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猫の揉み処  作者: ゆも
第二章〜完全終了版〜

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13/15

第2話:おかえりなさい、と、はじめまして


 新しい『猫の癒やし』の揉み処が再オープンしてから、一週間が経った。


 朝から快晴だった。


 目が覚めたとき、カーテン越しに差し込む光の質で、今日が特別な一日になる予感がした。


根拠のある予感ではない。


ただ、光が柔らかかった。



 朝のうちに新しい揉み処を一通り確認した。


 新しい畳のい草の香りが、まだ部屋の空気にしっかりと溶け込んでいる。


 棟梁が選んでくれた無垢材の床は、素足で歩くたびに適度な弾力を返してくれる。


 南向きの窓から差し込んだ朝の日差しが、畳の上に美しい格子模様を描き出していた。


 キャットタワーを確認すると、一番上の特等席にももが既にどっしりと陣取っていた。


 下の段ではゆずが丁寧な手つきで前足を舐めている。


 渡り廊下の向こうの母屋では、サチと子猫たちが騒がしくしている気配がして、ときおり小さな足音が廊下を駆け抜けていく。


 全員、元気そうだ。


 私はお湯を沸かし、番茶を一杯淹れてから、看板のスイッチを入れた。


看板の光は昼間はかすかに分かる程度で、夜になると一層穏やかに輝く。


本当に疲れている人にしか見えないらしい仕掛けは、場所が変わってもいきている。



――からん、ころん。


 静かな室内に、真鍮のドアベルが涼やかに、そして優しく響き渡る。


 午前中の早い時間に、もう最初のお客様が来てくれた。


 ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは――見慣れた、どこかくたびれた濃紺のスーツ姿だった。


「ご無沙汰しています。……本当に、すっかり新しくなったんですね」


 常連のサラリーマン、佐藤さんだ。


 リニューアルの案内メールを送ったとき、最初に返信をくれた人のひとりだ。


あの「しばらくお会いできないのは寂しいですが」という丁寧な文面を読んだとき、本当に来てくれるだろうかと半信半疑だった。


でも、こうして再オープンの週末に、真っ先に現れてくれた。


 以前お会いしたときよりも少しだけ顎のラインが引き締まり、背筋もしゃんとしているように見える。


けれど、プロの目をごまかすことはできない。


 眼鏡の奥にある目の下の深いクマ、そして無意識のうちに肩が内側へと縮こまっていくその痛々しい歩き方は、彼が初めてこの店に迷い込んできたあの雨の夜と、そっくりそのまま同じだった。


