第2話:店主の秘密と、明日のためのふみふみ
カフェの「本日の営業」が終了し、最後のお客さんを見送った後、私はキッチンのステンレスシンクの前で、今日一番の深いため息をついた。
「ふぅ……。今日も、なんとか……なんとか乗り切った……」
カウンターの向こうでは、お皿に残ったソースまで綺麗に平らげてくれたお客さんが「水無月さんが作るお料理は、本当に体に優しい味がします。この薬膳スープ、とっても美味しかったです!」と、満面の笑みで褒めてくれた。
その言葉に嘘はなかったと思う。
だけど、私の心臓は、営業開始から今まで、ずっと動機のように早い鼓動が打ち続けている。緊張で胃のあたりがキリキリと痛む。
実を言うと、私は致命的なほどに、料理というものが苦手だ。
昔、二十歳そこそこの頃に「料理ができる大人の女って、いいかも」という、今思えばよくわからない謎の憧れが湧き、その勢いのまま調理師専門学校へ通って、調理師免許まで取ってしまった。
私は「形」から入るタイプなのだ。
だから、栄養学の知識はある。
衛生管理もバッチリだ。
レシピ本の分量を、実験室の科学者のように、1グラム、1cc単位まで正確に測って作れば、合格点の味のものは作れる。
けれど、料理人にとって最も大切な「センス」や「直感」というものが、私の脳内にはたぶん存在していない。
毎日、カフェのキッチンに立つたび、不安に押しつぶされそうになりながら、包丁を握っている。
一方で、ももとゆずのために取得した『動物取扱責任者』の資格試験は、猛勉強はしたけど、思っていたよりも苦戦はしなかった。むしろ勉強すること全てが楽しくて、一発合格した。
私の情熱と才能は、料理ではなく、完全に猫に向いていた。
「にゃー(主、今日は塩を入れるとき、いつもより手が震えてたぞ。見てるこっちがハラハラした)」
「にゃ(よく専門学校卒業できたな。俺たちのカリカリのほうが、栄養バランスも味も、よっぽど安定して美味いぞ)」
キャットタワーの最上階で、香箱座りをしてくつろいでいた我が家の辛口批評家たちが、立て続けに厳しい鳴き声を上げた。
「うるさいなぁ。味は合格点を超えてるって、お客さんも言ってたでしょ。
……ほら、そろそろ夜の部の時間だよ」
私はエプロンを脱ぎ捨て、深く息を吐き出した。
料理という重圧から解放されるこの時間が、実は一日の中で、私の中で一番ホッとする瞬間だったりする。
夜の静寂の中、揉み処のドアが静かに開いた。
入ってきたのは、大学生くらいの、線の細い青年だった。
顔色が悪い、というよりは——血の気が引いて青白い、という表現の方が、今の彼には正しかった。呼吸が浅くて速い。
外見だけで分かる。
彼は自分の中の限界を、超えてしまっている。
「あ、の……。外に、明かりが見えて……」
今にも消え入りそうな声だった。
私は、できるだけ穏やかに、でも彼の耳の奥までしっかりと届くように、はっきりとしたトーンで声をかけた。
「はい、お疲れ様です。よく頑張って、ここまで来られましたね」
彼の目を見て、深く頷く。
「まずは、奥のベッドにうつ伏せになってください。時計やアクセサリーは外してくださいね」
青年はノロノロとベッドへ向かうと、そのまま突っ伏した。
私はベッドの横に立ち、彼の上からタオルをかけ、背中にそっと触れる。
……うわ、ガチガチ。大袈裟だが、まるで、コンクリートの塊を触っているみたい。
彼の心臓が、衣服越しでも分かるくらい、ドクドクと不規則に脈打っていた。
「全身に、ものすごく力が入っていますね。毎日、眠れていなかったんじゃないですか?」
「はい……。明日が、ず、ずっと憧れてた会社の、最終面接で……。失敗したら、僕の人生、全部終わりだと思ったら……急に息がうまくできなくなって……」
彼の声が、途中でわずかに震えた。
ああ、それは怖いよね。
そのプレッシャーは、二十歳そこそこの背中には重すぎる。
私も思わず胸が痛くなり、彼の背中に置いた手に、少しだけ力を込めた。
でも、今の私にできる言葉かけはここまでだ。
ここから先は、私の領分ではない。
あとは、うちのエースたちに任せる。
音もなく、キャットタワーから二つの影が舞い降りた。
「にゃ(待たせやがって)」
「にゃー(お安い御用だ)」
ももとゆずが、迷いのない足取りでベッドに乗り上がる。
「えっ!? ね、猫……?」
青年が、驚きと戸惑いの声を上げた。
「驚かないでくださいね。うちの、施術師たちです」
青年が状況を理解する間もなく、二匹の完璧な連携が始まった。
まず動いたのは、ゆずだ。
青年の強張った腰から背中にかけて、交互に前足を突き出しながら、ゆっくりと体重をかけ始めた。
世に言う『ふみふみ』だ。
しかしただの甘えのふみふみではない。
ゆずは脊柱起立筋のキワ——絶妙に凝り固まったツボを、的確に、そしてリズミカルに捉えて、踏んでいる。
「う、わ……。あ、痛っ、いや、痛気持ちいい……!? え、猫ってこんなに力強いの……?」
続いて、ももが動いた。
青年の肩甲骨のすき間に、すっぽりと香箱座りでおさまった。
猫の体温は、人間より少し高い。
最高級だけど、温度調節は利かない気まぐれな湯たんぽが、青年のガチガチの肩をじんわりと温めていく。
ゆずが揉みほぐし、ももが温める。
完璧な連携だ。
「はぁぁ……」
ため込んでいた熱い吐息が、青年の口から静かに漏れた。
「猫ちゃんの体重が……ちょうどいい……。あったかくて、なんだか、すごく、落ち着く……」
「猫のゴロゴロ音には、人間の自律神経を整える効果があるんですよ。難しいことは考えなくていいです。ただ、身を委ねてください」
私はそっとカウンターへ戻り、ハーブティーを仕込みながら、横目で彼の様子を見守った。
カモミールとレモンバームのブレンドだ。緊張を解すのに向いている。
ガチガチだった青年の背中の筋肉が、つきたてのお餅のように、少しずつ、少しずつ柔らかくなっていく。
部屋には「ゴロゴロ、ゴロゴロ……」という幸せな重低音だけが、静かに満ちていた。
「……はっ! 僕としたことが、つい寝てしまって……!」
三十分後、青年が勢いよく起き上がった。
さっきまでの青白い顔が嘘のように、健康的になっていた。
「それが、ここでの正しい過ごし方ですから」
私はそう言いながら、温めておいたハーブティーをそっと差し出した。
青年はカップを受け取り、一口飲んで——自分の両手を見つめた。
「すごい……体が軽い。頭がすっきりして……なんか、明日いける気がしてきました」
「きっと、全力を出し切れますよ。頑張ってくださいね」
青年は深々と頭を下げ、すっかり伸びた背筋で、力強く夜の街へと帰っていった。
扉が閉まる。
静まり返った店内で、私はももとゆずの頭を、順番に撫でた。
「ふぅ。二人とも、お疲れ様。今日も最高の仕事だったね」
「にゃ(当然だ)」
「にゃー(ごはん大盛りで頼むぞ)」
鳴き声ひとつで人を救う、我が家の小さなセラピストたち。
料理ベタな店主と、頼もしすぎる二匹の夜は——今夜も、静かに更けていく。




