表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
猫の揉み処  作者: ゆも
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/15

第1話:夜限定、猫の揉み処へようこそ

────からん、ころん。


ドアに取り付けた真鍮のベルが、夕暮れの店内に控えめな音を立てて響いた。


「ありがとうございました。またいつでも、お気軽にお待ちしておりますね」


「ごちそうさまでした。本当に……なんだか、荒立っていた心が洗われたみたいです。絶対にまた予約します!」


 扉の向こうから入ってきたときは、仕事の重圧で今にも泣き出しそうな顔をしていた会社員の女性。

彼女は今、満面の笑みで、何度もこちらに手を振りながら店を後にしていった。


 私——水無月みなづき あかりは、ゆっくりと閉まっていく木製のドアを見送りながら、小さくため息をついた。


 良かった。


 今日も、ちゃんと誰かの心を癒やすことができた。


 張り詰めていた緊張がほどけ、じんわりと胸の奥が温かくなっていく。


 お客さんが笑顔で帰る。

 その瞬間が私は好きだった。




 ここは、都会から少し離れた、緑の豊かな、いい方を変えれば、何もないとある田舎の町。


 のどかで、時間の流れが少しだけゆっくりに感じられる通り沿いに建つ、古びた、一軒家。それが我が家であり、私が営む猫カフェ『猫の癒やし』だ。


 2階建ての建物の1階部分をまるごと店舗に改装し、裏手には母が毎朝水をやっている手作りの小さな野菜畑がある。


 昔から料理が特別得意だったわけではない。

 けれど、ある時期「食から人を元気にしたい」と思い立ち、調理師学校に通って免許を取った。


 猫カフェではなく、猫に癒されるカフェなら、二匹とも一緒にいれると思い、動物取扱責任者の資格も猛勉強して取得した。


 店で出しているのは、私の母の手も借りながら、裏の畑で採れた新鮮な野菜を使って作る、体に優しい手作りスイーツや薬膳メニュー。


「あそこに行くと、なんだか体が軽くなる」


 そんな噂が口コミで少しずつ、本当に少しずつ広まり、今では1日1組限定の「隠れ家貸切カフェ」として、ひっそりと、でも途切れることなく予約が埋まるようになっていた。


 生き物の命を預かる以上、防犯と安全対策には気を遣ってきた。全ての窓には特注の脱走防止柵をガッチリと取り付けた。


 ちょっと神経質でやりすぎかもしれない、と思うこともある。でも昔、窓の鍵を開けたり、網戸を突き破って脱走したから、それくらいなるのは仕方ない。



「ふぅ……。今日も無事に終わったね。もも、ゆず、お疲れ様」


 店内のモップがけを終えてから声をかけると、部屋の隅にある大きなキャットタワーの最上階から、タイミングを合わせたように「にゃあ」と「にゃん」という短い返事が降ってきた。


 真っ白ではなく、クリーム色と、優しい薄茶のぶち模様がある『もも』。


 そして、真っ白な体に、黒い斑模様がある『ゆず』。


 我が家の愛すべき、そして誇るべき雑種のオス猫たちだ。


――と、今でこそ「頼れる男の子たち」として堂々と紹介できるが、実はこの可愛らしい名前に落ち着いたのには、私の初心者ゆえの、ちょっと恥かしいやらかしが原因だったりする。


 数年前、この子たちがまだ手のひらに乗るほどのサイズだった頃、知人から「元気なメスの姉妹が生まれたから、引き取ってくれないか」と言われて我が家に貰い受けた。


 猫を飼うのが完全に初めてだった私は、その言葉を疑うこともなく、完全に信じきっていた。


 先入観と思い込みの力というのは、本当に恐ろしいものである。子猫たちが自分の名前に反応して耳をピクピクさせるようになるまでの間、私は毎日「ももちゃん、ゆずちゃん、可愛いねぇ」と声をかけ、疑うことなくピンク色のリボンやおもちゃを買い与えていたのだ。


