第3話:お役所と、危険な愛
──お昼を過ぎて、ももは光が差し込む窓際から一歩も動こうとせず、ゆずはキャットタワーのハンモックに腰を据えて、いつもより念入りに、時間をかけて自身の前足を毛づくろいしていた。
まるで、これからやってくる「誰か」を万全の態勢で迎えるための準備をしているかのように。
「ふふ、ふたりとも、今日来るって覚えてたんだね」
私がぽつりとつぶやくと、二匹は声を出して返事こそしなかった。けれど、ピクりと同時に動いた耳の角度が、「当然だろ、主」と物語っていた。
――からん、ころん。
新調した真鍮のベルが、鳴り響いた。
ゆっくりと開いた扉の向こうに現れたのは、仕立てのいい、けれど少し肩のあたりにしわの寄ったスーツを着込み、あの見慣れた黒いビジネスバッグをしっかりと抱えた、おなじみのシルエットだった。
「黒岩さん、いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
「……お邪魔します」
お堅い公務員である黒岩さんは、新しくリニューアルされた室内へ一歩足を踏み入れると、普段の厳しい表情のまま、けれど小さくその目を見開いた。
「店舗を全面リフォームされた、というのは本当だったのですね。……非常にいい木の香りがする。壁や床の素材も、以前より格段に上質なものを使っているようだ」
「ふふ、気づいていただけましたか? 黒岩さんにお墨付きをもらえるなんて、光栄です」
「……ええ」
黒岩さんはそれだけ言うと、ふっと視線を落として口をつぐんだ。
いつもなら「衛生管理のチェックだ」とすぐにクリップボードを取り出すはずなのに、今日の彼はどこか上の空だった。
前回お会いしたときよりも明らかに顔色が悪く、目の下のクマも刻んだかのように深く影を落としている。
何より、ビジネスバッグの持ち手を握る彼の手が、本人も気づいていないほど小さく、小刻みに震えていた。
「黒岩さん、今日は『定期調査』の書類はお持ちですか?」
「……そのつもりで、寄ったのですが」
黒岩さんはそれ以上取り繕うのを諦めたように、深く、重いため息をついた。
「正直に申し上げます。本日は、調査などという名目は後付けです。ただ……どうしても、ここに来なければ、自分が保てないような気がして」
私は淹れかけていたお茶の手を止め、そっと微笑んだ。
「薄々、気づいていましたよ。黒岩さんが親身になって腕のいい大工さんを紹介してくださったおかげで、この新しいお店も無事に、最高の形で完成したんですから。今日は、お仕事の難しいことなんて全部忘れて、思いっきり猫たちに甘えていってください。どうぞ、こちらのベッドへ」
「……お言葉に甘えて。すみません、失礼します」
黒岩さんが眼鏡を外し、大きな体をベッドに横たえた瞬間、ももとゆずが待ってましたとばかりに、示し合わせたような無駄のない動きでベッドへと飛び乗った。
「にゃあ(お役人、今日はいつも以上に心がカラカラだな。ボロボロじゃないか)」
「にゃ(任せておけ。新店舗オープン記念のフルコースでいってやる)」
ゆずが首筋から肩のラインへ、ももが腰から背中の中央へと陣取る。
ゴロゴロゴロゴロ……ゴロゴロゴロゴロ……。
まだ新しい無垢材のベッドのフレームを伝って、二匹の重低音のゴロゴロ音が振動となって黒岩さんの体に響き渡る。
「……っ、う……」
黒岩さんの口から、言葉にならない深い吐息が漏れた。
「今年度から……組織の改編がありましてね。私の担当する件数が、従来の倍近くに増えたのです」
目をつぶったまま、黒岩さんがぽつり、ぽつりと吐き出し始めた。
「住民からの容赦のない苦情の処理、それを出さざるを得ない上層部への膨大な報告書類。さらに、新しく入ってきた部下たちの育成まで、すべてが私の肩に圧しかかってくる。……職場の誰にも、家に戻っても家族にさえ、こんな弱音を吐いたことはありません。初めてです」
「にゃ(うん、喋っていいぞ。お前のそのガチガチのプライドは、ここで脱ぎ捨てていいんだからな)」
ゆずが黒岩さんの肩甲骨の裏の、一番凝り固まったツボを、じっくりと、優しく肉球で押し込んでいく。
「……不思議だ。本当に、この猫たちに話しかけられ、慰められているような気がする」
「ふふ、気のせいなんかじゃないかもしれませんよ。この子たち、人間の言葉も気持ちも、全部お見通しですから」
黒岩さんの口元が、わずかに緩んだ。
「役所という組織は、誰かに弱音を吐ける場所が本当にないんです。上を見ても、下を見ても、横を見ても、みんな自分のことで手一杯だ。……まさか、こんな小さな猫の揉み処で、自分がこれほどすべてを吐き出すことになるとは思いもしませんでしたが」
「いいんですよ、ここはそういう場所ですから。お疲れの人間を全肯定して、ただ癒やすためだけの空間なんです」
