第9話: 見られる仕事
都の匂いは、幾重にも折り重なって届いた。
焼きたてのパンの香の下に乾いた薬草の埃っぽさが差し、その底を人いきれの汗が流れていく。
オリヴィアは城門の手前で足を止め、その層をひとつずつ舌の奥でほどく。
メリディア公国の都、と国境の役人は言った。石畳は白く乾き、両脇に高い家々が肩を並べる。
通りを行く人の足取りが、王都フェルンとは違った。誰もが用を持ってまっすぐに歩く。値踏みするような遅い視線がない。
荷の底へ指の背をそっと差し入れる。灰塵の瓶が、指先に硬く触れた。
薄めた琥珀の液は、もう底に一舐めぶんを残すだけだった。
国境を越えて幾日。数えずとも、瓶の軽さが日を教えた。
その隣で、白い鳥の木札が荷の布に触れ、乾いた音を立てる。
尽きかけた毒と、まだ何者でもない札。オリヴィアはその二つを抱え直して門をくぐった。
宮付きの薬院は、宮城の東の一郭にあった。
宮城は都の北を占め、そこから市街が扇のように坂を下っていく。王の居城のような壮麗さはない。ただ広く、機能のために組まれた石の群れだった。
門で木札を見せると、衛士は焼き印を検め、それだけで通した。素性も家名も問われなかった。
案内された先は、乾いた薬草の匂いで満ちた広い房だった。
天井まで届く棚に、素焼きの瓶がびっしりと並んでいる。どの瓶にも中身を記した木の札が結わえてあった。
人が幾人も立ち働いていた。薬研を挽く者、湯気を上げる釜を見る者、帳面に何かを書きつける者。
誰の手も、隠れていなかった。
オリヴィアは房の入り口で、一瞬立ちすくんだ。
王城の毒見役は厨の隅で、人目を避けて器に指を触れた。見られてはならない役目だった。
ここでは誰もが、見られる場所で手を動かしている。それがこの房の当たり前らしかった。
「あなたが、閣下の言っていた薬師か」
白髪を短く刈った女が、薬研から顔を上げた。年は五十がらみ、房を束ねる者らしい落ち着きがあった。
「わたしはハルダ。ここの房を預かっている」女は薬研を置いた。爪のいくつかが黒ずんだ、幾年も薬にやられてきた手だった。「腕を見せてもらう。そこの卓に、名の落ちた粉が三つある」
「見分けて、使い道を言ってごらん。舐めても、舐めなくてもいい」
女の声に、含みはなかった。試すというより、当たり前の手順を踏むだけの声だった。
卓には、白い粉を盛った皿が三つ並んでいた。
周りの手がいくつか止まった。新参の腕を見ようと、視線が集まってくる。
その視線の重さに、オリヴィアの背が強張る。
——見られている。
七年、そう思うたびに手を引いてきた。見られれば、器のすり替えに気づかれる。だから見られてはならなかった。
だが、ここで引く手は、隠すべきものを何も持たない。
オリヴィアは、一つ目の皿へ指を伸ばした。
ひとつまみを掌に取り、まず匂いを嗅ぐ。それから舌の先へ、ごく少し乗せた。
舌の上で、粉が溶けて消えていく。苦みのあとに、ひやりと甘い余韻が残った。
「これは、甘草の粉かと存じます」オリヴィアは言った。「咳を鎮め、他の薬の角を取るのに使います」
二つ目は、匂いだけで分かった。鼻をかすめる、鋭い辛みの気配。
「芥子の類です。温めて、腫れを引かせるのに」
「よく当てる」ハルダが短く言った。「では、三つ目は」
三つ目の皿へ、指を伸ばしかけて、止めた。
白い粉の縁が、ほんのわずかに、灰を帯びていた。
舌に乗せる前に、鼻を寄せた。薬草の甘い匂いの裏に、饐えた酸みがこもっている。
「これは、口にできるものではございません」
女の眉が、片方だけ上がった。
「毒草を挽いたものです。ひとつまみで腹を下し、量を過てば命に障ります」オリヴィアは皿を女のほうへ、半歩押しやった。「試すための毒を、混ぜておられましたね」