「いらっしゃいませ、佐藤さん。……おかえりなさい」


 私が微笑みながら声をかけると、佐藤さんは一瞬だけ目を見張り、それから苦笑いを浮かべた。


「……『おかえり』って、そう言ってもらえるお店なんて、僕にはここだけですよ」


 佐藤さんはそう言って、まだ新しい木の香りがふわりと漂う室内を、懐かしむようにぐるりと見回した。


 場所は変わった。でも空気は変わっていない。


そのことに、佐藤さんは気づいてくれているだろうか。


どこの場所でも「猫の揉み処」はここにある。


それは猫たちが作り出す空間であって、建物の形ではないのだと、私はいつもそう思っている。


「本当に素敵な場所になりましたね。なんだろう、前のお店も隠れ家みたいで好きでしたけど……ここは、それ以上にずっと、心が落ち着く気がします」


「にゃあ(当然だ。ここは俺たちが吟味して、お墨付きを与えた場所だからな)」


 キャットタワーの最上階、特等席にどっしりと鎮座していたゆずが、まるで見下ろすようにして偉そうに鼻を鳴らした。


 その声に、佐藤さんが顔をほころばせる。


 この人は最初からゆずとの相性が良かった。


二匹は普通、初対面の人間には一定の距離を置く。


けれど佐藤さんに対しては初回から比較的早く近づいていった。


動物は人の本質を見抜く、とよく言うが、ゆずが近づいた人間は、概して正直な疲れ方をしている人だ。


「ふふ、相変わらずですね、ゆずさん。お元気そうでよかった」


 佐藤さんが声を立てて笑う。


だが、その笑顔の奥に、ずっしりと溜まった疲労の影があるのを、私は見逃さなかった。


 笑い方が少しだけぎこちない。


口の端が上がるのに、目の周りの筋肉がついてきていない。


本当に笑っているときの佐藤さんは、目の端に細い線が入る。


今日はそれがない。


「今日は、お体のどんな具合ですか? だいぶお疲れが溜まっているようですが……」


 問いかけると、佐藤さんは少し気恥ずかしそうに髪を掻いた。


「実は……また少しだけ、社内で昇格しましてね。今度は『部長代理』という肩書きになったんです」


「まあ! それはおめでとうございます!」


「ありがとうございます。ええ、ありがたいことなんですけど……」


 佐藤さんはそこまで言って、ふっと視線を落とした。


 その視線の落とし方を見て、私はすぐに分かった。「おめでとう」と言われることに、この人はもう慣れてしまっている。


 慣れすぎて、もう嬉しいとも思わなくなっている。それが、視線の落ち方に出ていた。


「周りの同期からは『出世頭だ』って羨ましがられるんですけどね。正直なところ、現場の板挟みになって、責任ばかりがどんどん重くなっていく。家に帰っても仕事のことばかり考えてしまって……最近、自分がいったい何を目標に、何をしたくて働いているのか、本当によく分からなくなってきてしまって」


 吐き出された言葉は、彼の心の叫びそのものだった。


 私はここで何も言わなかった。何も言う必要がなかった。「そうですね」とか「大変でしたね」とか、そういう言葉を差し込む隙間を作らなかった。ただ、佐藤さんの言葉が部屋の空気に溶けていくのを、静かに待った。