ゴロゴロゴロゴロ……。
もものどっしりとした温かい重みが、黒岩さんの張り詰めていた自律神経を、じわじわと、時間をかけて解きほぐしていく。
それからしばらくして、黒岩さんの呼吸が、深く、規則正しいものへと変わっていった。少しずれた眼鏡の奥で、彼の険しかった眉間のシワが完全に消え去っている。
今夜も、お堅いお役人は、あっという間に至福の眠りへと落ちていったのだった。
一時間後。
施術を終えた黒岩さんは、いつものようにキリッとした表情を取り戻し、衣服を整えてお客様用の扉へと向かった。
「……新店舗の衛生管理、および動線管理、引き続き一切の問題ありません。完璧です」
「ありがとうございます、黒岩さん」
「それと、だ」
黒岩さんはそこで一度言葉を切り、少しだけ声を落として、照れくさそうに言った。
「来週の同じくらいの時間帯に、また、追加の『定期調査』に伺う必要があるかもしれません。何分、新店舗ですので、経過観察が必要でして」
「ふふ、わかりました。臨時の定期調査ですね。いつでもお待ちしております」
黒岩さんは何度も厳かに頷き、ビジネスバッグを抱え直して帰っていった。ガラスの向こう、夜の渡り廊下の向こうへと消えていく彼の背中は、やってきた時とは比べものにならないほど、すっきりと軽やかだった。
パタン、とドアが閉まる。
「にゃあ(お堅い人間に限って、一度味を占めると来る頻度が跳ね上がるな)」
「にゃ(今度は、紹介料として差し入れのちゅーるを要求しておけ、主)」
「コラコラ、それは公務員の方には言えないよ」
黒岩さんが帰り、私が温かいお茶を飲んで一息ついた、まさにその時だった。
――からん、ころん!
勢いよくドアベルが鳴り響き、飛び込んできたのは、三十代前半ほどの女性だった。
髪は少し乱れ、肩で息をしている。その目はきらきらしている――というよりは、きらきらを通り越して、何かに激しく飢えたような、ギラギラとした鋭い光を放っていた。
「あのっ、予約もなしに本当に申し訳ありません! でも、外のあの看板の灯りを見てしまって……どうしても、どうしても我慢できなくて……!」
「あ、はい、いらっしゃいませ。どうぞ落ち着いて――」
「猫……! ここ、猫さんがいますよね!? 猫の揉み処って、本物の猫さんがいるんですよね!?」
「は、はい、いますよ。ただ、まずは少し深呼吸をして、落ち着いていただけますか」
「すみません、取り乱して! 私、今住んでいるマンションが、規約で絶対にペット禁止なんです。ここらへん猫カフェもないし。もう三年も、猫に触れていなくて……少し、自分でもおかしくなりそうで…もう限界なんです、脳内の猫成分が枯渇して、禁断症状が……!」
女性は両手を胸の前で固く握りしめ、その場で小刻みに足踏みをしていた。その気迫に、私は思わず半歩身を引いてしまった。
(これは……今までのお客様の中でも、かなりの重症、トップクラスかもしれない……)
「にゃあ……(主、あの人間、目がマジだ。ちょっとヤバい雰囲気を感じるぞ)」
危険を察知したももが、キャットタワーの最上階のさらに奥へと、そろそろと身を隠すように移動していく。ゆずいたっては、すでに私のエプロンの後ろに完全に隠れてしまっていた。
部屋の隅のプレイスペースでは、お母さん猫のサチが「ぐるる……」と喉の奥で低く身構え、レオやメイ、ソラたち子猫を、自分の大きな体の後ろへとグッと庇うように隠していた。
猫たちのレーダーが、彼女の過剰な熱量を「危険」と検知したのだ。
「あの! お願いです! 猫さんのお腹の、あの柔らかい毛並みに顔をうずめてもいいですか!? いわゆる『ねこ吸い』がしたくて……! もう限界なんです、3年分の愛を爆発させたくて……!」
「あ、あの、大変申し訳ないのですが……それは、当店ではできないんです」
「えっ……そんな、どうしてですか! お金なら、いくらでも払います!」
「お金の問題ではないんです。当店は徹底的な『猫ファースト』のルールを設けておりまして、猫たちが嫌がることは、いかなる理由があってもお断りしているんです。抱っこも、お腹への無理な密着も、猫側の許可が下りない場合は一切できません」
女性の顔が、みるみるうちに絶望に染まり、悲しげに歪んでいく。
「そんな……」
「にゃあ(当然だ。いくらプロの俺たちでも、初対面の、しかもそんなギラギラした目で迫ってくる人間に、お腹を差し出すわけがないだろ。お断りだ)」
ももがタワーの高いところから、きっぱりとした声で鳴き下ろした。
「……ももが、直々にお断りだそうです」
「ももさんが……。うう、そうですよね、驚かせてごめんなさい……」
女性はガックリと項垂れ、肩を落とした。
