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猫の揉み処  作者: ゆも
第一章

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7/15

第7話:招かれざる客? 役所の査察と、脳を溶かす肉球


「ごちそうさまでした。本当にいつ来ても、隅々まで綺麗に手入れされていて、居心地が良いわね」


「とんでもないです。ありがとうございます。またお待ちしておりますね」


昼の部の貸切カフェ営業が終了し、最後のお客様を笑顔で見送った。


ほっと一息つき、フロアに散らばったわずかな猫の毛を掃除するために、粘着カーペットクリーナー(コロコロ)をかけようと手に取った、


その時だった。



─────からん、ころん。


真鍮のベルが、いつもより、少し硬く、冷ややかな音を立てた。


ドアの向こうに立っていたのは、ピシッとした、シワ一つないグレーのスーツに身を包み、腕に黒い革のビジネスバッグを抱えた、見るからに怖そうな、プライベートでは一切関わりを持ちたくないタイプの4、50代の男性だった。


「失礼します。私、町の生活衛生課の、黒岩くろいわと申します」


男性はサッと身分証を提示した。


その鋭い眼鏡の奥に光る眼光に、縮こまれそうになる。


内心では、うわー、どうしよー?と悩んでしまうぐらい苦手感が溢れていた。



「あ、はい……生活衛生課、ですか?」


「ええ。実は最近、役所の方に、この界隈で『猫が人間にマッサージを行う違法な施術所がある』という不穏な噂(口コミ)が複数届きましてね。当方は、動物取扱業の登録状況と、公衆衛生の観点から、事実関係の確認(査察)に参りました」


黒岩さんの声は、感情が一切こもっておらず、冷酷そのものだった。


「猫がマッサージ」なんて、一般常識から見れば、怪しさ満点の極み。下手をすれば公衆衛生法違反で営業停止や、最悪の処分もあり得る。


「……にゃ(なんだ、主。あの硬そうな人間は。匂いが気に入らん)」


「にゃー(お、主の顔が、ちゅ〜るを取り上げられた時みたいに引きつってるぞ)」


キャットタワーの最上階から、ももと、ゆずが、不穏な空気を察してじっと見下ろしている。


「もちろんです、調査にはご協力いたします。どうぞ、中へ……」


私は緊張で喉を鳴らし、手が震えるのを必死に隠しながら、黒岩さんを店内に案内した。


黒岩さんは、店内の匂いを嗅ぐように鼻をヒクつかせながら、土足で一歩を踏み出した。


黒岩さんの査察は、驚くほど容赦がなかった。


「ふむ……。1階のカフェスペース、全ての窓に特注の二重脱走防止柵、および住居側への遮断シャッター完備。動物取扱責任者の登録証、よし。調理師免許の掲示、よし。……ここまでは、完璧ですね」


黒岩さんは手元のクリップボードに素早くチェックを入れていく。


店主の私が「形から入るタイプ」で、防災と防犯、資格取得に人一倍気を遣い、お店の隅々まで潔癖なほどに綺麗にしていたことが、ここで初めて役に立った。


「しかし、問題はここです」


黒岩さんが、夜の『揉み処』のドアを開けた。


「ここに夜な夜な客を入れ、猫に医療類似行為、あるいはそれに準ずるマッサージを行わせているというのは事実ですか? 動物を施術に使用するとなれば、衛生面、およびお客様への安全性において、多大なリスクが――」


正論のナイフを、冷徹に突きつけてくる黒岩さん。その正論は、私にはあまりにも重すぎた。


だが、その時だった。


「……げほっ、ごほっ、ごほっ、ごほっ」


黒岩さんが、急に激しく咳き込んだ。


見ると、彼の顔色はどす黒く土気色で、眼鏡の奥の目の下には尋常ではないクマがある。


クリップボードを持つ指先が、疲労のあまりわずかに震えていた。


(この人、人を厳しく取り締まる前に、自分が今にも倒れそう……。……待って、もしここで黒岩さんが倒れたりしたら、それこそ営業停止になっちゃう!?)


