表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
37/45

第37話 解析で殴る


公開討論の日、アカデミーの大講義室は朝から熱を持っていた。


外は鉛色の空で、雪は降っていない。だが空気は鋭く冷え、講義室の高い窓から入る光は、白い刃のように机の端を照らしていた。人々の外套についた湿気、蝋燭の油、古い木の床、乾ききらないインク。それらの匂いが混ざって、学問の場というより、何かの裁きの場のようだった。


中央の机には、二種類の道具が並んでいる。


一つはオルロフの幾何図。


円、接線、斜面、振り子、力の矢印。細く、美しく、長い年月を経た学問の威厳を帯びていた。


もう一つは、俺たちの紙束。


位置表、速度表、加速度表、砲弾条件表、カタリナの大きな図版、エリザの定義表、アレクセイの実測値。こちらは美しくない。厚く、重く、ところどころ訂正だらけだ。だが、現実に触れた紙の匂いがする。


俺は壇上の手前で、右目を軽く閉じた。


開けると、遠くの細線が滲む。オルロフの図は、右目だけでは霧の中の蜘蛛の巣のようだった。左目なら見える。だが、長く見ると疲れる。喉の奥に、まだ熱の残りがある。呼吸を整えると、薬草の苦い匂いが舌の奥に戻った。


カタリナが隣で紙束を抱えている。今日の図版は、いつもより大きい。線は太く、文字も大きい。彼女は俺の右目に合わせて、世界の方を変えてくれた。


「線の太さは足りますか」


「足ります」


「右目ではなく、左目で追ってください。右の細線は私が見ます」


「あなたに頼りすぎですね」


「頼られるために描きました」


柔らかい声なのに、揺るがない。カタリナは、もう単なる図版係ではない。俺の視界の外側に立つ、もう一つの目だ。


エリザが前に来た。手には定義表。表情はいつも通り冷静だが、今日は服の襟元まできちんと閉じている。戦場に出る前の人間の整え方だった。


「余計な比喩は不要です。位置、速度、加速度、力。その順序を崩さないでください」


「わかっています」


「わかっている人間は、たいてい本番で余計なことを言います」


「信頼がない」


「経験則です」


アレクセイが後ろから来て、数表の束を机に置いた。どさり、と重い音がした。


「数値はこっちで見る。お前は定義を間違えるな」


「珍しく協力的ですね」


「お前が倒れると、面倒な仕事が俺に来る」


「それは申し訳ない」


「だから絶対倒れるな」


ぶっきらぼうな言い方だったが、声にはわずかに本気が混じっていた。


壇上の向こうで、オルロフが立ち上がった。老学者は今日も整っている。黒い外套、白い髪、手には定規。彼の前に広げられた幾何図は、軍旗のように堂々としていた。


「本日の討論は、力学をどの言語で記述するかに関わります」


オルロフの声は大講義室によく通った。


「古来、運動は図によって理解されてきました。軌道、円、接線、角、力の向き。これらは目で見える。見えるものは、共有できる。共有できるからこそ、学問の土台となる」


彼は俺を見た。


「対して、オイラー殿は式を重視する。位置、速度、加速度、力。時間に対する変化。これは計算できて、確かに便利かもしれない。だが、見えないものを学問の中心に据える危険もある」