房が、しんと静まった。
女はしばらくオリヴィアの顔を見ていた。それから口の端をわずかにゆるめた。
「三つとも、当てた者は久しぶりだ」
「毒だけは、舐めずに見分けたね」
「……舐めれば、分かります」オリヴィアは答えた。「ですが、舐めずに済むならそのほうが」
言ってから、その言葉が七年の何を指しているのか、自分でも危うくなって、口を噤んだ。
「そのほうが、長生きするよ」ハルダは、ふっと笑った。「毒に詳しい薬師は、たいてい早死にするからね」
その一言は、妙に胸へ残った。
ハルダは、皿の一つを引き寄せた。灰を帯びた、あの毒草の粉だった。
「では、これを盛られた者を、おまえはどう救う」
「炭の粉を、まず飲ませます」オリヴィアは即座に答えた。「毒を吸わせ、吐かせるのが先かと」
「吐かせて、かえって悪くなる毒もあるが」
「匂いで分けます。饐えた酸みが立つなら、吐かせず炭と水で薄めるほうが」
ハルダの手が、いちど止まった。それから、帳面に何かを書き足した。
「どこで、毒をそう学んだ」ハルダは帳面から目を上げた。「その手つきは、付け焼き刃ではないね」
「……家が、薬師の筋でしたので」オリヴィアは、それだけ答えた。
ハルダはそれ以上を問わず、帳面に何か書きつけて、次の指図へ移った。
「あの」オリヴィアは、その背へ声をかけた。「わたしは、何から手をつければ」
「明日でいい」ハルダは振り向かずに言った。「今日はもう、じゅうぶん見せてもらった」
「では、寝床は」
「裏手の小部屋を使いな。前の薬師が、空けたばかりだ」
試されて、答えて、それで通る。ここでは、働きがそのまま値になるらしかった。
誰も、オリヴィアの家名を聞かなかった。誰も、なぜ毒に詳しいのかを詮索しなかった。
軽くなった肩が、かえって落ち着かない。褒められない仕事に慣れた体は、見られることの置きどころをまだ知らなかった。
夕刻、房の隅で薬研を挽いていると、薬師たちの声が低く流れてきた。
「先の宴で倒れた、あのお方だがね」
「持ち直したと聞いたが」
「昨夜、また吐かれたそうだ。宮の医者も、首をかしげるばかりでな」
オリヴィアの手が薬研の上で止まった。
宴で倒れ、持ち直し、また吐く。その順が耳の奥で妙な形を結んだ。
「食あたりにしては、長すぎやしないか」誰かが声を落とした。「宮の膳に良からぬものが、という噂も」
「めったなことを言うな。膳のことを口にした者が、去年ひとり宮を追われている」
そこで、声はふつりと途切れた。
誰かが話を打ち切るように、釜の蓋を鳴らした。
オリヴィアは薬研の柄を握り直した。
その繰り返しの形に、覚えがあった。どこで嗅いだ崩れ方か、すぐには名指せない。それでも、耳がそれを勝手に聞き分けてしまった。
舌の奥に、古釘の味がかすかに立った。昼に飲んだ都の水の鉄気とは違う、もっと深いもの。城の器の底から幾度も立ちのぼった、あの味だった。
——城の器で嗅いだ味が、なぜ国をひとつ越えた、この都にまで。
問いは、答えの当てもないまま、胸の底に沈んだ。
だが、確かめる術はない。膳を見たわけでも、器を検めたわけでもない。
それでも、疼いた目は、容易には凪がなかった。
「精が出るな」
振り返ると、房の入り口に、宰相ユリウスが立っていた。
黒に近い濃紺の短髪。装飾を削いだ礼装。深い灰青の目が、まっすぐ手元へ落ちている。
薬師たちがいっせいに手を止めて頭を垂れた。オリヴィアも薬研から手を離して腰を折った。
「宰相閣下」
「札は、役に立ったようだな」ユリウスは、並んだ皿の三つ目へ目をやった。灰を帯びた毒草の粉が、まだそこに残っている。「毒を、舐めずに退けたか」