「黒岩さん。……ひとまず、そこのベッドにお座りください」


「いえ、私は調査に身を……」


「いいから、どうぞ。お疲れなんですよ」


私の真剣な眼差しに圧されたのか、黒岩さんは「……失礼」と、渋々ベッドの端に腰掛けた。


その瞬間、彼の肩が「ハァ」と重く落ちた。


緊張の糸が、少しだけ緩んだのだ。


よし、ここからは私の出番じゃない。うちのエースたちの時間だ。


「もも、ゆず。……公務員さんのコリ、ほぐしちゃって」


「にゃ(待ってました、主)」


「にゃー(お役所仕事のストレス、全部抜いてやるよ)」


ト、トッと、二つの影がキャットタワーからベッドへ滑り込んだ。


「な、なんですか!? 猫……うおっ!?」


黒岩さんが声を荒らげる前に、ゆずが彼の膝の上に飛び乗り、そのまま太ももの付け根のツボを、じわぁっと肉球で踏みしめた。


先日、病院で爪を完璧なソフト肉球に切り落としたばかりの、完全無欠のソフト肉球圧。


それが、黒岩さんのズボン越しに、一番凝っている場所を的確に捉え、押し込んでいく。


「な……んだ、これは……? 痛くない……いや、温かい……?」


さらに、ももが黒岩さんの背中に回り込み、腰のすき間にぴったりと這いつくばるように寄り添って、重低音を発射した。


ゴロゴロゴロゴロ……ゴロゴロゴロゴロ……。


「ひゃあっ!?」


黒岩さんの体がビクッと震える。


猫のゴロゴロ音の周波数が、彼の硬く閉ざされた脳の緊張を一瞬で破壊していく。


昨日お薬を済ませたばかりだから、どれだけ密着してもノミ一匹いない。


「あの、黒岩さん……。うちの子たち、昨日病院で爪も丸く切ってきたばかりで、毎月のお薬も欠かしていません。町で一番清潔です、本当に……っ。だから、その、違法だなんて言わずに、どうか……」


私は祈るような気持ちで、ベッドの上の黒岩さんを見つめた。


当の黒岩さんはといえば、もう反論する言葉すら持っていないようだった。


眼鏡が心なしかズレて、目はすっかりトロンと潤んでいる。


カシャリ、と黒岩さんの手からクリップボードが床に落ちたと思えば、そのまま、彼はももを背中に背負ったまま、ベッドの上へパタリと倒れ込み、信じられないほどの爆睡体制に入ってしまったのだった。



一時間後。


夕日が出迎える中、黒岩さんは完全に「生まれ変わった顔」で店の外に立っていた。制服のグレーのスーツのシワすら、なんだかしゃきっとして見える。


「……コホン。今回の調査結果ですが、不適切な営業活動は一切認められず、むしろ地域住民の心身の健康維持に多大なる貢献をしている優良店舗である、と報告書をまとめておきます」


黒岩さんは、キリッとした表情で言った。その目には、もう先ほどの冷徹さは微塵もない。


「ありがとうございます、黒岩さん」


「いえ……。その、また『臨時の追加調査』が必要になるかもしれませんので、その時はよろしくお願いします。……それでは」


黒岩さんは何度も頭を下げ、驚くほど軽い足取りで役所へと帰っていった。


どうやら、また一人、強力なリピーターを生み出してしまったらしい。


パタン、とドアが閉まる。


「にゃあ(ふぅ。お堅い人間ほど、落ちる時は一瞬だな。骨抜きにしてやったぞ)」


「にゃ(主、お役人を丸め込んだんだ。今夜のちゅ〜るは、特大のやつで頼むぞ)」


足元ですり寄ってくる二匹の優秀なセラピストたち。


「もも、ゆず、よくやった!お疲れ様。本当に、お店が潰れるかと思って、ヒヤヒヤしたよ」


お店の最大の危機を、最高の「技」と「衛生面」で乗り越えた我が家。


絆がさらに深まった『猫の癒し』の夜は、今夜も静かに、そして温かく更けていくのだった。


しかし、この平穏な夜の裏側で、お店の「魔法の看板」にある異変が起きようとしていた――。


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