 だが、生後数ヶ月が経ち、初めての健康診断のために訪れた動物病院で、運命の瞬間は訪れた。


 ベテランの先生は子猫の尻尾をひょいと持ち上げると、「あれ?この子たち二匹とも、立派なオスですね」と、あまりにもあっさりと告げたのだ。


「えっ!?」


 診察室で笑い話になるぐらい驚いた。

 それを帰宅して母にも伝えると、母もかなり驚いていた。そして、二人で笑った。


「看護師さん達にオスもメスもわからないと思われてたよねー?」とか言いながら。


 しかし、すっかり自分の名前に愛着を持ってしまい、「もも」「ゆず」と呼ばれるたびに嬉しそうに尻尾を立てる二匹の呼び名を、今更変えることなんて、どうしてもできなかった。


 名前を考えた時も、メス猫の名前で、可愛いらしさや、縁起のいい名前で調べて、「もも」と名付けたから。ゆずは祖父が付けた。たぶん運気がどうこう言っていたから、ネットで調べたんだと思うけど、もう亡くなったから聞く事はできない。


 それに誰も指摘してくれなかったから、SNSにアップしても、誰か一人ぐらい、「メスじゃないですか?」みたいな事言ってくれたら、と他力本願な事を思ったり、猫を昔飼っていたという祖父も何も言わなかったから、私にはわからなかった。


猫がオスメス変わらず、座っておしっこするなんてまずそこを知らなかったのだ。


 結果として、今ではキリッとした目元のゆずと、骨格のしっかりしたももは――、立派な男の子でありながらも、我が家のセラピストとして、可憐な果物の名前を堂々と襲名し続けている。