「でも、こちらへどうぞ。ベッドに横になって、心を静かにして待っていただければ、もしかしたら猫たちのほうから、あなたの寂しさを察して来てくれるかもしれません。ただ、それは本当に、猫たちの気分次第です」
「……猫さん、次第」
「はい。お客様が猫に尽くし、猫に合わせる場所。それが、この新しい『猫の癒やし』のルールですから」
女性はしばらくその場でじっと下を向いて考えていたが、やがて覚悟を決めたように、こくりと深く頷いた。
「……分かりました。私、猫さんに合わせます。猫さんの嫌がることは、絶対にしません」
女性は案内されたベッドへ、まるで神聖な儀式にでも臨むかのように、静かに横たわった。そして、じっと目を閉じ、体に力を入れないよう努めていた。
五分。もももゆずも、ぴくりとも動かない。
十分。やはり、猫たちは遠巻きに彼女を見つめるだけで、近づこうとはしなかった。
女性はそれでも、必死に荒い呼吸を整え、触りたい、叫びたいという衝動を喉の奥で必死にこらえて、ただじっと耐えていた。
「……猫さん」
沈黙の中、女性が消え入りそうな、掠れた小声で呟いた。
「私、本当は猫を飼いたくて、毎日猫の動画を見て、いつか一緒に暮らすのが夢で。でも、今の仕事とマンションのせいで、どうしても飼えなくて。ずっと、ずっと我慢してて……本当に、ただ、寂しかったんです……」
その声は、涙を含んで微かに震えていた。
その瞬間だった。
――ト、っ。
新しい畳を優しく踏みしめる、小さな、微かな足音がした。ゆずだった。
ゆずはベッドの端まで歩いていくと、ちょこんと座り、女性の顔をじっと見つめた。
女性は動かなかった。目の前に憧れの猫がいるというのに、触りたい衝動を極限までこらえて、ただじっと奇跡を待っていた。
ゆずは彼女が「無害で、本当に傷ついている人間だ」と判断したのだろう。もう少しだけ近づき、彼女の顔のすぐ横で一度立ち止まった。
女性は涙をこらえるように、薄く目を開けてじっとしている。
「にゃ」
ゆずは短く、慈しむような声で鳴くと、女性の胸の上に、そっと、驚くほど優しく前足を乗せた。
「……っ!」
女性の目から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。
声を上げればゆずが逃げてしまう。それを分かっているから、彼女は声も出さずに、ただただ大粒の涙を流し続けた。
ゆずは逃げるどころか、その場にふせて、前足の温かい肉球をゆっくりと、交互に彼女の胸へと押し当て始めた。
ふにっ、ふにっ。トントン。
「……ありがとう」
女性が、掠れた声でささやいた。
「ありがとう、ゆずさん……本当に、ありがとう……」
それを見て安心したのか、キャットタワーの奥にいたももも、静かにタワーを降りてくると、そっとベッドの足元に重しのように丸くなった。
部屋の隅からは、サチとお行儀よく並んだ子猫たちも、その温かい光景をじっと見守っていた。
ゴロゴロゴロゴロ……ゴロゴロゴロゴロ……。
女性はもう、泣いているのか笑っているのか分からないような、けれどこの上なく穏やかな顔で、天井を見上げていた。
猫に飢え、孤独に耐え続けた3年間の空白が、二匹の生きている温もりと、優しい肉球の重みによって、少しずつ、確実に満たされていくようだった。
帰り際、扉の前に立った女性は、入ってきた時のギラギラとした気配が嘘のように消え去り、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「最初、ねこ吸いを断られた時は、どうしようかと思いましたけど」
「すみませんでした。頑固なルールなもので」
「いえ。……今なら分かります。これの方が、ずっと、ずっとよかったです。だって、ゆずさんが、私の気持ちを分かって、自分から来てくれたから。
私、猫さんに選んでもらえたんですね」
女性は少し照れくさそうに笑った。
「あの、また心が枯れそうになったら、ここへ来てもいいですか?」
「いつでもどうぞ。――猫たちが起きていれば、ですけどね」
「ふふ、それが絶対の条件なんですね。でも、そのルールのおかげで、私は今日救われました。ありがとうございました」
女性はくすくすと嬉しそうに笑いながら、パタンと静かにドアを閉めて、夜の街へと帰っていった。
「にゃあ(ふぅ。最初は一体どうなることかと思ったが……悪い人間じゃなかったな)」
「にゃ(ねこ吸いは言語道断だが、待てたからな。まあ、合格点をやっていいだろ)」
ゆずは短くそう言って、自慢の肉球を誇らしげにひと舐めすると、お気に入りの窓際へと戻っていった。
窓の外では、風が庭の木々をさわさわと優しく揺らしていた。
新しく生まれ変わった『猫の癒やし』の揉み処、その記念すべき一ヶ月は、こうして静かに、そしてどこまでも温かく、過ぎていった。




