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猫の揉み処  作者: ゆも
第二章〜完全終了版〜

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12/15

第1話:新しい扉


 それは、ひどく静かな夢だった。


 セピア色に霞む視界の先、見慣れた駅前の小さな宝くじ売り場の前に、私はぽつんと立っていた。


 夢の中の景色はいつも少しだけ歪んでいる。


電柱の影が伸びすぎていたり、遠くの建物の輪郭がぼやけていたり。けれどあの売り場だけは妙にくっきりと、現実よりもむしろ鮮明に見えた。


販売員のおばさんの顔は、不思議なことに誰か知っている人間のようでいて、目を凝らすとやっぱり分からない。そういう夢だった。


 普段ならネットの手軽な画面でしか買わないはずなのに、夢の中の私は、なぜか窓口へと歩み寄り、ごく自然な手つきでバラのセットを1シート、買い求めていた。


ただそれだけの、短い夢。


 パチリ、と目が覚めたとき、部屋にはまだ薄明かりが満ちていた。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光は、まだ白みがかった青さを帯びていた。


時計を確認すると、午前六時。


いつも少し早めの目覚めだった。


 私は布団の中で身じろぎもせず、しばらくの間、ぼんやりと天井の木目を眺めていた。


この家の天井板は古くて、長年見続けているせいで、木目の模様がもはや地図のように頭に入っている。


右の節は熊の横顔に見えるし、左の薄い筋は川の流れのようだ。子どもの頃から何度も眺めてきた、見慣れた景色。


あの宝くじ売り場のカウンターの固さ。受け取ったチケットの、つるりとした紙の薄さ。


「……買いに行こう」


 小さく呟いた言葉は、静かな寝室に思いのほかはっきりと響いた。


 何の根拠もない。


理屈も、予感めいたものすらもない。


夢を信じるほどロマンチックな性格でもないつもりだったし、宝くじで大金が当たるなんて、確率論的にはほとんど奇跡に近い話だということも、頭では十分に分かっていた。


 けれど、胸の奥から湧き上がってきたその衝動は、抑えきれなかった。


何か大きな流れのようなものに、背中をそっと押されているような感覚。


 ふと気配を感じて視線を落とすと、ももとゆずが、ベッドの足元からじっとこちらを見ていた。


「にゃ(主、朝から何をぶつぶつ言ってるんだ)」


 低めの声で鳴いたのはももだ。寝起き特有の、少しハスキーな声。


この子は朝があまり得意ではなくて、目覚めてから三十分ほどはいつもこんな不機嫌な鳴き方をする。


それでも、私の様子が気になってわざわざ確認しに来たのだろう。


「ちょっと宝くじを買ってこようと思って」


「にゃあ……(……なんだ、いきなり?)」


 ゆずが呆れたように片耳をピクリと動かし、大きなあくびだった。


 着替えながら考えた。


なぜ今日なのか。


なぜあんな夢を見たのか。


 何か意味があるのか。


 そういう問いが頭をぐるぐると回っても、答えは出てこなかった。


 売り場に着くと、いつもの販売員のおばさんがいた。白髪を丁寧に束ねた、小柄な女性だ。


「あら、早いわねえ。開いたばっかりよ」


「はい、ちょっと夢で見ちゃって」


「まあ。それは縁起がいいわね」


 おばさんはにこにこしながら、バラのセットを一シート出してくれた。受け取った瞬間、確かに指先があのリアルな夢の感触と重なった。




 一週間後。


 リビングの机に当選番号の書かれた新聞を広げ、手元の小さな紙切れと照らし合わせていた私は、自分の指先がガタガタと震えるのを止められずにいた。


 何度も、何度も見直す。


数字の一桁ずつを、指でなぞるようにして確認していく。


 ――当たっていた。


 それは、私がこれから先、あくせくと働かなくても十分に暮らしていけるほどの、途方もない巨額だった。


 最初の数秒間は、まったく実感がなかった。


頭が現実として処理できないでいた。


 古くなってきた実家を綺麗にリフォームして、ささやかな贅沢をして、そして何より、ももやゆず、サチたち全ての猫たちを、一生何不自由なく、最高の環境で養っていける。


 私にとっては、贅沢すぎるほどの、十分すぎるほどの『福』。


「本当に、当たったんだ……」


 ぽつりと言葉が漏れた瞬間、じわじわと熱い実感が胸の奥から溢れ出してきた。


 けれど、浮ついた気持ちになるより先に、すとん、と腑に落ちるような、ひとつの強い確信が胸に浮かんだ。


 これは、私が自分の力で引き寄せた幸運なんかじゃない。ももとゆずが、そしてサチたちが、この家に運んできてくれた『福』の神からの贈り物なのだ、と。


 猫は福を運ぶ、とよく言う。


招き猫の話だけじゃない。


古い言い伝えの中でも、猫のいる家には良いことが続く、猫の目は運命を見通す、猫が懐く人間には天の庇護がある、なんて話が世界中に存在する。


私はそれを信じるほうだった。


信じるというか、この家で一緒に暮らしていると、自然とそういう気持ちになってくる。




 思い返せば、薬膳カフェを始めたのは、ただ体に優しいものが好きだったから。


 薬膳の知識を少しずつ独学で積み上げ、資格も取った。素材にはこだわった。鶏の骨でじっくり取ったスープ、季節ごとの薬草を組み合わせたお茶、体を温めるための生姜と黒砂糖の組み合わせ。どれも心を込めて作っていた。