「……試しの一つに、混じっておりましたので」
「混ぜるように言ったのは私だ」ユリウスは、悪びれずに言った。「舐めて当てる者は多い。舐めずに退ける目が、私には要る」
オリヴィアは、答えを持たなかった。試されていたのは、腕だけではなかったらしい。
「歩けるか」ユリウスは、房の外の回廊を目で示した。「少し、話がある」
回廊に出ると、西日が石の柱を橙に染めていた。中庭で、薬草を摘む者たちの背が、遠く小さく動いている。
「この国では」ユリウスは歩きながら言った。「薬院の者にも、務めの記録がつく。誰が何を調え、誰の見立てが当たったか」
「働きが帳面に残る、と」
「残る。だから、見られる」ユリウスは足を止めた。「君は、それを厭う顔をしていた」
図星だった。だが、オリヴィアの声は乱れなかった。
「……働きは、見られぬものと思っておりましたので」
「アルデニアでは、そうだったのだろうな」ユリウスの声に、咎めはなかった。「だが、ここは違う。埋もれた腕を埋もれさせておくのは、この国では損だ」
「家柄で人を計れば、使える手を取りこぼす」ユリウスは前を向いたまま言った。「私は、それを嫌というほど見てきた」
損、という言葉を、この人は使う。情でなく、勘定で人を計る言い方だった。だが、その勘定は、家名でなく手そのものを見ていた。
だが、その勘定が、七年誰も見なかった手を、初めて帳面に載せようとしている。
「君の腕は、薬院に置く」ユリウスは言った。「まずは、ここで手を動かせばいい」
「……よろしいのですか」
「腕を遊ばせておく理由がない」ユリウスは、それだけのことだと言わんばかりに答えた。「務めが君に合うかは、君が決めろ」
オリヴィアは頭を垂れた。垂れながら、胸の奥がざわついていた。
居場所を与えられることに慣れていなかった。与えられれば、いつかそれを失う日が来る。七年、そう身構えて生きてきた。
「一つ、伺っても」オリヴィアは顔を上げた。「閣下が泉で仰った、宮の膳の噂を。この房でも、それらしい声を耳にいたしました」
ユリウスの目が、わずかに細くなった。
「耳が早いな」
「房の隅にいると、いろいろな声が届きます」オリヴィアは言った。
「宴で倒れたお方が、持ち直してはまた吐かれると」
言いかけて、オリヴィアは舌の奥に疼く金気を確かめた。言うべきか、一瞬迷う。だがこの人は、働きを帳面に載せると言った。ならば、これも働きだ。
「一度で崩れて終わらぬのは、急な毒ではございません」オリヴィアは顔を上げた。「少しずつ身の内に溜め、あるとき抑えが外れて牙を剥く。そういう、遅い毒の顔をしております」
ユリウスの足が止まった。
灰青の目が、初めてまっすぐにオリヴィアの目を捉える。値踏みでも労わりでもない、何かを見出した目だった。
喉の奥が、ひとりでに詰まった。七年、伏せた器の底にだけ流してきた読みを、初めて人の目の前へ置いた。口にしてしまえば、もう伏せられない。
「見たこともない膳を、そこまで読むか」
「確かめたわけではございません」オリヴィアは慌てて付け足した。「ただ覚えのある崩れ方に、聞こえただけで」
「その覚えを、私は買う」ユリウスの声が低く落ちた。「宮の医者がいまだ言い当てられずにいることを、君は立ち話ひとつで言い当てた」
「……膳のことを口にした者は、宮を追われたと聞きます」オリヴィアは声を落とした。「盛った者に気取られれば、手口を変えられます。ですから、迂闊には言えぬことかと」
「そこまで分かって、なお私に言ったな」
問われて、オリヴィアは口を噤んだ。