 佐藤さんはハッと我に返ったように小さく口をつぐみ、「すみません、愚痴を」と俯いた。


これ以上は、言葉にすれば自分が崩れてしまうのを知っているのだろう。


 この人は賢い。


自分がどこまで話していいか、どこからが「崩れる」領域かを、体感として知っている。


だから普段は誰にも言わないのだ。ここでだけ、少しだけ蓋が開く。


「……いいんですよ。どうぞ、こちらのベッドへ。ゆっくりとお話を伺いますから」


 私は優しく微笑み、陽だまりに置かれた真新しい施術ベッドへと促した。


佐藤さんは静かにそこへ横たわった。


 新しいベッドは、棟梁の勧めでマットレスを厚手のものに変えた。


施術中に猫が乗ってきたときの重みを受け止めながら、人間が沈み込みすぎないちょうどいい硬さ。


ここにいる猫の中で一番重いももが試し乗りして合格を出したものだ。



 佐藤さんが目を閉じて息を吐き出すと同時に、ももとゆずが、まるで熟練の職人のような足取りで、音もなくベッドの両側から乗り込んできた。


 二匹の連携は、いつ見ても見事だ。


特に打ち合わせをしているわけではないのに、どちらが頭側でどちらが腰側を担当するか、自然に役割が決まっている。


疲れ方によって、担当位置が変わることもある。


今日は、ゆずが上半身側に構え、ももが腰から足にかけての位置に落ち着いた。


「にゃ(おいおい、久しぶりだからって、ずいぶんと溜め込んだな。コリの具合、確認してやる)」


 ゆずがそう鳴いたかと思うと、前足の肉球を、佐藤さんの左の肩甲骨の裏側へとゆっくり、じわじわと沈み込ませていった。


 ゆずの前足の使い方は独特だ。


単純に体重をかけるのではなく、肉球の角度を微妙に変えながら、筋肉の走る方向に沿って圧を加えていく。


どこで覚えたのか、誰かに教わったのか、そんなことは分からない。


ただ、お客様から「ここ、プロより上手い」と言われることが一番多いのが、このゆずの肩甲骨アプローチだ。


「……っ、うあ……相変わらず、ここ、的確に効きますね……」


 佐藤さんの口から、押し殺したような、でも心底気持ちよさそうな呻き声が漏れる。


 首から肩にかけての筋肉が、いっせいに解けようとしている。


それが声に出てきている。こういう声が出るのは良い兆候だ。


 声を出せる人間は、まだ余裕がある。

 本当に限界の人間は声さえ出せない。


「にゃあ(フン、部長代理のコリは、ただのリーダーの時より数倍手強いな。だが、俺たちを誰だと思ってる。ま、大人しく任せとけ)」


 今度はももが、佐藤さんの腰のあたりにどっしりとその大きな体を丸め、体重をかけていく。


 ももは体が大きい分、その重みそのものが施術になる。腰に乗られたお客様が「熱湿布を当てているみたい」と言ったことがあった。


猫の体温は人間より高い。その温かさが、固まった腰の奥の筋肉へじんわりと浸透していく。


外側からマッサージするより、熱で緩める方が届く深さが違う。


 ゴロゴロゴロゴロ……ゴロゴロゴロゴロ……。


 二匹の喉から、低く地響きのような、けれど最高に心地よい重低音が響き始めた。


 猫のゴロゴロ音の周波数は、二十五ヘルツから五十ヘルツ前後だという話を、以前読んだことがある。


その帯域は、骨密度の維持や傷の治癒を促進するという研究があるらしい。医学的な話はともかく、あの音を浴びていると、体の中の何かがほぐれていくような感覚は、私自身もよく知っている。音というよりも、振動だ。音楽のベースラインが体に響くのと似ているが、それより親密で、より温かい。


