


白く滲んでいる。


それでも、読める。


まだ、読める。


そして、読めなくなっても、声がある。


紙がある。


人がいる。


この証明は、一人の目で見るものではなくなり始めていた。


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