第8話:消えた魔法の看板
────からん、ころん
「ごちそうさまでした。この薬膳スープのおかげで、あんなにひどかった冷え性が本当に楽になりました。それに先日は役所の方まで来たそうでお疲れ様でした。また来週も予約しますね」
「とんでもないです。ありがとうございます。まだまだ朝晩は冷え込みますから、温かくしてお過ごしくださいね」
以前、冷え性とひどい疲労から「計量スプーンの祈り」によって救った女性が、今では昼の部の貸切カフェ営業の常連さんになってくれていた。
お客様の笑顔を見送り、ドアを閉めた後、私は深く、深く息を吐き出す。
「ふぅ……」
実は、ここ最近、私の体は、まるで鉛のように重かった。
昼の薬膳カフェ営業が少しずつ軌道に乗って予約が埋まり始め、夜の揉み処も連日の大繁盛。
おまけに先日は、役所の黒岩さんの査察視察なんていう、心臓が止まるかのような大イベントまであった。
元々、形から入るタイプ、そして真面目すぎる性格だ。
「完璧にやらなきゃ」「猫たちに恥じない完璧なマネージャーでいなきゃ」と、誰に頼まれたわけでもないのに、知らず知らずのうちに自分を限界まで追い込んでいたらしい。
毎日、キッチンで計量スプーンを握る手が、疲労と緊張でわずかに震えていたことにも、私は気づかないフリをしていた。
時計の針が、18時を回る。
いつものように「本日の営業終了」の札をひっくり返し、一息つく間もなく夜の『揉み処』の準備をしようとした、その時だった。
「……あれ?」
カチ、カチ、と入り口横のスイッチを押しても、外にある「本当に疲れ果てた人の目にしか映らない」あの不思議な魔法の看板に、いつもの温かいあかりがともらない。
電球が切れたのかと思い、外に出て確認してみるが、どこも壊れていない。ただ、暗闇の中に冷たく佇んでいるだけだった。何度スイッチを入れ直しても、冷徹な静寂が広がるだけだ。
「どうしたんだろう、これ……。壊れちゃったのかな……」
「にゃーん(主、当たり前だろ)」
振り返ると、ももと、ゆずが、店の入り口の敷居のところで、酷く呆れたような、そしてどこか哀れむような顔をしてこちらを見上げていた。
「にゃ(主、あの看板の仕組み、忘れたのか? 『本当にお疲れ気味の人』を呼ぶためのものだぞ)」
「え? うん、だから今夜もお客さんを、一人でも多く救おうと……」
「にゃあ(そうじゃない。主、今、この家の中で、この町で、一番ボロボロで、エネルギーが消えかかってるのは、主だって言ってるんだよ)」
ももの低く、けれど温かい言葉に、私はハッと息を呑んだ。
……言われてみれば、鏡に映った自分の顔は、いつの間にか目の下に黒いクマが居座り、肌はカサカサ。肩はガチガチに巻き込まれていた。
「私が……お疲れ気味……?」
「にゃ(気づくのが遅いんだよ。だから看板がお前を『本日最初のお客様』に指名したんだ。看板はお前の心とリンクしてるからな)」
ゆずが、私の足元にトテトテと寄ってきて、ズボンの裾をグイッと引っ張った。
そのまま、二匹に案内されるようにして、私は夜の施術部屋へと連れて行かれた。
いつもはお客様をお通しする、ぽつんと置かれたシンプルなベッド。まさか、マネージャーである自分がここに仰向けに横たわる日が来るなんて、夢にも思わなかった。
「でも、私はマネージャーだし、みんなにご飯をあげなきゃ……」
「にゃー(うるさい、喋るな、寝ろ)」
ももが低く鳴くと、私は吸い込まれるようにベッドへ横たわった。
いつも裏方に徹していたから、この部屋がこんなに静かで、落ち着く空間だということに、私自身が一番気づいていなかった。
ト、トッ。
軽い足音がして、ももとゆずがベッドへ軽やかに飛び乗ってきた。
「にゃおん(よし、いつも俺たちの施術を褒めてくれるマネージャーにお礼だ。主)」
ゆずがニヤリと不敵に笑った(気がした)。
そして、私の胸の上に、あの爪切りたての、柔らかい、ピカピカに磨かれた肉球をそっと乗せた。
ふにっ、ふにっ、ふにっ。
「……っあ、う……」
思わず、魂が抜けるような声が出た。
ゆずの肉球が、私のデコルテ、鎖骨の下のリンパが詰まりきった場所を、絶妙な強さで、じわぁっと押し込んでいく。
痛い。でも、信じられないくらい気持ちいい。
毎日、プレッシャーの中で呼吸が浅くなっていた私の胸が、肉球圧によって物理的に「ひらいて」いくのが分かった。
さらに、頭の先ではももがぐるりと丸くなった。
ゴロゴロゴロゴロ……ゴロゴロゴロゴロ……。
私の頭のてっぺんから、ももの喉鳴らしが響く。
張り詰めていた神経が、重低音の微振動によって、ジワジワと強制終了されていく。
「もも……ゆず……ありがとう……、ありがとうね……」
「にゃ(いいから黙ってろ、力を抜け)」
左右の手を、二匹の温かい体が優しく挟み込む。
いつも誰かを救ってきた我が家の小さなセラピストたちは、今夜、世界でたった一人の大切な家族を救うために、そのすべての技と愛を注ぎ込んでくれていた。
猫の体温。猫の匂い。猫のゴロゴロ音。
あんなに頑なだった私の心の結界が、みるみる溶けて消えていく。私は涙がこぼれるのも構わず、深い、深い、至福の眠りへと落ちていった。
「……はっ! 私としたことが!」
時計の針が21時を指した頃、私は勢いよく起き上がった。
不思議と、あんなに鉛のように重かった体が、言い過ぎだけど、羽のように軽い。
頭を悩ませていた料理のプレッシャーも、お店を完璧に回さなきゃという焦りも、すべてが嘘のように綺麗さっぱり消え去っていた。
「すっごく……すっきりしてる……」
ベッドの足元では、ももとゆずが「どうだ、俺たちの技のキレは?」と言わ言わんばかりに、誇らしげに胸を張っていた。
「ふふ、二人とも、最高の施術をありがとう。私、頑張りすぎてたんだね。ごめんね」
私が二匹をぎゅっと抱きしめると、ももは照れくさそうに「にゃあ」と鳴いた。
ふと、外の様子が気になって玄関のドアを開けてみる。すると――暗闇の中に、あの不思議な看板が、さっきまでの冷たさが嘘のように、ぽつりと温かい光を灯していた。
「あ、点いた……」
看板の灯りは、私の心とリンクしていたのだ。
私が元気で、心に温かい余裕がなければ、人を癒やすお店なんて開けない。
ももとゆずは、身をもってそれを教えてくれた。
「よし! 私もすっかり元気になったことだし、今夜のご飯は、感謝を込めてとびきり豪華にするからね! 高級なおやつも、山盛り大サービスしちゃう!」
「「にゃおーーーん!!(待ってました!)」」
現金なセラピストたちの歓声が、夜の店内に響く。
自分自身を癒やすことの大切さを、身をもって知った『猫の癒し』。
しかし、看板が再び温かい灯りを灯した、その直後だった。
ピカッ! ゴロゴロゴロ……!!
外では、あんなに静かだった夜が嘘のように、激しい雷鳴が響き渡り、大粒の雨が降り始めた。
この大嵐の夜、お店の歴史を揺るがす「最後の迷い客」がやってくることを、私たちはまだ知る由もなかった――。