 新しい部屋の木の香りと、猫たちの生きている温もり、そして部屋全体を優しく振動させるゴロゴロ音が、佐藤さんを包み込んでいく。


 施術が進むにつれ、佐藤さんの固く強張っていた肩が、少しずつ、少しずつ、解けていくのが分かった。


 最初のうちは、体のどこかに力が残っていた。


それは「気を使う」ということの名残りで、人は知らないうちに、他人の目があるときはある程度体に力を入れている。


それが、十分ほどが過ぎた頃から抜け始めた。


肩が落ちた。顎の力が緩んだ。


呼吸のリズムが変わった。


浅い胸の呼吸から、腹を使った深い呼吸へ。


 私はベッドの隣の椅子に静かに座り、お茶を一口飲みながら、その変化を眺めていた。


「……自分が、何をしたいか、か……」


 深い静寂の中で、佐藤さんが消え入りそうな声でぽつりと呟いた。


 独り言のような声だった。

 私に向けて言っているのではなく、自分の内側に向けて言っている声。


こういう言葉が出てきたとき、余計なことを言ってはいけない。


ただ場所を守ること。それだけでいい。


「にゃ(今は、何もしなくていいんだよ)」


 ゆずが、いつになく優しい声で短く鳴き、トントンとリズミカルに背中を踏みしめる。


 私はゆずのその言葉に、胸の奥がじんとした。


マイペースで甘えん坊な気まぐれだ。


それがこんなに柔らかい声を出すのは、相当に人の状態を読んでいるからだと思う。


 それきり、部屋はただただ心地よい、幸福な静寂に満たされていった。


 外では小鳥が鳴いていた。花壇の風に揺れる花の茎がかすかな音を立てていた。それ以外の音は、ここには届かない。




 一時間後。


 施術を終えた佐藤さんは、すっきりとした顔で身を起こした。


そして、しばらく何も言わず、大窓の外で風に揺れる渡り廊下の花壇をぼんやりと眺めていた。


 こういう沈黙は良い沈黙だ。


何かを急いで言葉にしようとせず、ただそこにいられる。


それができるようになっているということは、体の中の緊張が本当にほぐれているサインだ。


「……不思議ですね。ここに来ると、世間のスピードから置いていかれるような焦りが消えて、『すぐに答えを出さなくていいんだ』って、自然と思えるんですよね」


 佐藤さんの声は、来たときよりずっと落ち着いていた。


「それでいいんだと思いますよ。立ち止まって息を抜く場所が絶対に必要ですから」


「そうですね。本当に、救われます」


 佐藤さんは小さく深く頷き、名残惜しそうに立ち上がった。


上着を羽織る彼の背筋は、今度こそ本物の軽やかさを取り戻していた。


 ぼんやりと窓の外を眺めながら、佐藤さんがまたぽつりと口を開いた。


「答えを出さなくていい、か……。仕事って、常に答えを出し続けることを求められる場所じゃないですか。何をするか、どうするか、いつまでにするか。ずっとそれをやり続けているうちに、答えを持っていないと存在してはいけない気がしてきて」


「ここでは、何も答えなくていいですよ。猫たちも何も聞きませんから」


「ふふ、そうですね」


 佐藤さんは柔らかく笑った。


今度は、目の端に細い線が入っていた。本物の笑顔だった。


「あ、そうだ。実は、一緒に働いているチームの後輩の男の子なんですが……最近、どうも様子がおかしくて。先月から一人暮らしを始めたばかりらしいんですけど、なんか、職場で『猫が、猫が……』って、うわ言みたいに呟いているんですよ」


「猫、ですか?」


 私の中で何かがピンと来た。


 猫が、猫が、とうわ言のように呟く。


 それはもう、かなり重度の猫不足だ。


笑い話のように言っているが、おそらく佐藤さんも、その後輩の男性の状態をかなり心配している。


「なんでも、実家にも猫がいるらしいんですけど、関係があまり上手くいかなかったみたいで。もしよければ、今度ここのお店、紹介してもいいですか? 彼、かなり限界そうなので」


