第3話:看板猫のストライキと、計量スプーンの祈り
「にゃーん(……だるい、主。今日はもう、猫営業は店仕舞いだ)」
「にゃ(同感だ。俺は、ここから一歩も動かん)」
────カフェの営業終了を告げる柱時計が、18時を打った、その時だった。
いつもなら、夜の「揉み処」の準備でソワソワし始め、キャットタワーから降りてくるはずのももとゆずが、今日は違った。最上階のカビー(cubby…お気に入りの隠れ家)の中で、お互いの体をきゅっと寄せ合い、ひとつの大きな、毛玉になって完全に溶けていた。
まさかの、我が家のセラピストたちによる、夜の部「完全休業」宣言である。
「ええっ!? 2匹とも、今夜は開くって、お昼寝の前にはやる気満々で言ってたじゃない」
私が焦ってタワーの下から声をかけても、ももは、面倒くさそうに肉球をなめるだけ。
ゆずは、フイッと背け、薄目をあけて「猫は気まぐれな生き物なのだ。そんな約束は忘れた」と言いたげに、大きなあくびをひとつ。
ここ数日の、限界客たちの立て続けの来店に、小さなセラピストたちも、私には見えないところで、少しずつ疲れを溜め込んでいたらしい。
「はぁ……。生き物だもんね。そんな気分の日もあるか。仕方ない、今夜は休業に――」
──カチャ。
その時、静かにドアが開いた。
入ってきたのは、トレンチコートを着た30代ほどの、線の細い女性だった。
しかし、その表情は、雪の中に置き去りにされたかのように強張っている。唇はわずかに白く、血の気が引いている。何より、足元がふらふらとして、今にも倒れそうだ。
「あの……お邪魔します。なんだか、すごく、温かい灯りが見えて……。……げほっ、げほっ……ごめんなさい、ちょっと、風邪気味で……」
慌てて駆け寄ると、彼女の額にはうっすらと汗がにじんでいた。体が冷えているのに、仕事の手を止めることができず、無理に動き続けてきた人のよう。完全に冷えと疲労で、彼女の体が悲鳴をあげかけている。
「いらっしゃいませ。今夜は特に冷え込んでいますね。……あの、大丈夫ですか?まずは、カフェの方へどうぞ」
今夜は、うちのエースたちの「ふみふみ」は動けない。だから、カフェスペースの、一番、ストーブに近いソファ席に彼女を案内した。
椅子に腰を下ろし、小刻みに震える彼女の様子を見ながら、私は一瞬で考えた。
——今の彼女に必要なのは、表面的なマッサージじゃない。体の中から温めて、気を巡らせること、だと。
私はキッチンへ走り、計量スプーンと小鍋を引っ張り出した。作るのは、専門学校時代に頭に叩き込んだ、二十四節気の「お腹を温め、気を巡らせる、生真面目な薬膳スープ」。
生姜、ネギ、なつめ、クコの実…。
私は、計量スプーンの魔術師になったつもりで、量る。
自分の「センス」なんて不確かなものには、1ミリも頼らない。レシピ本の分量を、1グラムの狂いもなく正確に計り、鶏の出汁でじっくりと煮込んでいく。
「美味しくなれ」という、感情の揺らぎに左右されるような気持ちじゃない。
「彼女の冷えを、心を、溶かして、元気になってくれ」という、切実な「祈り」を込めて、私は科学実験のように完璧なスープを仕上げる。
「……お待たせしました。こちらをどうぞ」
湯気とともに、生姜とハーブの、どこか懐かしく、優しい香りが部屋に広がった。
女性は驚いたように顔を上げ、両手で器をそっと包み込んだ。
「わあ……温かい……」
器から伝わる温もりに、彼女の唇に、ようやく少しだけ血色が戻る。
一口、スープを口に含んだ瞬間だった。
彼女の目から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。彼女自身も驚いたように、慌てて目元を押さえる。
「すみません、急に……。最近、仕事が本当に忙しくて、ちゃんとしたご飯を食べられていなくて。
出来合のお惣菜ばかりで……。スープが、体に、じわぁって染み込んでいくのが分かります……。なんだか、すごく、懐かしい気持ちがして……」
体が温まると、心の強張りも自然となくなっていく。彼女が泣きながらもスープを飲み干す頃には、あれほど白かった顔に、ぽっと健康的な赤みが差していた。
────その時だった。
椅子の足元から、「ト、トッ」と、軽い足音が聞こえた。
「にゃあ」
さっきまで、キャットタワーで完全に「溶けて」動かなかったももとゆずが、いつの間にかタワーから降りてきて、女性の足元に静かに寄り添っていたのだ。
私は何も言わなかった。
ももが女性の足元で丸くなって、冷えた足を外側から温め、ゆずが、彼女のふくらはぎをそっと肉球で、本当に柔らかくトントンと叩き始めた。彼らなりの、お見舞いだ。
「ふふ、体の中が温まったら、今度は外側からですね。彼らも、お客様の元気な笑顔を見たかったみたいです」
私が微笑むと、女性は「ふふっ」と、今日初めての本当の笑顔を見せてくれた。
「ごちそうさまでした。本当に、体も心も、芯からポカポカです。明日から、また頑張れそう」
すっかり元気になり、伸びた背筋で彼女を送り出し、ドアを閉める。
しばらくの間、私はそのまま扉の前に立っていた。
「にゃー(主、今日のスープはいい匂いだったぞ)」
「にゃ(さすがは計量スプーンの魔術師だな。俺たちのカリカリの匂いに、少しだけ近づいてきたぞ)」
足元で、ももとゆずが私のエプロンに頭をこすりつけてくる。いつもの辛口批評は忘れていないが。
「もう、からかわないでよ。……でも、ありがとうね。最後に来てくれて」
私には、料理のセンスはない。
残念ながら直感で作ることもできない。
でも、誰かを思う気持ちで、生真面目に計って作ったものは、ちゃんと届くのだと、今夜、彼女の涙と笑顔を見て、初めて信じられた気がした。
猫たちの極上マッサージと、私の生真面目な薬膳。
どちらも、向き不向きじゃなくて——「誰かのために」という、気持ちが全てなのかもしれない。
「よし、ふたりとも。今夜のご飯は、鶏の胸肉をじっくり茹でた特製スープ仕立てだよ!」
「「にゃおーん!」」
現金な猫たちの歓声を聞きながら、私はまた、嬉しくなって計量スプーンを握りしめるのだった。




