第61話 最短ではない道
ベルリンの春は、まだ冷たかった。
雪はもう道端に黒く残るだけになっていたが、朝の空気には冬の硬さが残っている。アカデミーの中庭には、細い木製の溝板が三本並べられていた。一本は、上の台から下の台へまっすぐ降りる直線。一本は、途中で折れる角ばった道。もう一本は、最初に深く落ち、それからなだらかに下へ伸びる曲線だった。
その下には、リーデルが用意した砂時計が三つ。カタリナの大判記録紙。モーペルテュイの革表紙の手帳。ヴォルテールの笑み。全部が、朝の薄い光の中に置かれている。
「これが、今日の問題ですか」
リーデルが溝板を見比べ、いかにも納得しかねる顔をした。
「始点と終点は同じです。なら、直線が一番よいのではありませんか」
「よい、とは何ですか」
俺が聞くと、リーデルは少し固まった。
「ええと……短い、という意味で」
「では、短い道なら直線です」
「なら、答えは出ていますね」
「距離の話なら」
リーデルは、そこで嫌な予感を覚えたように眉を寄せた。
「距離以外の話なのですね」
「はい」
カタリナが、三本の溝板の横へ小さな札を置いた。直線。折れ線。深く落ちる曲線。彼女の字は今日も読みやすい。右目では細部が滲むが、札の太い文字と溝板の大きな形は追える。
「今日は、球がどの道を一番早く下りるかを見るのですね」
「そうです」
「最短ではなく、最速ですか」
「はい」
リーデルが小さく息を吐いた。
「その違いが、すでに怖いです」
モーペルテュイが静かに笑った。
「怖がるのはよいことです。自然は、しばしば人間の直感を礼儀正しく裏切ります」
「礼儀正しく、ですか」
ヴォルテールが横から割り込んだ。
「自然は礼儀正しい貴婦人ではありませんよ、モーペルテュイ殿。彼女は我々の靴を泥に沈めてから、微笑んで『道はこちらでした』と言うのです」
「あなたにかかると、自然までサロンの女主人になる」
「自然ほど気まぐれで、しかも抗議を受け付けない女主人はいません」
カタリナが小さく帳面を開いた。
「比喩語、自然の女主人。正式記録には入れません」
ヴォルテールは愉快そうに手を広げた。
「オイラー夫人、あなたの帳面は私の比喩の牢獄ですな」
「逃がすと、あとで意味が変わりますので」
「素晴らしい。意味という小鳥は、捕まえると歌わなくなるのに」
「歌わせる時は、別の紙へ移します」
ヴォルテールは声を立てて笑った。中庭の冷たい空気が、その笑いで少しだけ揺れた。
俺は三本の溝板を見た。右目の奥に、まだ白い滲みがある。けれど、今日は細字ではない。大きな曲線、木の匂い、金属球の重さ、砂時計の落ちる音。変分法の入口は、紙の上の細い線ではなく、実験として目の前にある。
モーペルテュイが手帳を閉じた。
「私は、自然が何かを節約しているように感じるのです。時間か、距離か、力か、もっと別の量か。まだ言葉にはできませんが」
「節約、という語は危険です」
俺は言った。
「何を節約しているのかを決めなければ、政治家が勝手に使います」
ヴォルテールが嬉しそうに頷く。
「まさに。自然が倹約家だと聞けば、宮廷は翌日から人間の幸福を節約し始めるでしょう」
リーデルが慌てて書き留めようとした。
カタリナがすぐに止める。
「リーデル様、それは比喩欄です」
「はい、比喩欄ですね。正式文ではありません」
「ええ。正式文は、何を最小にするかを定義する、です」
リーデルは頷いて書き直した。彼も、もうずいぶんこちらの作法に染まってきた。
実験が始まった。
まず直線の溝板。俺は小さな金属球を上の台へ置いた。冷たい球は指先に重く、朝の空気を吸った鉄の匂いがした。カタリナが砂時計を構える。リーデルが目を凝らす。モーペルテュイは身を乗り出し、ヴォルテールは腕を組んで笑みを浮かべている。
「落とします」
球を放すと、金属の小さな音が木の溝を走った。ころころ、というより、硬い虫が木の中を急いで通るような音だった。球はまっすぐ下り、下の台へ当たって止まる。
「直線、記録しました」
カタリナが言った。
「砂時計、二目盛りと少し」
リーデルが書く。
次に折れ線。
球は途中で小さく跳ね、角で速度を失った。下へ着くまで、直線より少し長くかかった。
「折れ線は遅いですね」
リーデルが言った。
「これはわかります。角で損をしています」
「損、という語は比喩です」
カタリナが柔らかく言う。
「正式には、速度が乱れた、でしょうか」
「はい」
リーデルは慌てて書き直す。
最後に、深く落ちる曲線。
その溝板は、始点から一気に下へ沈み、それから終点へなだらかに近づく。見た目には遠回りだ。距離は直線より長い。リーデルは、まだ疑わしそうに見ていた。
俺は球を置いた。
「これが一番短い道ではありません」
「はい」
「ですが、最も早いかもしれません」
「直線より長いのに?」
「最初に深く落ちると、早く速度を得られます」
モーペルテュイが低く言った。
「自然は、遠回りをして、速さを買うのか」
ヴォルテールが笑う。
「人間も時々そうしますな。結婚とか、宮廷勤めとか」
「ヴォルテール殿」
カタリナが帳面を見せた。
「それは、記録しません」