「もちろんです! いつでも大歓迎ですよ。お疲れの方を癒やすのが、この子たちの仕事ですから」


 佐藤さんは「ありがとうございます」と深く頭を下げ、お客様用の扉から出ていった。


ガラス越しに見える彼の足取りは、来たときよりもずっと弾んでいるように見えた。


 パタン、と静かにドアが閉まる。


「にゃあ(ふぅ。また一人、新しい迷い子を送り込んでくる気か、あの男は)」


「にゃ(まあ、それがこの店の流儀だろ。いいじゃないか)」


 ももとゆずは顔を見合わせ、満足そうにひと仕事終えた毛繕いを始めると、揃ってキャットタワーへと戻っていった。


 私はベッドのシーツを取り替えながら、佐藤さんの最後の笑顔を思い返していた。


 あの目の端の線。それを引き出せたなら、今日は十分だ。



三日後の昼。


 ももが珍しくお昼時から窓際で気持ちよさそうに伸びをしており、ゆずもキャットタワーのハンモックでご機嫌な様子で尻尾を揺らしていた。


 お昼を過ぎたこの時間帯は、猫たちが活動的になる時間と、眠くなる時間に分かれる。


今日は前者だった。


晴れているからかもしれない。


この子たちは天気に敏感で、曇りの日は動かなくなるし、雨の日はずっと寝ている。


「よし、みんなの調子も良さそうだね」


 私は看板のスイッチを入れた。


 昼営業の開始だ。


 カウンターの上には、田辺さんが昨日持ってきてくれた季節の和菓子が小さな皿に載っている。


柏餅だった。


「猫たちにあげようと思ったけど、猫には甘いものダメよね」と言いながら、結局私への差し入れになった。


 食べながら看板の光を見ていると、昨日よりも心持ち明るく灯っている気がした。


――からん、ころん。


 ほどなくして鳴ったベルの音。


入ってきたのは、二十代後半くらいの、少しお洒落だが緊張で体がガチガチに固まった男性だった。


 第一印象は「まじめな人」だった。


 ベージュのシャツに、焦げ茶のチノパン。スニーカーは白で清潔感がある。


でも、全体的にどこか余裕がない気がする。


 どこかそわそわとした様子で、歩くたびにきょろきょろと、まるで道に迷った人のように室内を見回している。


「あの……すみません、佐藤さんに紹介していただいて来たんですが……ここが、猫の癒やしの、揉み処、で間違いないでしょうか……?」


 声が少しだけ上ずっていた。


緊張しているのだ。


でも「猫の癒やし」という言葉を口にした瞬間だけ、声の色が微かに変わった。


猫、という言葉への反応が、他の言葉のそれと違う。


「はい、いらっしゃいませ。佐藤さんの後輩の方ですね? お話は伺っております」


「あ、そうです! 田中といいます。あの、あの……本当に、猫、いるんですか……?」


 切実な、すがるような田中さんの声。


「ふふ、いますよ。どうぞ、こちらへ」


 ベッドへ案内すると同時に、田中さんは私の足元やキャットタワーにいるももとゆずの姿を捉えた。


 その瞬間、彼の表情がぱあっと一気に華やいだ。


 表情の変化が凄まじかった。


まるで別人のようだった。


緊張で張り詰めていた顔の筋肉が緩んでいったように見えた。


「わあ……っ! 本物だ……本当に猫が営業してる……」


「にゃあ(本物に決まってるだろ。失礼なやつだな)」


 ももがフンと髭を揺らす。その仕草が可愛くて、田中さんが「あはは」と声を漏らした。


緊張が一瞬で吹き飛んだ。


 ふと部屋の隅のプレイスペースを見れば、お母さん猫のサチの優しい眼差しに見守られながら、レオとソラが仲良くじゃれ合い、カイとフクが並んで熱心に毛づくろいをしている。


 その少し奥では、メイが日差しを浴びて気持ちよさそうにまん丸くなって寝ていた。


「うわぁぁ、子猫までたくさんいる……! なんですかここ、天国ですか?」


 田中さんは両手を胸の前で握りしめ、感動のあまり震えている。


 この反応は本物だ。


猫が好きな人の中でも、今のこの人は「猫が恋しくてたまらない状態」にある。


単なる「可愛い」という気持ちではなく、猫の存在への飢えがある。


それが感動の質を変えている。


「少しお聞きしてもいいですか? 先月から一人暮らしを始められたとか」


「はい、そうなんです。実家には昔から猫がいるんですけど……うちの猫、僕に全然懐いてくれなくて。部屋に入ると逃げられるし、膝に乗ってきたことも、背中を踏んでくれたことも一度もないんです。猫ってそういう、冷淡な生き物なんだと思って諦めてたんですけど……佐藤さんが『あそこの猫は次元が違う、本物のプロだ』って熱弁するから……」


 田中さんは、少し恥ずかしそうに視線を泳がせた。


 実家の猫が懐かない、というのはよくある話だ。


猫はその環境の空気を読む。


人が多い、騒がしい、子供がいる、犬もいるといった家では、猫が特定の人間を選びやすい傾向がある。


 田中さんが「逃げられる」のは、猫が彼を嫌っているのではなく、単純にタイミングや接し方が合っていないだけかもしれない。


「一人暮らしの部屋、思ったより静かで、寂しくて。毎日帰ると天井を見るだけで……もう、圧倒的な『猫不足』で、心が枯れそうだったんです」


 圧倒的な猫不足、か。


 その言葉の選び方が好きだった。


ビタミン不足とか、睡眠不足と同じ文脈で「猫不足」と言える人は、猫の必要性を体感として知っている人だ。


猫が単なる娯楽じゃなく、生活に必要な何かだと、ちゃんと知っている。


「猫不足。ふふ、すごくよく分かります」


「でしょう! 分かってくれますか!」


 田中さんの目が弾けたように輝いた。


 この人は、誰かに分かってもらえることに飢えている。


一人暮らしを始めたばかりで、新しい環境で、職場でも「猫が、猫が」とうわ言を呟くほどに追い詰まっている。


笑い話のように話しているが、笑い話にするしかないほど、本当は切実なのだ。


「にゃ(……やれやれ。重症の猫不足人間だな。よし、診てやるか)」


 見かねたのか、ゆずがすっとベッドへ飛び乗り、田中さんの膝の上に前足をそっと乗せた。


 ゆずは普段、初対面の人間への距離感を慎重に測る。近づくタイミングを、自分でじっくり見極める。それがこんなにすぐに動いたのは、田中さんの必要性が、ゆずの判断基準に明確に引っかかったからだろう。


