第6話:サラリーマンの再訪と、磨きかかった猫たち
昼の部の営業時間が無事に終了し、最後の予約客を見送った私は、薬膳茶の茶器の片付けをしていた。
完全予約制の貸切というスタイルをとっているため、この時間帯に不意の来客があることは珍しい。
だが、そのドアは、外からの訪問者が躊躇しているかのように、遠慮がちに、けれど確かに開いた。
「あの……すみません。お昼は予約制だってことは知っていたんですが、どうしても、今日、これを店主さんにお渡ししたくて……」
入ってきたのは、見覚えのあるスーツ姿の男性だった。
いつだったか、エネルギー切れで、ベッドに倒れ込んだ、あのサラリーマンさんだ。
あの夜から、どれくらいの月日が経っただろう。
男性の顔色は、以前に比べれば血色もよく、ずっと晴れやかだった。
その手には、高級そうな菓子折りが大切そうに抱えられている。
「あ! 先日の……!」
私が声をあげると、男性は嬉しそうに、けれど少し照れくさそうに微笑んだ。
「はい、その節は、本当にありがとうございました。あの夜から、まるで魔法にかけられたみたいに体が軽くなって、頭もすっきり冴え渡ったんです。そのおかげで、ずっと抱えていた大きなプロジェクトを成功させることができたんです。これは、その時のお礼です」
男性は菓子折りをカウンターに置くと、深く頭を下げた。
だが、その肩は内側に縮こまり、眉間には、以前はなかった新しい「責任」という名のシワが刻まれている。
「そのプロジェクトが成功して、チームのリーダーに昇格しまして。……ありがたいことなんですが、今度は、チーム全体の予算管理や、部下の育成、そして数字のプレッシャーで……。また、夜がうまく眠れなくなってしまって。今日はお休みをいただいたので、お礼だけでもと思い、来てしまいました」
(出世したのはおめでたいけれど、立場が変われば、また新しいストレスが生まれるんだなぁ……。人間の世界も大変だ……)
私が内心でそんなことを考えていると、カフェスペースの隅にあるキャットタワーの最上階から、「ト、トッ」と二つの、けれど一つのようにシンクロした影が降りてきた。
「にゃあ(おいおい、せっかくのメンテナンス直後だ、試運転といこうじゃねえか)」
「にゃ(主、昼の部はおしまいだろ? 早く鍵を閉めて、あいつをベッドへ案内しろ)」
ももとゆずだ。
昨日、動物病院での「大試練」を乗り越え、爪を切り、ノミダニのお薬も済ませて、身も心もピカピカになった二匹の目は、いつもの「病院が嫌いな猫」から、「プロの職人」の目を取り戻していた。
「ふふ、そういうことなら……。せっかくですから、少し休んでいかれませんか? この子たち、メンテナンス直後で、やる気満々みたいですよ」
私が提案すると、男性は「えっ、いいんですか!?」と、子供のように目を輝かせた。
カフェのカーテンを全て閉め、間接照明だけを残して薄暗くした施術部屋。
男性は、懐かしいベッドへとゆっくり横たわった。
「実は昨日、この子たち動物病院で爪切りをしてきたばかりなんです。いつもよりさらにバージョンアップした、極上の肉球圧が楽しめますよ」
私がタオルをかけると、ももとゆずがユニゾンのように軽やかにベッドへ飛び乗った。
「にゃ(いくぞ。研ぎ澄まされた肉球を見せてやる)」
まず動いたのは、ゆずだ。
男性の背中へ、そっと前足を乗せる。
爪を切ったばかりの、角が一切なく、 爪の角が綺麗に丸くなった前足で、ゆずは男性の背中をふにっ、ふにっと、弾むようなテンポで踏みしめていく。
「うわ……っ! 前に来た時よりも、さらに……なんというか、肌触りが滑らかです……! 痛みが全くなくて、吸い付くようにツボに入ってくる……! 凄い!」
男性が感動の声を漏らす。
これぞ、我が店が誇る「やすりがけ直後」の極上ケア。
一切の引っかかりがない滑らかな肉球が、ゴリゴリの背中に吸い付くように揉み込んでいく。
そして、仕上げはももだ。
ももは男性の腰のあたりに移動すると、そのまま、どっしりと這いつくばるようにして丸くなった。
「うお……心地よい重み……」
骨格の太いももの、5キロ弱の体重が、男性の腰に完璧な「加重ブランケット」として機能する。
これによって、緊張しっぱなしだった骨盤周りの筋肉が、じわじわと緩んでいくのだ。
さらに、二匹のシンクロしたゴロゴロ音が部屋に響き渡る。
毎月のお薬もしっかり済ませてあるから、男性の顔の近くに二匹がどれだけ顔を寄せても、お互いに何の心配もない。
これでお客さんも、余計なことを気にせずに眠れるはずだ。
安心感が格段に違う。
「あぁ……幸せだ……。部下のミスも、予算のことも、全部どうでもよくなる……」
男性の口から、深い、深い、ため息が漏れる。
背負わされた責任という重荷を、二匹の完璧な施術が、一つずつ丁寧に取っていくようだった。
────三十分後。
すっきりと目覚めた男性は、まるで10歳若返ったかのような、元気な笑顔で立ち上がった。
「素晴らしいメンテナンスでした。体だけじゃなくて、なんだか『また明日から頑張ろう』って、心に元気がみなぎってきます。ここに来ると、本当に救われます」
「リーダーも、たまには息を抜かないと持ちませんからね。いつでも逃げ込んできてください」
私が微笑むと、男性は深く頭を下げた。
「あ、そうだ。実は、職場の同僚が、最近ひどく消耗していて……。ここのことを話したら、『ぜひ行きたい』って。紹介しても構いませんか?」
「もちろんです。お待ちしておりますね」
嬉しそうに帰っていく彼の背中を見送りながら、私はハーブティーを棚に戻した。
「にゃーん(ふはは、爪切りたての俺たちの力、思い知ったか)」
「にゃ(主、試運転は大成功だな。ちゅ〜るの高級なやつ、山盛りの支給を要求する)」
満足げに胸を張るももと、すでにキッチンの方向を睨んでいるゆず。
「はいはい、お疲れ様。最高の施術だったよ、二人とも」
昨日あれほど病院で大騒ぎして隠れていた猫たちとは思えない、見事なプロの仕事ぶりだった。
私は二匹のために、とびきりのおやつを準備するのだった。
しかし、「紹介」か。
隠れ家的な静けさが気に入っていたけれど……。
この時の私はまだ知らなかった。
彼のあの何気ない一言が、思わぬ波紋を広げていくことに――




