第5話:月に一度の大試練と、雨の休日
カレンダーの5月の欄、その特定の日付には、赤ペンでこれでもかというほど大きく、無骨な二重丸印がつけられている。
本日、貸切カフェ『猫の癒し』も、夜の帳とともにひっそりと暖簾を掲げる『猫の揉み処』も、一日を通してお休み。
なぜなら今日は、我が家の愛すべき看板猫たちにとって、月に一度巡ってくる「大試練」の日——
すなわち、動物病院での定期検診、爪切り、そしてノミ・ダニ・フィラリア予防の日だからだ。
「……さて。どこに隠れたかな?」
リビングの掃除をひと通り終えた私は、周囲を見渡した。
さっきまで、窓辺の日だまりで無防備にへそ天でくつろいでいたはずの、二匹が、姿を消している。
猫の察知能力というのは、恐ろしいほど鋭い。
私がクローゼットの奥から、毎月一回しか使わない布製のキャリーバッグを取り出した、そのわずかな摩擦音。
そして、私の微かな緊張。
それだけで、二匹はもう「緊急事態発生」を察知し、完全に気配を消していた。
「ももー? ゆずー? どこにいるの? 病院行くだけだよー、痛いことしないから大丈夫だよー」
できるだけ声を明るく、優しく作りながら、ソファの裏やカーテンの陰を探す。
……いない。
最後に残った可能性、ベッドの下を覗き込むと、奥の暗闇の中に、らんらんと光る二対の眼球が、不信感に満ちた表情で並んでいた。
「にゃーん(嫌だ! 俺は絶対にあの白い服の人間には会わん! あの場所は匂いが嫌いだ!)」
「にゃ(主、俺たちを売ったな。裏切り者め。今日のおやつは、通常の3倍、いや、ちゅ〜るの高級なやつを山盛りにしろ)」
いつもは、人間たちを重低音のゴロゴロ音で溶かすセラピストたちが、今はただの「病院が死ぬほど嫌いな猫」に成り下がっている。
どうするべきか。単にここで力任せに引っ張り出すのは、素人のやることだ。猫の信頼を失うだけでなく、自分自身も傷だらけになる。
私は、彼らがお気に入りの、先端にキラキラしたフィルムがついたおもちゃ(猫じゃらし)を引っ提げ、ベッドの隙間から、彼らの狩猟本能を刺激する絶妙な角度でチラつかせた。
「ほ〜ら、楽しそうな音がするよ〜。カシャカシャ、カシャカシャ……」
「……にゃ(…っ、主め、そんな子供騙しに……! 俺は、俺は騙され……!)」
ゆずは奥でじっと耐えているが、ももは、前足がピクピクと動いている。獲物を狙うハンターのそれへと変わる。
────1分後。
本能に抗えなかったももが、「にゃあ!」と叫びながらベッドの下から飛び出してきたところを、私は、あらかじめ用意していた大きなバスタオルで優しく、かつ迅速にホールド。そのまま抵抗する間もなくキャリーバッグへ。
「まずは、もも確保」
それを見たゆすが、「ああっ、ももがやられた! 卑怯だぞ主!」とパニックになり、ベッドの奥へさらに逃げ込もうとして逃げ遅れたところを、捕まえた。
「ゆずも確保」
朝一番、私は、中から「出してくれ!」と抗議の鳴き声をあげる二匹を乗せて、いつもの動物病院へと車を走らせた。
「はーい、ももちゃん、ゆずちゃん、お利口さんにしてね〜。すぐ終わるからね」
診察台の上で、ももは私の腕に顔を埋めて、完全に現実逃避モード(お尻が丸見え)。
ベテランの獣医助手さんが、慣れた手つきでお尻をさすってくれている。
一方のゆずは、診察台の隅で「シャー!」と小さく威嚇してみるものの、数え切れないほどの猫を診てきたベテランの獣医さんには全く効いていない。
「はい、お耳、綺麗ですね。体重もキープ。うん、健康状態はバッチリです。じゃあ、爪切りしちゃいましょう」