 けれど、私は昔から決して料理が得意なほうではなかった。凝った味付けや、手際よく何品も仕上げるセンスがあるわけじゃない。


料理の世界には「舌」というものがあると言う。


 素材の声を聞き、調味料の量を感覚的に掴み、火加減を目と匂いと音で判断できる、あの『舌』。私にはそれが、どうしても人並み以上には育たなかった。


 何度練習しても、誰かに教わっても、料理の感覚的な部分だけが、ついに体に馴染まなかった。


だからこそ、せめて来てくれたお客様一人ひとりに全力で向き合おうと、お店は「1日1組の完全予約制」という形をとっていた。


一組のお客様だけに、その日のすべての時間と心を注ぐ。それが私にできる最大限のおもてなしだった。


 それなのに、厨房に立つ私の背中には、いつも重い荷物が乗ってるようだった。


「こんな拙い料理で、本当にお金をいただいていいのだろうか」

「今日も満足していただけただろうか」


 おもてなしを終え、薄暗くなった厨房で一人、ぽつんと佇みながら「自分には、この仕事は向いていないのかもしれない」と、何度もため息をついていた日々。


自分の技術のなさに、ずっと一人でコンプレックスを抱え、悩んでいたのだ。


 初めての常連客ができたとき、正直、驚いた。また来てくれた、という事実が信じられなかった。


「美味しかったです」という言葉を受け取るたびに、どこかで「本当に?」と疑問符が立ち上がった。


ありがとうございます、と笑顔で返しながら、心の奥では常に針が刺さっているような感覚があった。


 厨房に一人でいると、猫たちが扉の向こうから、のぞき込んでくることがあった。


ももが廊下に座って、じっとこちらを見ている。 

 ゆずが爪研ぎをしながら、時折視線を向けてくる。


 あのまなざしが、今になって思えば、何かを伝えようとしていたのかもしれない。


 料理に自信が持てない私。


 それに対して、副業のように始めた「猫の揉み処」のスタイルの方が、はるかにお客様に喜ばれ、心からの笑顔を引き出すことができている。


 猫の揉み処を始めたきっかけは些細なものだった。膝の痛みを抱えた常連のお客様が、ある日こんなことを言ったのだ。


「料理も美味しいけど、猫ちゃんたちと触れ合えたことのほうが、なんか元気になれる気がする」


 その一言が、ずっと頭の隅に引っかかっていた。


猫と触れ合う癒やし。


それは料理とは違う種類のものだ。


技術ではなく、存在そのものが人を癒やす。


猫たちがいるだけで、空間が変わる。


私にできることは、その環境を整えることだ、と気づいたのはそれから少し後のことだった。


 その事実に、私はずっと前から気づいていたのだ。ただ、一歩を踏み出すのが怖かっただけで。


 踏み出せない理由は、いくつもあった。


薬膳カフェを始めるために使った資金のこと。資格を取るために費やした時間のこと。


何より、せっかく来てくれているお客様を、がっかりさせてしまうのではないかという恐れ。変化することへの、臆病さ。


 それが今、この夢のような出来事によって、すべてが変わろうとしていた。




 我に返り、家に帰ると、ももとゆずがいつものように玄関の三和土たたきで待っていた。


 この子たちはいつもそうだ。私が外から帰ってくる音を聞きつけて、玄関まで迎えに来る。


犬のようだ、とよく言われるが、猫だってちゃんと待っている。


「にゃ(おい、顔が変だぞ、主。何かあったのか)」


 私のただならぬ雰囲気を察したのか、ももが鼻先を近づけてくる。


熱があるときも、落ち込んでいるときも、この子はなぜかいち早く気づく。


動物の勘というのはすごいと、何度思っただろう。


「うん。……ふたりに、ちょっと大事な相談があるんだ」


 私はリビングの柔らかなソファに深く腰を下ろし、慣れた手つきで二匹を膝の上へと抱き上げた。


ずっしりとした温かい重みが、私の震える心を落ち着かせてくれる。ももは大柄なので、膝からはみ出るほどだ。それでも構わずにどかりと腰を据えてくる。ゆずは小さく丸まって、すっぽりと膝に収まった。


「1日1組でやってきた薬膳カフェ、もう畳もうと思うの」


 ももとゆずは身動きもせず、ただ私の目をじっと見つめ返してきた。否定も肯定もせず、私の次の言葉をじっと待つように。


 その静けさが、不思議なほど有難かった。


誰かにこんな話を切り出したら、たぶん、すぐに「どうして」「本当に大丈夫なの」「もったいない」といった反応が来る。


それが悪いわけじゃないけれど、こういうときは、ただ聞いてもらいたいだけなのだ。


「これからは、料理じゃなくて、猫の揉み処だけに絞って、ちゃんとした場所を作りたい。今のお店がある一階を、もう一度普通の、寛げる居間に戻すの。それでね、駐車場の広いスペースの一部を使って、新しくユニットハウスを建てようと思う。そこを、猫たちとお客様だけのための、本当の『猫の癒やし』の空間にする。ふたりは、どう思う?」