 普段の営業中は、私にベタベタの甘えん坊な2匹だが、実はかなりの人見知りという一面もある。


 見知らぬ人間がどっと押し寄せると、2匹でひとつの毛布にきゅっとお団子のように固まって、じっとこちらの様子を伺うような子たちなのだ。


 だからこそ、この店を完全予約制の貸切というスタイルにしている。


 そのくせ、夜になると彼らは急に気が変わることがある。


 そして私には、家族にも、親友にも、世界中の誰にも話していない絶対の秘密がある。


 なぜだか分からないけれど、私には、この子たちの「言葉」が、人間の言葉としてハッキリと聞こえる。


 柱時計の針がカチリと18時を回り、私は入り口のドアに掛けられた「営業終了」の札をひっくり返した。


 鍵を閉めて、ようやく一息つこうとした、まさにその時だった。


「にゃー(お疲れさん、主。よし、今日はこれからマッサージ店を開くぞ)」


 トテトテと軽い足音を響かせてキャットタワーから降りてきたももが、私のジーンズの裾を前足でカリカリと引っ掻いた。背中をきれいに丸めて、早くしろと言わんばかりだ。


「えっ、今夜は開くの? お昼寝のときは、今日はもうだるいから休むって言ってたのに。本当に猫の気まぐれなんだから、もう……」


「にゃ(猫だからな。さっき外を見たら、死にそうな顔をしてるやつがこっちに向かって歩いてくるのが見えたんだ。癒やしてやるぞ)」


 遅れてやってきたゆずも、やる気十分といった鋭い眼差しでこちらを見上げてくる。


――こういう時の2匹は、テコでも動かない。絶対に引かないのだ。


 猫特有の謎の使命感に燃えている彼らを止めることなどできない。


 私は降参の意を込めて苦笑いしながら、エプロンのポケットから、カフェスペースの隣にある「鍵のかかった小部屋」の鍵を取り出した。


 夜限定、知る人ぞ知る裏メニュー『猫の揉み処』。



 そこは、小さな木製のカウンターと、部屋の奥にシンプルなマッサージベッドがぽつんと置いてあるだけの、静かでこぢんまりとした空間。


 私が部屋の明かりを落とし、間接照明を灯すと同時に、店の外の軒下にある、小さな看板にぽつりと灯りがともる。


 実は、この看板にはちょっとした……いや、かなり不思議な仕掛けがある。


 どれだけ探しても、五感が正常で元気な人には、この看板の灯りが見えないらしいのだ。


 本当に心身ともに疲れ果て、追い詰められ、誰かの助けを求めている限界の人にしか、その光は映らない。


 なぜそんなことが起きるのか、理由は私にも分からない。


 気づいたらそうなっていたのだ。まだ防犯対策をしていない時に、2匹が、脱走し、夜の街から最初の「迷い人」を連れてきたあの夜から、ずっと。


 だから、この揉み処のドアを叩く人は、いつも決まって、今にも消えてしまいそうなほど暗く、限界ギリギリの顔をしている。


────カチャ。


 静寂に包まれた店内に、静かにドアが開く音が響いた。


 入ってきたのは、両肩が深く落ち込み、見るからにエネルギーが無さそうなスーツ姿のサラリーマンの男性だった。


 年齢は三十代半ばくらいだろうか。髪は少し乱れ、ネクタイも緩んで斜めに曲がっている。


「……すみません、遅くに……。ここ、マッサージか何かをやっていらっしゃるんですか……? 営業回りでクタクタになって、ふらふらしていたら、急に、見たこともない温かい灯りが見えて……」


 男性は疲労のあまり、視界も霞んでいるようで、自分がどこにいるのかもよく分かっていない様子だった。けれど、その足元にはすでに、2匹の優秀な「モフモフのセラピスト」たちが、プロの顔つきでスタンバイしていた。