「え……あ、うわっ、あ……っ! 柔らかい……! 肉球が、肉球がこんなに温かくて柔らかいなんて……!」


 田中さんの声が裏返り、歓喜のあまり涙ぐみそうになっている。


 大人の男性がここまで率直に感動できるのは、むしろ好ましい。


感情を隠さない人は、回復も早い。


素直に受け取れる人は、素直に癒やされる。


「しかも、自ら乗ってくれてる……! 踏んでくれてる……! 実家の猫にさえ、一回もされたことなかったのに……!」


「にゃあ(そりゃそうだ。実家の猫と俺たちを一緒にするな。俺たちはプロだからな)」


 ももが、今度は田中さんの背中にどっしりと這い上がり、大きな体を丸めた。


 ももが背中に乗るというのは、かなりの信頼評価だ。


ももはお客様の背中に乗ることを、誰にでもするわけではない。体の状態と、心の状態を両方判断して、この人なら大丈夫だと思ったときだけ、あの重い体を預ける。


田中さんは合格点を出されたのだ。


 ゴロゴロゴロゴロ……。


「……ゴロゴロ言ってる……耳のすぐ近くで聞くゴロゴロって、こんなに……なんか、胸の奥まで響くんだ……」


 田中さんの目が、今度は本当にじわりと涙で潤んでいった。


 大人が泣くとき、それはほとんどの場合、緊張の糸が切れた瞬間だ。


怖くて泣いているのではなく、ずっと張り続けていた何かが緩んだ瞬間に、体がついてくる。一人暮らしを始めてからずっと、この人は何かを張り続けていたのだろう。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫、です……。なんか、すごくあったかくて。一人暮らしを始めてから、ずっと、ずっとこれが欲しかったんだって、今、分かりました……」


 田中さんはそのまま、ももの心地よい重みと、ゆずの優しい肉球の感触に包まれながら、安心しきったように静かに目を閉じた。


 一人暮らしの部屋では、決して手に入らない、ぬくもりという名の温度。


 それを、この子たちはちゃんと言葉以上に理解し、必要な人の心へ届けているのだ。


 私はそっと椅子を引いて、少し離れた場所からその光景を見守った。


 ももの大きな体が、田中さんの背中の上でゆっくりと上下している。


 呼吸に合わせて動いている。二匹の呼吸のリズムが、だんだん同じになっていく。


 それが、この場所の一番深いところで起きることだ。猫と人間の呼吸が、同じリズムを刻む瞬間。


 あの静けさは、どんな言葉よりも正直だと、私はいつも思う。




 帰り際、田中さんは何度も、何度も振り返りながら、名残惜しそうにドアへと向かった。


「あの、また……すぐに来てもいいですか」


「ええ、いつでも。――猫たちが起きていれば、ですけどね」


 田中さんは一瞬きょとんとして、それから意味を理解して、くしゃりとした笑顔になった。


「……猫たちが起きていれば、か。その、人間都合じゃない感じ、最高ですね。なんか、ここだけですよ、そういうお店。猫のスケジュールで動くって、当たり前のことのようで、なんて正直な場所なんだろうって」


「ふふ、正直に言えば、私も最初は少し怖かったんですよ。お客様に申し訳ない、って。でも、猫たちが教えてくれたんです。無理して開けた扉からは、本当のものは入ってこない、って」