 語りかける私の声だけが消え、リビングに深い沈黙が流れた。窓の外で、風に揺れる木の葉の音だけが聞こえる。


 どこかで雀が鳴いていた。遠くで車が一台通り過ぎた。それ以外は、静かだった。


「にゃあ(……それ、いつから考えてたんだ)」


 ゆずが、探るような目で私を見上げた。


「ずっと、だよ。ずっと心のどこかで、そうすべきだって分かってたの」


 また、静かな時間が流れる。


 二匹はまるでお互いに目配せをするように一瞬だけ視線を交わし、やがて、ゆずが大きくひとつ、フン、と鼻から息を吐いた。


「にゃ(遅すぎるくらいだ。でも、まあ……主にしてはいい判断じゃないか)」


 ももは何も言わなかった。


ただ、私の膝の上で大きな体を満足そうに反らせると、ごろりと横になって喉を鳴らし始めた。


 ごろごろ、という低い振動が、膝を通じて全身に伝わってくる。猫の喉の音を聞くと、心拍数が落ち着く。


 ごろごろという低い振動が、膝を通じてじんわり伝わってくる。


 それだけで、不思議と息がしやすくなる。


 言葉はなくとも、それが二匹の、これ以上ないほど頼もしい「賛成」の答えだった。




 両親にその決意を伝えたとき、食卓は温かい涙と笑顔に包まれた。


 母は最初、ぽかんとした顔をしていた。


何を言っているのか、一瞬処理しきれなかったのだろう。


 薬膳カフェを畳む、という言葉よりも、「お金の心配がなくなった」という部分で目を丸くして、それから涙がこぼれてきた。


「無理して厨房に立っているのを見て、本当はずっと心配だったのよ。あなたが笑ってくれているのが、一番なんだから」


 母は目元をハンカチで押さえながら、心底ほっとしたように涙を浮かべた。


 その言葉が、ずしりと胸に落ちた。


 知っていたんだ、と思った。ずっと心配してくれていたんだ。


私は料理の腕のなさを一人で抱えていたつもりだったけれど、近くで見ていた母には、ちゃんと伝わっていた。黙って見守ってくれていたのだ。


 父もまた、優しく目尻を下げて頷いた。


「そうか。お前がそう決めたなら、それが一番だ。早く言えばよかったのに、水臭いな」


 父はいつもそういう言い方をする。


感情をそのまま出すのが苦手な人で、「水臭いな」という言葉の奥に、ずっと気にかけていたよ、という意味が隠れているのを、娘の私は知っている。


 実家のリフォームの話も、その場で自然に出てきた。


昔から雨漏りの心配があった屋根のこと、廊下の床板が軋むようになってきたこと、浴室のタイルにひびが入っていること。母は「そんな、急に決めなくていいのよ」と言いながらも、目が少し輝いていた。


 ずっと心のどこかで引っかかっていた、古くなった実家のリフォーム。お金の心配がなくなった今、すべての話は驚くほどのトントン拍子で、進んでいった。




 まずは、これまでお店に通ってくださった常連のお客様へ、心を込めて休業とリニューアルのお知らせメールを送った。