「いらっしゃいませ。よくおいでくださいました。どうぞ、お荷物はそちらに置いて、奥のベッドへうつ伏せになってください」


 私が優しく声をかけて案内すると、男性は吸い寄せられるように、重たい体をベッドへ横たえた。


 よし、ここからは私の出番ではない。私はただの受付兼、彼らのマネージャーだ。裏方に徹して、彼らの仕事を見守る時間である。


「にゃ(よし、ゆず、いくぞ。俺は頭から攻めるから、お前は背中な)」


 ももの合図とともに、ゆずがポテポテと柔らかい足音を立ててベッドに飛び乗り、男性の広い背中の上に、そっと温かい白黒の前足を乗せた。


「うおっ!? ……え? 猫……ですか……?」


「どうぞ、そのまま力を抜いて、目を閉じていてくださいね。この子たちに任せておけば大丈夫ですから」


 私が囁くと、男性はかすかに息を吐いて脱力した。


 ゆずは職人のような真剣な目で凝りの中心を見定めると、左右の前足を交互に、リズミカルに動かし始めた。


 ふにっ、ふにっ、ふにっ。


 肉球が、男性のガチガチに固まった背中のコリを絶妙な加減で捉えていく。


「う、うわあ……なんだこれ、めちゃくちゃ気持ちいい……」


 男性の口から、魂が抜けるような極楽の吐息が漏れる。


 さらに、ベッドの枕元では、ももが男性の頭のすぐそばで、くるりと丸くなった。


 ゴロゴロゴロゴロ……ゴロゴロゴロゴロ……。


 静かな部屋に、ももの喉鳴らしが響き渡る。


 茶白の体から放たれる心地よい微振動が、波のように男性の脳へと染み込んでいく。


 ゆずによる至高の肉球マッサージと、ももが奏でる重低音の天然ヒーリングBGM。


 これぞ、我が店が誇る極上の「猫セラピー」だ。


 私はカウンターの隅にそっと腰を下ろし、顎を引いて一心不乱に施術を続ける2匹のクールで頼もしい仕事ぶりを、温かい気持ちで見守った。


 今夜も、ちゃんと必要な人に、彼らの癒やしが届いている。


「……はっ!?」


 それからちょうど三十分後。男性が、魔法から覚めたかのように突然、勢いよくベッドから飛び起きた。


「すみません! あまりの心地よさに、完全に意識を飛ばして寝てしまって……! って、あれ……?」


 男性は自分の両肩をぐるぐると回し、不思議そうに首を傾げた。


 さっきまで鉛でも詰まっているかのように重く、鉄板のように硬かった体が、嘘のように軽い。

 どんよりと曇っていた頭も、まるですっきりと晴れ渡った晴れの日の空のように冴え渡っている。


「信じられない……。あんなに辛くて、明日仕事に行けるか不安だったのに、すっかり楽になってる。一体、どんな魔法を使ったんですか……?」


「ふふ、当店特製の、特別なマッサージですよ。お代は現金払いのみです」


 男性は、呆然としながらも、それでいて心の底から感動した様子で財布を取り出し支払い、「本当に、ありがとうございました!」と何度も何度も頭を下げて、足取り軽く、夜の街へと帰っていった。


 さっきの疲れ果てた影は、もう彼の後ろ姿のどこにも残っていなかった。


 パタン、と静かにドアが閉まる。


 と同時に、2匹のプロフェッショナルな顔が、一瞬でいつもの「我が家の可愛い飼い猫」に戻った。


「にゃあ(ふぅ、一仕事終えた後のカリカリは最高なんだよな)」


「にゃ(主、お腹空いた。今日は頑張ったから、あの高い缶詰のやつ、つけて)」


 ベッドから器用に飛び降りてきた2匹が、私の足元に2匹並んで身体をこすりつけ、しっぽをピンと立てて催促してくる。


「はいはい、お疲れ様。もも、ゆず。今日も本当に素晴らしいセラピストだったね」


 2匹に夕ご飯をあげ、片づけを済ませて、さあ私も自分の夕食でも、と思ったその時だった。




────からん、ころん


 また、真鍮のベルが鳴った。


 私は思わず時計を見た。夜の七時を少し回ったところだ。もう客は来ないと終わりモードでいたが、まだ灯りは点いていた。


 首を傾けると、ゆずがすでに扉のほうをじっと見つめていた。その瞳は、先ほどのサラリーマンの男性が来た時と同じ――研ぎ澄まされた、仕事モードの目だった。


「にゃ(来た。今夜はもう一人いるぞ)」


「えっ、まだやるの……?」


「にゃあ(こっちのほうが重症だ。主、早くドアを開けてやれ)」


 ももが短く鳴いて、私のすねに頭をぐりぐりと押しつけてくる。これは急げという合図だ。


 私はため息とも苦笑ともつかない息を吐きながら、鍵を開けた。


 扉の前に立っていたのは、二十代後半くらいの若い女性だった。


 背は私より少し高く、くすんだベージュのロングコートを着ている。コートの前をしっかり合わせているのに、それでも寒そうに、自分の腕を両手でぎゅっと抱え込んでいた。今夜はそこまで気温が低いわけでもないのに。


 顔色が悪かった。血の気が引いていて、唇の色も薄い。化粧っ気はなく、目の下には、一日や二日では作られないような濃い隈が刻まれていた。目が真っ赤に腫れていて、ついさっきまで泣いていたのだと、一目でわかった。