聴衆が頷く。古い学者たち、書記、宮廷関係者、軍人。図の説得力は強い。人は見えるものを信じる。見ることに多くを頼っている。


オルロフは幾何図の一点を指した。


「まず、私が示しましょう」


彼は斜面上の球の図を掲げた。球が斜面を下る。接線と矢印が描かれている。力の向き、運動の向き、軌道。美しい。右目で見ると滲むが、左目で見ると確かに整っている。


「このように、図は一瞬で関係を示します。球はここにあり、力はこの向きへ働き、軌道はこの線に従う。これを捨てるなら、力学は目を失う」


目を失う。


その言葉が、右目の奥に触れた。


会場の一部が、こちらを見た。俺の視力の噂は、もう広がっているらしい。


カタリナの指が、紙の端を強く押さえた。


エリザが低く言う。


「挑発です。反応不要」


「わかっています」


俺は壇上に上がった。


「図を捨てるつもりはありません」


最初の一言で、少しざわめきが起きた。


オルロフの眉が動く。


「では、あなたは何を足すのです」


「時間です」


講義室が静まる。


「図は一瞬を見せます。球がどこにあるか。斜面がどちらへ向いているか。力をどちらへ描くか。それは重要です」


俺はカタリナの大きな図を掲げてもらった。斜面上の球。時刻一、時刻二、時刻三。位置は大きな黒点で描かれている。


「ですが、運動は一瞬ではありません。時刻一の球、時刻二の球、時刻三の球。位置が変わる。その変わり方を速度と呼びます」


エリザが定義表を掲げる。


「速度は、時間に対する位置の変化」


アレクセイが、実測表を読み上げる。


「同じ砂時計一回分で、距離一、距離三、距離五。間隔が増えている。つまり、速くなっている」


俺は続ける。


「速度が変わる。その変わり方を加速度として扱います。そして、速度を変える働きを、力として見る」


オルロフは黙って聞いている。


反対派の学者が手を上げた。


「それは図にも描ける」


「描けます」


俺は頷いた。


「正しく描ければ」


カタリナが、前回改竄された矢印の写しを掲げた。


「こちらは、オルロフ先生の図に後から生じた矢印のずれです。筆圧とインクの沈み方が異なります」


会場がざわつく。


オルロフの顔がわずかに硬くなる。だが、否定はしなかった。


「図は強い。しかし、図も狙われる。矢印が逆になれば、力の向きまで誤る」


俺は、速度表を指した。


「その時、時刻ごとの位置と速度の変化が残っていれば、嘘の矢印を見破れます」


黒板の隅に、黒い文字が浮かんだ。


【図なき力は存在しない】


来た。


聴衆の数人が息を呑む。校閲者の文字を初めて見る者もいる。大講義室の熱が、一瞬で冷えた。


オルロフがその文字を見た。


「……私の主張に似ていますね」


「利用されています」


エリザが断定した。


「校閲者は、あなたの学問的信念を攻撃経路に選んでいます」


オルロフの指が、定規を握りしめた。老学者にとって、それは屈辱だったはずだ。自分の信念が、敵の刃にされる。


俺は黒い文字を見た。


【図なき力は存在しない】


右目では、その字も滲む。


だが、左目で見れば読める。


俺は、カタリナの太い図と、エリザの定義表と、アレクセイの数表を順に見た。


「では、図なしで示します」


会場がどよめいた。


カタリナが一瞬こちらを見た。


「本当に、図を使わないのですか」


「一度だけ」


「承知しました。位置表を読み上げます」


彼女は図版を伏せ、表だけを開いた。


「時刻一、位置零。時刻二、位置一。時刻三、位置四。時刻四、位置九」


アレクセイがすぐに言う。


「位置の増え方は、一、三、五。増えてる」


エリザが続ける。


「速度が増加しています。速度の増え方も一定と見られます」


俺は聴衆に向かって言った。


「今、図は見せていません。ですが、時刻と位置だけで、動きが速くなっていることはわかる。速度が変わっているなら、その変化を生む働きを考えられる」


反対派の学者が黙る。


軍人たちも、今度は数表を見ている。


アレクセイがぶっきらぼうに付け足す。


「絵がなくても、表は嘘をつきにくい。もちろん、表も改竄されるから、証人と実測がいるけどな」


「余計な現実をありがとうございます」


「どういたしまして」


少しだけ笑いが起きた。


黒板の文字が揺れる。