パチン、パチン、とテンポよく、そしてリズミカルに爪が切られていく。
いつもはお客様のコリを絶妙に捉える、あの肉球の先の強力な武器が、みるみる丸くなっていく。
これで、明日からの揉み心地は、さらにソフトになるだろう。
「最後に、ノミ・ダニ・フィラリアの予防薬ね。背中にチョンとつけるだけだからね」
「にゃおーーーん!!(今、冷たいのがついた! なんて仕打ちだ!)」
ももが、この世の終わりかのような悲痛な声をあげたが、処置は一瞬で終わった。
終わってみれば、二匹ともただただ診察台の上で固まっていただけ。
待合室に戻り、キャリーバッグの中から「早く帰ろう、一刻も早く!」と無言の圧力をかけてくる二匹を連れて、私たちは会計を済ませ、我が家へと引き返した。
────13時。
帰宅した瞬間、キャリーから弾け飛ぶように飛び出した。
約四時間、二匹を別々の部屋に隔離
そして、これ見よがしに私に背中を向け、一心不乱に毛並みを整え始めた。
「ごめんって。でもね、もももゆずも、健康で長生きしてくれないと困るの。フィラリアのお薬、しなかったら、お外の悪い虫に刺されて病気になっちゃうでしょ?」
私が下から声をかけても、二匹はフイッと耳を後ろに向けるだけ。完全に拗ねている。
「……しょうがないなぁ。今日は病院、本当に頑張ったから、特別だよ」
私はキッチンへ向かった。今日はお店がお休みだ。レシピ通りの正確な計量も、薬膳の生真面目な配合も、全部なし。
お皿に、二匹が大好きな、高級なペースト状のおやつをたっぷり盛り付け、その上に、病院を頑張ったご褒美のフリーズドライのささみをトッピングする。
「もも、ゆず。お詫びの、特製おやつだよ」
ドアを挟んで、カタ、とお皿を床に置いた瞬間。
タタタタタッ!と、ものすごい勢いで二匹がタワーから駆け下りてきた。
さっきまでの怒りはどこへやら、一心不乱におやつを舐め始める。
「にゃ(うむ、主。今回の無礼は、この高級なペーストの味に免じて水に流そう)」
「にゃー(爪が軽くなった。これで、明日のマッサージはさらにキレが増すぞ。感謝しろよ)」
現金なものである。
でも、食べている姿を見ているだけで、私の心もぽかぽかと満たされていく。
夕方になり、窓の外では静かに雨が降り始めた。雨粒が窓ガラスを叩く音が、心地よいリズムを刻んでいる。
今夜は看板を灯さない。
揉み処の電気も、暖房も、つけない。
それでいい。
「よし、今日はみんなで夜更かししちゃおうか」
リビングのソファに腰掛け、毛布を膝にかけると、お腹がいっぱいになって眠くなったももが、私の膝の上にふわりと飛び乗ってきた。
反対側からは、ゆずが私の脇腹にぴったりと体を寄せてくる。
「にゃあ……(主、おやすみ。今日は疲れたな……)」
「にゃ(主、お疲れ。明日は働く……)」
病院での緊張と、おやつの満足感。二匹はすぐに、すやすやと幸せそうな寝息を立て始めた。
ゴロゴロゴロゴロ……ゴロゴロゴロゴロ……。
いつもは誰かを癒やすための重低音が、今夜は私だけのために、左右からシンクロして響いている。
ああ、私も癒やされてたんだ。
ずっと、こうやって。
この子たちの存在そのものに。
目を閉じると、二匹の温かい体温と重みが、じんわりと毛布越しに伝わってくる。
明日からはまた、たくさんのお客様を、私の生真面目な薬膳と、この子たちの極上の施術で、温かく迎えるために。
でも今夜だけは、贅沢な三人の休日だ。
『猫の癒し』の、穏やかで静かな夜が、ゆっくりと更けていく。