「……あの」


 彼女は消え入りそうな声でそう言ったきり、続く言葉を見失ったように黙り込んだ。


 視線がさまよい、私の顔と、店内のほの暗い間接照明と、足元のゆずをぐるぐると行き来する。


「いらっしゃいませ」


 私は、できるだけ静かに、穏やかに言った。驚かせないように、追い立てないように。


「よかったら、中へどうぞ。外は肌寒いでしょう」


 彼女は少しためらうように、唇を一度きゅっと結んだ。それから、まるで最後の力を振り絞るように、こくりと小さく頷いた。


 揉み処に通して、ベッドに案内しようとすると、彼女は首を横に振った。


「あの……寝転がるのは、ちょっと……」


 細い声だった。

 無防備な姿勢をとること自体が難しい人がたまにいる。


「じゃあ、こちらの椅子に座りましょうか」


 私はカウンター脇の椅子を引いた。厚みのあるクッション材が入った柔らかい椅子だ。彼女はそこに、ゆっくりと腰を下ろした。


 すると、ゆずがしずしずと近づいてきて、彼女の膝の上に、音もなく飛び乗った。


「わっ……」


 彼女の体がびくりと揺れた。


 けれど、ゆずは動じない。そのまま膝の上でくるりと一回転すると、丸くなって、じっとそこに鎮座した。重さが均等に膝にかかる、安定した体勢で。


「猫……」


 彼女は呆然とつぶやいた。


「ゆずといいます。気に入った人の膝から、絶対に動かないんですよ、この子は」


 私が小さく笑うと、彼女も、引きつりそうな唇でわずかに笑みの形を作った。


 ももはというと、カウンターの上に前足をついて、彼女の顔の高さにぴたりと視線を合わせ、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。


 ゴロゴロ……ゴロゴロ……。


 いつもより音量が控えめな気がした。激しくならないように、そっと寄り添うように、丁寧に調節されたような振動だった。


 私は何も言わずに、小さなカップに温かいハーブティーを淹れて、そっと彼女の前に置いた。


 しばらく、沈黙が続いた。

 私は元々こういう沈黙は苦手なのだ。

 だけど、ももとゆずがいるから大丈夫。


「……会社、辞めてきました」


 彼女がぽつりと言った。


「今日、上司に言って……そのまま、荷物をまとめて出てきて……。三年いたんですけど、もう、限界で」


 声が、途中で揺れた。


「辞めること自体は、後悔してないんです。本当に。もう限界だったから。でも……でも……」


 コートの袖で、目の端をそっと押さえる。


「なんか、急に怖くなっちゃって。これから、どうしよう、って。ひとりで歩いてたら、もう足が動かなくなって。そうしたらなんか……あの、変な話なんですけど、急に、温かい灯りが見えて……」