 メールを書くのに、三日かかった。


どう説明するか、何を伝えるか、どう感謝を伝えるか。



 下書きを何度も書き直した。

 料理が得意ではないことへの後ろめたさと、新しい場所への希望と、お客様への申し訳なさが、言葉の中でごちゃごちゃに混ざった。


 最終的にはシンプルにした。


難しい言葉はいらない。


ただ正直に、心を込めて書けばいい。


『いつも当店を愛していただき、ありがとうございます。このたび、店舗リフォームのため、しばらくの間お休みをいただくことになりました。新しく、猫専門の揉み処として生まれ変わりましたら、改めて皆様にご連絡いたします。楽しみにお待ちいただけますと幸いです』


 送信ボタンを押して間もなく、私のスマートフォンは温かい返信の通知で次々と震え出した。


 職人気質でいつもぶっきらぼうな黒岩さんからは、彼らしい力強いメッセージが届いた。


『了解した。大工の腕のいい知り合いがいるから、紹介してやる。工事中の安全管理も抜かりなくな。猫ファーストの店、期待してるぞ』


 黒岩さんは建設関係の仕事をしている五十代の男性で、月に二回、決まって夕方の時間に予約を入れてくれていた。


いつも寡黙で、猫たちの前でだけ、少しだけ表情が柔らかくなる人だった。特にももと相性がよく、ももが膝に乗ることを許したのは、私と両親以外では黒岩さんが最初だった。


 いつも仕事帰りに疲れた顔で癒やしを求めてきてくれていたサラリーマンの男性からは、丁寧なエールが綴られていた。


『しばらくお会いできないのは寂しいですが、新しいお店の誕生を心から楽しみにしています。どうかご無理をなさらず、お体に気をつけて進めてください』


 この男性は三十代で、いつもスーツにネクタイ姿で来ていた。猫は苦手ではないけど、犬派だと言っていた彼は、今では自分から「ゆずちゃんいますか」と聞いてくれるようになっていた。


 画面を見つめる視界が、少しだけ潤む。


みんな、この場所を愛し、待ってくれている。


それだけで、私の選択は間違っていなかったのだと、胸がいっぱいになった。



 高齢の女性常連客、田辺さんからの返信もあった。


『心待ちにしていますよ。猫たちはみんな元気にしていますか。特にサチちゃんの子猫ちゃんたち、早く会いたいわ。ゆっくり準備なさってね』


 田辺さんは七十歳を超えているが、毎回バスと徒歩で来てくれていた。


猫を触ったあとの顔が、少しずつ若くなっていくように見える。そういうお客様に会えることが、この仕事の何よりの喜びだった。





 黒岩さんが紹介してくれた腕利きの職人さんたちの手によって、工事は驚くほど迅速に、そして丁寧に進められた。


 棟梁は六十代の、無口だが目の鋭い男性だった。


図面を見る時間よりも、実際の空間を歩き回って確認している時間の方が長くて、あちこちを指で触ったり、壁を軽く叩いたりしながら「ふむ」とか「なるほど」とか、呟いていた。