「それ、仕事の話で聞かせてもらいたいですね。佐藤さんにも必要な言葉だと思う」


 田中さんは笑いながら言ったけれど、その目は真剣だった。


「また絶対に来ます!」


 田中さんは少年のような清々しい笑顔を浮かべ、元気よく帰っていった。


 パタン、と静かにドアが閉まる。


 扉のガラス越しに、田中さんが駐車場を歩いていくのが見えた。


来たときとは歩き方が違う。ただ真っ直ぐに、少し軽い足取りで歩いていた。


「にゃ(猫不足の人間は、リアクションが素直で張り合いがあるな)」


「にゃあ(実家の猫が踏んでくれなかったのは、まあ……お前のしつこい性格のせいだと思うがな、主)」


 ももとゆずが軽口を叩き合うように鳴き交わす。


 私は思わず吹き出した。


「主」というのは私のことで、なぜか猫たちの会話の中では私がよく引き合いに出される。


そして大体、あまり褒められない文脈で登場する。


 新しい揉み処の床には、夕方の穏やかな木漏れが長く、長く伸びていた。




「さて、最初のお客様たちは大満足してくれたみたいだね。みんな、お疲れ様」


 私が二匹の愛おしい頭を優しく撫でていると、ふとポケットのスマートフォンが小刻みに震えた。


 画面を見ると、そこには『黒岩』の無骨な二文字。


『店は無事に開いたのか。明日の昼、建物の不具合や建付けの緩みがないか、見に行ってやるからな』


 相変わらず用件だけのぶっきらぼうなメッセージ。「どうだった」も「頑張ったな」も、一切ない。


それが黒岩さんだ。


感情を直接的に表現する習慣がないのか、言葉に乗せることを不得意としているのか、あるいはそれが彼なりの矜持なのか、私には分からない。


 でも、このメッセージの裏にあるものは読める。


「無事に開いたのか」は「うまくいったか心配だった」だ。


「建付けの緩みがないか見に行く」は「口実を作って会いに行く」だ。


 工事中、黒岩さんは棟梁と何度も話し込んでいた。


木の使い方や、施工の細かいところ。


専門的な話で、私にはよく分からなかったが、時折「猫のことを考えるなら、ここはこうした方がいい」という言葉が聞こえてきた。


棟梁も同じ意見だったようで、二人が頷きながら話しているのを見て、この場所は良い人たちの手で作られているな、と思った。


 返信を打ちながら、私はひとり笑っていた。


『ありがとうございます。みなさん喜んでくださいました。明日、お待ちしています』


 シンプルな返信を送ると、すぐに既読になった。


返信はなかった。それが黒岩さんらしかった。


「みんな、本当に新しいお店を楽しみにしてくれてるよ。明日もよろしくね、もも、ゆず」


 二匹は返事をする代わりに、夕暮れの光の中で、愛らしく耳だけをピクリと動かしたのだった。


 窓の外が、橙色に染まり始めていた。


 新しい揉み処の木目の壁に、夕陽が長い影を描いている。


キャットタワーに戻ったももとゆずのシルエットが、その影の中に溶け込んで、まるで絵のように静止している。


 この場所が「おかえり」と言える場所であり続けるために。


 そして、初めて来た人が「はじめまして」と言える場所であり続けるために。


 今日一日、扉を開けてよかった、と私はしみじみと思った。


 それから、少しだけ先のことを考えた。明日、黒岩さんが来る。


いつか田中さんがまた来る。


佐藤さんが次の疲れた顔を持ってくる。


田辺さんがまた季節の和菓子を持ってきてくれるかもしれない。


 全員に「おかえり」と言える。


全員に「よく来てくれました」と思える。


それが、この仕事の、本当の核心なのだと、ようやく分かってきた気がする。


 薬膳カフェをやっていた頃、私が作りたかったものは、料理ではなかった。


場所だったのだ。


人が「おかえり」と言ってもらえる場所。


猫が主役で、人間がそこに混ざり込める場所。


それがこんなに素直な形で実現するとは、夢を見た朝の私には、想像もできなかった。


 夢の中の宝くじ売り場のことを、ふと思い出した。


 あれが、ここへの入り口だったのだと、今なら思う。




――からん、ころん。


 扉のドアベルが、また鳴るのは、きっと明日だ。


 ももが窓際で大きく伸びをした。夕陽が、その大きなシルエットを壁に映し出した。


 今日も、いい一日だった。





 

長すぎるかも、と思ったのですが一つにまとめました。

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