告発すれば犯人に警戒される。だから沈黙を選ぶ——七年前、十二の自分がたった一人でたどり着いた理屈だった。その沈黙を、初めて自分から破った相手が、この人だった。
「言う相手を、間違えぬ目もあるらしい」ユリウスは、口の端をわずかに上げた。
「その目に、いずれ頼ることになりそうだ」ユリウスは言った。「だが急くな。まずは、その手を休ませろ」
「休ませる、と」
言われて、オリヴィアは自分の手が、袖の内で小さくこわばっているのに気づいた。そっと握り込む。
「働かせるより先に、まず食え。眠れ」ユリウスは、もう背を向けていた。「腕は、体が保ってこそだ」
震えには、触れなかった。見えていて、あえて置いていったのだと、遠ざかる背が言っていた。
「……頂戴いたします」
その背へ、オリヴィアは深く頭を下げた。
その夜、オリヴィアは薬院の裏手に与えられた、小さな部屋に落ち着いた。
寝台が一つ、卓が一つ。窓の下に、古い薬種の棚が据えてある。
棚には、前の使い手が残したらしい素焼きの瓶がいくつか並んでいた。どの瓶にも中身を記した札が結わえてある。
名を掲げ、明るみに晒された瓶たち。この房のすべてが、そうだった。
オリヴィアは、荷の底から、自分の瓶を取り出した。
薄めた灰塵。底に、一舐めぶんが残るだけの琥珀。
この瓶には札がない。中身を記せば、隠してきた七年がそのまま棚に並ぶことになる。
指先で瓶を回しながら思った。この都には薬種を商う店がある。薬院には炭を挽く臼もある。
尽きたあとに、耐性を継ぐ材料を探すのか。それとも、七年ぶんの蝕みを、少しずつ身から抜いていくのか。
どちらの道も、まだ選べなかった。指の震えが、答えを先延ばしにさせた。
棚を見上げる。名を掲げた瓶たちが、灯りの中で、こちらを見下ろしている。
働きが見られる国。腕が帳面に残る場所。
その明るさは、確かに希望だった。そして、同じだけ、怖かった。
オリヴィアは名のない自分の瓶を、並んだ瓶たちの列のいちばん奥へ差し入れた。
札を掲げた瓶の陰に、札のない瓶が、そっと隠れる。
琥珀の底が、灯りを弾いて、一度だけ小さく光った。
あと一舐め。それが尽きるまでに、この身がどう傾くのか——考えかけて、代わりに、昼間の噂が舌の奥へ戻ってきた。
倒れて、持ち直して、また崩れる。あの膳の底に沈むものを、見ずにはいられない。見るなと言われて育った目が、もう宮のほうを向いていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
いよいよ第二アーク「隣国編」の幕開けです。舞台はメリディアの都へ移り、七年「気づかれないこと」を是としてきたオリヴィアが、初めて「働きが見られる/問われる」場所に立ちます。
この話でいちばん書きたかったのは、見られることの怖さと希望が、ひとつのものの裏表だということでした。腕が帳面に残る国は、彼女の七年をようやく値として認めてくれる場所です。でも、隠して生きてきた人にとって、見られるというのは、それ自体が長く恐怖だった。房の入り口で立ちすくむ背中に、その両方を込めたつもりです。
宮の膳をめぐる噂も、都の内側から一段だけ像を結ばせました。倒れて、持ち直して、また崩れる——その「遅い毒の顔」に、オリヴィアの舌が覚えのある金気を嗅ぎ取る。ここから、彼女の毒を読む目が、静かに動きはじめます。
名を掲げた瓶たちの奥に、札のない瓶をそっと隠す。尽きかけた毒を抱えたまま、それでも彼女は、新しい棚の前に立ちました。次話では、その腕が初めて「顧問」として正しく用いられます。
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