【図なき力は存在しない】


その下に、新しい黒い線が走りかけた。


カタリナが叫ぶ。


「黒板の式に触れます!」


俺はすぐに言った。


「声に出してください。時刻と位置を」


カタリナが読む。


「時刻一、位置零」


エリザが続ける。


「時刻二、位置一」


アレクセイ。


「時刻三、位置四」


オルロフが、少し遅れて言った。


「時刻四、位置九」


その声に、会場が静まった。


オルロフが、俺たちの表を読んだ。


彼自身の声で。


黒い線が止まった。


オルロフは自分の口から出た言葉を噛みしめるように、しばらく黙った。


「図は」


彼はゆっくり言った。


「一瞬を強く見せる」


「はい」


「式は、変化を、移り変わりを見せる」


「はい」


「ならば、運動を扱うには、図だけでも式だけでも足りない」


俺は頷いた。


「そう思います」


エリザがすぐに言った。


「重要発言です。記録します」


「今のは、私の敗北宣言ではありません」


「承知しています。部分承認として記録します」


「……あなた方の記録は容赦がない」


「必要です」


オルロフは、深く息を吐いた。


「私は、幾何を捨てません」


「捨てないでください」


「しかし、あなたの解析的方法を、力学の補助として認めます」


エリザが訂正する。


「補助では不正確です。並行手段です」


「そこまで譲れと?」


「概念上、必要です」


オルロフは苦い顔をしたが、反論しなかった。


俺は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。


完全勝利ではない。


だが、それでいい。


俺は幾何を倒したいわけではない。動くものを追うために、式を足したいのだ。


その時、アンナが立ち上がった。宮廷席から、冷えた声が届く。


「アカデミーとしては、オイラー殿のこの方法を運動計算に用いる価値を認める、という理解でよろしいですか」


オルロフは、少しだけ不本意そうに言った。

「限定的には」


エリザが即座に言う。

「条件付き承認です。限定、条件、適用範囲を明記してください」


アンナは微笑む。

「もちろん。宮廷は条件が好きです」


「条件を曲げるのも好きでしょう」


「それも記録次第です」


俺はため息をついた。


勝った直後に、また政治が来る。


だが、今日はここまででいい。


黒板の黒い文字は、薄れていた。


図なき力は存在しない。


その文字は完全には消えない。だが、力を失っている。


代わりに、エリザが大きく書いた。


運動は、図と式の双方により追跡される。


硬い。


非常に硬い。


でも、残る言葉だった。


討論が終わると、聴衆のざわめきがゆっくり戻った。紙がめくられる音、靴音、低い議論。軍人は条件表を見ている。書記は必死に記録を取っている。オルロフは自分の幾何図を丁寧に巻き、俺の前に来た。


「オイラー殿」


「はい」


「あなたの式は、まだ若い」


「はい」


「しかし、若い言語にも、未来はある」


その言葉は、老学者なりの最大限の譲歩だった。


「ありがとうございます」


「礼は不要です。曖昧な定義を出したら、いつでも切ります」


エリザが横から言った。

「それは私の役目です」


オルロフは、今度こそわずかに笑った。

「では、競争ですね」


アレクセイがぼやく。

「定義を切る競争って何だよ」


俺は言った。

「少しは手加減してほしい」


カタリナが、小さく笑った。


その笑いを聞いた瞬間、右目の奥がずきりと痛んだ。


俺は反射的に目を押さえた。


カタリナがすぐに気づく。


「レオンハルト様」


「少し疲れただけです」


「右目ですか」


エリザの表情が変わる。


アレクセイも黙る。


右目で、黒板を見る。


文字が滲む。


さっきまで太く見えたエリザの一文が、右目だけでは灰色の帯になっていた。


俺は何も言えなかった。


カタリナが、そっと黒板の文字を読み上げた。


【運動は、図と式の双方により追跡される】


声なら、はっきり届いた。


紙が滲んでも、声はまだ届く。


けれど、俺の右側の世界は、また少し白くなっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