「猫専門の施設にしたいんです」と私が言うと、「それなら床の素材から変えないと」と言って、無垢材の種類を三つほど挙げてくれた。


 猫の肉球に優しい硬さ、爪を引っかけても傷が目立ちにくい木目、汚れを拭き取りやすい表面処理。そこまで考えてくれるとは思っていなかった。


 かつて薬膳の香りが染み付いていた一階の店舗スペースは、すっきりと広い、リビングへと変わった。


 もう、ここで一人で悩む必要はないのだ。


 薬膳の調理道具は丁寧に整理した。

 捨てるものと、残すものとに分ける作業をしていたとき、不思議と後悔はなかった。


これだけのものを、一人で積み上げてきたんだな、という感慨はあった。でも、そこには悲しみよりも、穏やかな区切りの感覚があった。


 そして庭の広い敷地に新しく完成したのは、温かみのある木目調の外壁に、陽の光をたっぷりと取り込む窓がついた、それは素敵なユニットハウスだった。


 内部は思っていたよりも広く感じた。


棟梁が「猫は日当たりのいい場所を好む」と言って、出窓を二か所作ってくれた。


 最初は掃き出し窓はどうかと聞かれたけど、私があまり外から見えるのが好きじゃない為、断ったら出窓に変わった。


キャットタワーを置いても、お客様用のソファを置いても、まだ余裕がある。


 天井に近い高さには、猫たちが安全に歩き回れる渡り木棚も取り付けてもらった。


 この新しい揉み処と、私たちの暮らす母屋は、細い屋根付きの「渡り廊下」でそっと繋がっている。


 雨の日でも風の日でも、ここを通れるのは、私たち家族と猫たちだけ。


 一方で、お客様をお迎えする入り口は、道路側に頑丈な脱走防止柵付きで完全独立にした。


 これなら、猫たちの安全を守りながら、完璧なプライベート空間を作ることができる。


 完成したばかりの渡り廊下のドアをそっと開けると、清々しいい木の香りが鼻腔をくすぐった。


「にゃあ」


 いつの間にか私の後ろにトコトコと付いてきていたももが、渡り廊下をそろそろと、肉球の感触を確かめるように歩いていく。


 そして、完成したばかりのユニットハウスの中へと足を踏み入れた。


 くんくん、と忙しなく鼻を鳴らして部屋の隅々を検分し、大きな窓から外の景色を眺めてから、満足げにこちらを振り返った。


「にゃ(……悪くない。いや、合格だ。合格をくれてやる)」


 続いて入ってきたゆずは、部屋の真ん中に差し込む日当たりのいい特等席を見つけると、さっさとその場に寝そべり、毛繕いを始めた。


「にゃあ(決めた。ここ、今日から俺のな)」


「ふふ、もう場所取り? 早いなぁ、ゆずは」


 呆れつつも、二匹のその寛いだ姿を見て、安心感に包まれた。


二匹が気に入ってくれたなら、それが何よりの正解だ。


 渡り廊下を渡ってきたサチも、やがて姿を見せた。


 今日も、サチが渡り廊下に入ってくると、遅れて小さな足音が追いかけてきた。


 子猫たちが新しい部屋に入ってくると、途端ににぎやかになった。


あちこち嗅ぎ回り、段差を上って、また降りて、転んで、それでもまた立ち上がって走り出す。


 窓の外には、移植した季節の木々や花壇が広がっている。渡り廊下の両側には、風に揺れる小さな花たち。


 これなら猫たちも、危険な外の世界に出ることなく、安全に、そして自由に母屋とお客さんの待つお店を行き来できる。


「よし。ここが私たちの新しい『猫の癒やし』の揉み処だよ」


 ももとゆずは返事こそしなかったけれど、ピンと垂直に立てられた二匹の尻尾が、何よりも雄弁にその喜びを物語っていた。




 木の香りがまだ漂う、気持ちよく晴れ渡った朝。


 私は、常連の皆さまへ再オープンの連絡メールを送り終えた。


 送信ボタンを押す直前、少しだけ手が止まった。


これが、本当の始まりだ、と思ったからだ。


薬膳カフェは始まりでもあり、長い助走でもあった。