「変じゃないですよ」


 私は静かに言った。


「その灯りは、あなたに見えるべくして見えたんだと思います」


 彼女はぱちぱちと瞬きをした。それからまた、視線をゆずに落とした。


 ゆずは相変わらず、微動だにせず彼女の膝の上に収まっていた。温かい体が、じんわりと彼女のコート越しに伝わっているはずだ。


「……柔らかい」


 彼女が、ゆずの背中にそっと手を伸ばした。


「いいですよ。撫でてあげてください。喜びますから」


 細い指が、ゆずの毛並みをゆっくりとなぞる。


 ゆずは目をほそく細めて、ゴロゴロという音をもも譲りの重低音で奏で始めた。まるで「そうそう、そこそこ」と言うように、頭を彼女の手のひらに押しつける。


「にゃ……(よし、もっと撫でろ。逃がさないぞ)」


 ゆずが小さく鳴いた。私には聞こえているが、彼女にはただの「にゃん」と聞こえているだろう。


「……なんか、泣けてきた」


 彼女がぽつりと言った。涙をこらえる声ではなく、不思議そうな、柔らかい声で。


「泣いていいですよ」


「でも、もう散々泣いたはずなのに……」


「それは、ひとりで泣いてたんでしょう。ここでは、ゆずが一緒にいますから」


「にゃ(泣け泣け。全部俺の毛に吸わせてやる)」


 ゆずがまた短く鳴いた。


 彼女は、くすりと笑った。三年分の疲労と不安と悲しみを積み込んでいるはずの顔が、その瞬間だけ、すっとほどけた。


「なんか、この子……喋ってるみたいですね」


「そうなんです。気が利くんですよ、うちの子たちは」


「にゃあん(気が利くのではなく、俺が有能なんだ)」


 カウンターの上からももがそう鳴いて、むすっとした顔で尻尾を振った。私は噴き出しそうになるのを、辛うじてこらえた。


 彼女はそれから、たっぷり一時間、ゆずを膝に乗せたままそこに座っていた。


 話したいときは話し、黙りたいときは黙った。ハーブティーをゆっくりと飲み、私が途中で出した小さな干し芋のお菓子を、「美味しい」と言いながら食べた。


 私は余計なことは言わなかった。アドバイスもしなかった。ただそこにいて、彼女の言葉が出てきたときだけ、静かに受け取った。



 一時間後。


「……なんか、すごく眠い」


 彼女が目をこすりながら言った。


「今日、ちゃんと眠れそうな気がします」


「それは何よりです」


「こんなとこ、よく来れたな、私……」


 彼女は苦笑しながら立ち上がり、名残惜しそうにゆずを膝から下ろした。ゆずはふてぶてしい顔で着地し、そのままペタリと床に座って彼女を見上げた。


「にゃ(また来い。次は背中も揉んでやる)」


「ゆずが、またいつでもどうぞって言ってますよ」


 私が訳すと、彼女は今度こそ、ちゃんと笑った。目の端に涙の跡が残ったままの顔で、でも、確かに笑った。


 そして彼女は深くお辞儀をして、夜の道へ出ていった。


 パタン、と静かにドアが閉まる。

 と同時に、2匹のプロフェッショナルな顔が、一瞬でいつもの「我が家の可愛い飼い猫」に戻った。


「にゃあ(ふぅ、一仕事終えた後のカリカリは最高なんだよな)」


「にゃ(主、お腹空いた。今日は頑張ったから、あの高い缶詰のやつ、つけて)」


 ベッドから器用に飛び降りてきた2匹が、私の足元に2匹並んで身体をこすりつけ、しっぽをピンと立てて催促してくる。


「今夜のご飯は奮発して、とっておきのマグロ缶を開けちゃうよ」


 缶詰を開ける音がしたとたん、二匹が台所に向かって全力疾走した。さっきまでのどっしり構えたプロの面影は、どこにもない。


 私は二匹が食べる姿を眺めながら、ようやく自分のために、湯を沸かした。今夜は遅くなったから、簡単なもので済ませよう。


 窓の外には、静かな夜が広がっていた。


 この田舎の町の夜は、都会と違って、本当に静かだ。車の音も、人の声も、ほとんど聞こえない。ただ、どこか遠くの草むらで鳴く虫の声と、風が葉をゆらす音だけがある。



私が声をかけると、ももは尻尾だけを一度ぱたんと動かした。


ゆずは聞いているのかいないのか、そのまま眠そうに目を細める。

窓の外では、風が木々を揺らしていた。

明日もまた、誰かがあの灯りを見つけるのかもしれない。

私は湯気の立つ湯呑みを手に取り、静かな夜を眺めた。



 今日の一日が、ゆっくりと体の中を通り過ぎていく。


 朝、仕込みをしながらゆずに踏まれたこと。昼のカフェのお客さんが喜んでくれたこと。夕方の片づけ。そして、今夜の二人のお客さん。


 お疲れ気味のサラリーマンの男性と、会社を辞めてきたばかりの女性。


 二人とも、今頃どこかで眠っているだろうか。ぐっすりと、深く、明日のことを少しだけ軽い気持ちで迎えられるように、眠れているといい。


 食べ終えたもももゆずが、お互いの体をなめ合いながら、そのままうとうとし始めた。二匹がくっついて丸くなると、まるでひとつの大きなお団子みたいになる。


 猫たちの「気まぐれ」に振り回される私の毎日は、ちょっと忙しくて、不思議に満ちているし、大変だけど───


 幸せな時間だ。


 明日もきっと、あの看板の灯りが、誰かの目に映る。


 「今日も、お疲れ様でした」


 私はもう一度、小さく声をかけた。


 私が声をかけると、ももは尻尾だけを一度ぱたんと動かした。


 ゆずは聞いているのかいないのか、そのまま眠そうに目を細める。


 窓の外では、風が木々を揺らしていた。


 明日もまた、誰かがあの灯りを見つけるのかもしれない。


 私は湯気の立つ湯呑みを手に取り、静かな夜を眺めた。


お読みいただき、ありがとうございました。


私の願望(猫との意思疎通)と、猫の病院(実体験)を交えて書きました(・_・;

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
すごく良かった。 家の猫は娘にしかふみふみしないから、 わかる願望だった
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