「夫人、あなたは賢明だ」
俺は球を放した。
金属球は、最初に深い曲線を滑り落ちた。木の溝が震え、低い音がした。直線より勢いがつくのが早い。球は下で速度を得て、なだらかな終点へ走る。思ったよりも速い。下の台に当たる音が、直線の時より早く響いた。
リーデルが目を見開いた。
「早い」
カタリナが砂時計を見た。
「直線より短い時間です」
モーペルテュイは黙っていた。彼の顔には、驚きよりも確認があった。自分の中にあった予感が、木と金属と時間の音になったのを見た顔だった。
ヴォルテールは、珍しくすぐには茶化さなかった。
「遠い道が、早く着く」
彼は呟いた。
「これは、詩人には困る事実です。比喩が多すぎる」
「数学者にも困ります」
俺は言った。
「最短と最速を混同してはいけない、ということです」
カタリナが、大きな紙に書いた。
最短と最速は違う。
リーデルも通常記録へ写す。
その瞬間、紙の上で最短という語の横に、黒い文字が浮かんだ。
最善。
リーデルの手が止まった。
「校閲者です」
カタリナが紙を押さえる。
黒い文字は、最短の横にぴたりと貼りつくように沈んでいく。最短=最善、とでも言いたげだった。これまで何度も見た、言葉のすり替え。橋では七本を八本にした。力学では矢印を逆にした。今度は、最短を最善へ変えようとしている。
「違います」
俺は言った。
「最短は、距離についての言葉です。最速は、時間についての言葉です。最善は、目的を決めなければ使えません」
カタリナが太字で書く。
距離。
時間。
目的。
リーデルが続ける。
「最短、距離が小さい。最速、時間が小さい。最善、目的が未定なら使用不可」
「いい書記になりましたね」
俺が言うと、彼は緊張したまま答えた。
「喜ぶのは、白化が止まってからにします」
確かに。
黒い最善の文字はまだ濃い。
モーペルテュイが手帳を開いた。
「自然が選ぶ道を語る時も、同じですね。自然が何を最小にするのかを決めなければならない」
「はい」
「時間か、距離か、力か、作用か」
作用。
その語は、まだこの場では重すぎる。だが、いつか必要になる。第七の扉はもう開きかけている。
ヴォルテールが、黒い最善の文字を見て言った。
「最善という言葉は、王と哲学者と詩人の共犯者です。数学者殿、これを使う時は、財布より先に定義を確認したまえ」
「覚えておきます」
「いいえ、書きたまえ。覚える、は人間に向きません」
カタリナがすぐに書いた。
最善を使う前に、目的を定義する。
黒い文字が揺れた。
俺はさらに書いた。
最短の道が、最善とは限らない。
その一文を書いた瞬間、黒い最善の文字は少し薄れた。完全には消えない。だが、最短に貼りついた力は弱まった。
リーデルが息を吐いた。
「最短と最速だけでも混乱するのに、最善が入ると危険ですね」
「だから、今日の主題です」
「主題?」
「何を最適にするか」
リーデルは、その言葉を丁寧に書いた。
何を最適にするか。
モーペルテュイが、深く頷いた。
「これが、我々の次の問題になりますね。道そのものを変え、何かの量を最小にする。だが、その何かを定義しなければならない」
「はい」
「君は、また大きな扉の前に立っています」
ヴォルテールが帽子を持ち上げる。
「扉なら気をつけたまえ。向こうにいるのは真理ではなく、税吏かもしれない」
カタリナが静かに言う。
「比喩欄です」
「もちろん」
実験はさらに何度か繰り返された。球の重さを変え、溝板の傾きを少し変え、砂時計の読みを比べる。すべてが完全に同じ結果ではない。木のわずかな歪み、球の表面、砂時計の揺れ。現実はいつも誤差を連れてくる。けれど、傾向は消えなかった。深く落ちる曲線は、直線より遠く見えても、早く着く。
カタリナは、最後に三本の道を一枚の大判図へまとめた。
直線。
折れ線。
深く落ちる曲線。
その下に、三つの欄。
距離。
時間。
目的。
右目でも読める太い字だ。
俺はそれを見た。白く滲む右側の視界の中で、三本の道が少し揺れている。最短の直線。最速かもしれない曲線。まだ名のない最善。道は、一本ではない。
「オイラー殿」
カタリナが言った。
「この図は、家にも写しを置きます。きっと、これから何度も使います」
「ええ」
「最短、最速、最善。三つを別々の色にします」
「お願いします」
「それから、最善にはまだ色をつけません」
「なぜ」
「目的が決まっていないからです」
俺は少し驚いて彼女を見た。
カタリナは穏やかに続けた。
「色をつけるのは、何を最善と呼ぶかが決まってからにしましょう」
モーペルテュイが感心したように頷く。
「すばらしい判断です」
ヴォルテールが言った。
「夫人、あなたは数学より政治がわかっている」
「政治ではなく、紙です」
カタリナは柔らかく返した。
「まだ決まっていないものには、余白を残します」
その余白は、今日の実験で一番大事なものかもしれなかった。
中庭の冷たい風が、紙の端を揺らす。
俺は大判図の余白を見た。
最短ではない道。
最速かもしれない道。
そして、まだ定義されていない最善。
第七の数学は、その余白から始まった。