私はずっと、何かを探しながら走っていたのかもしれない。そしてようやく、道が見えた気がした。


 そのメールの末尾には、新しく決めたお店の「絶対のルール」を書き添えておいた。


 新しい揉み処のスタイルは、徹底的な『猫ファースト』。


 昼も、夜も、基本としての営業時間は設けるけれど、それはあくまで「猫たちが乗り気なとき」だけ。


猫たちが眠たそうにしていたり、今はのんびりしたい気分なのだと察したときは、迷わずその日の営業を休みにする。


 お客様には申し訳ないけれど。

 それがこの店の新しい、そして本来あるべき姿だ。


猫は人間のスケジュールに合わせて生きていない。だからこそ、この場所の時間は猫の時間でなければならない。


そこへ人間がそっとお邪魔する。

 それがこの揉み処の、根本的な在り方だ。


 かつて古い店舗の入り口に掲げていた、あの「本当に疲れた人にしか見えない不思議な看板」は、新しいユニットハウスの入り口へと大切に移設した。


 あのあわく灯る不思議な光は、場所が変わっても変わらず、今夜もきっと、本当に癒やしを必要とする誰かの足元を優しく温かく照らしてくれるだろう。




「さて、みんな。そろそろ、お仕事の準備をはじめようか」


 私は愛用のカメラを手に取った。


 これは一眼カメラで、もう五年以上使っている。ボディの端が少し傷んでいて、ストラップの革も擦れているが、愛着があって換えられない。


 猫たちの自然体な姿を収める動画撮影。これは、私がカフェを始める前から、ずうっと大切に続けてきた、もう一つの、そしてこれからも続いていく私の天職だ。


 猫の動きは予測できない。だから面白い。


ファインダーを構えていても、猫の方がこちらの意図を読んでいるように動くことがある。レンズを向けるとそっぽを向き、カメラを下ろした瞬間に最高の表情をする。それすら全部、この子たちの個性だと思う。




 新しい揉み処に差し込む、柔らかな木漏れ日。


 その中で気持ちよさそうにくつろぐ、ももとゆず。


 そして、まだ畳の床の上を、小さな足音を響かせて元気に走り回るサチと、その子猫たち。


「……ふふ、最高の素材だね、みんな」


 ファインダーを覗きながら、私は心の底から笑っていた。


 かつて、薄暗い厨房の中で、たった一人で「向いていないかもしれない」と膝を抱え、不安に押しつぶされそうになっていたあの頃の私は、もうどこにもいない。


 あの日々が無駄だったとは思わない。


薬膳を学んだことで、食材と身体の繋がりに向き合う時間があった。


お客様一人ひとりと丁寧に接する経験があった。


「本当に来てくれる人のために場所を作る」


という姿勢は、あの頃に育てたものだ。


まだ不安がゼロになったわけじゃない。

 でも、前みたいに胃が痛くなる夜は、減った気がする。





――からん、ころん。


 その時、新しい揉み処の扉につけられた、真鍮のドアベルが、初めて優しく、涼やかな音色を響かせた。


 室内を包んでいた賑やかな空気が、一瞬で引き締まる。


 ももが、ゆずが、サチが、そしてすべての子猫たちが、一斉にピンと耳を立てて、入り口のドアへと視線を向けた。


 猫たちが、それぞれの場所で、それぞれのスタイルで、構えている。


 これが、この場所の在り方。


何かを言いたくなる時ほど、黙っていた方がいいことがある。


ただ、ここに流れる時間の中に、誰かが混ざり込む。それだけでいい。


 さあ、新しい物語の、本当の始まりだ。


「いらっしゃいませ」


 愛しい猫たちをそっと従えながら、私は満面の笑みを浮かべて、記念すべき最初のお客様をお迎えするために、ゆっくりと歩き出した。


 扉の向こうに差し込む光は、今日も穏やかだった。


 そして、私の足元には、ももが静かに、しかし確かについてきていた。




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