第10話: 宮廷医顧問
湯気の底に、乾いた生薬の苦みがひそんでいた。
オリヴィアは匙の先でそれをすくい、舌の上でひとしずく転がす。
苦みの奥に、狙った通りの甘みが遅れて追いついてきた。
馬丁の一人が、荷を運ぶ際に足を裂いて熱を出したという。傷は塞がりかけていたが、熱だけが引かずにいた。
柳の皮を煎じ、蜂蜜で角を丸めた薬湯。舌に残る渋みの奥まで確かめてから、オリヴィアは椀を布で包んだ。
この房に来て、三日が経つ。
薬研を挽く手にも、瓶の並びにも、ようやく指が迷わなくなってきた。名を掲げた瓶の列に、まだ自分の瓶だけは紛れているままだったが。
その瓶の一つだけは、薬効とは無縁のものだった。灰塵——最後の一舐めが、いまも底にわずかに残っている。この房に来てからの三日、それに手をつけずに耐えてきた。断てば指先が細かく震え、夜半に脂汗がにじむ。それでも、名を得ようとするこの場所で舌を痺れさせるわけにはいかなかった。最後の一舐めをいつ使うのか、それとも使わずに済ませられるのか——その答えだけは、まだ出せずにいた。
「持っていっておやり」
ハルダが帳面から顔を上げずに言った。「熱がまだ高いようなら、明日また煎じ直す」
「かしこまりました」
椀を渡すと、受け取った下男は両手で押しいただき、深く頭を下げた。あの馬丁は昨日まで匙も握れずにいたのだと、下男は声を詰まらせた。
その礼を背に受けながら房へ戻ると、若い見習いが薬研の陰から顔をのぞかせた。
「オリヴィア様の煎じ薬、また効いたそうです」見習いは声を弾ませた。「厨のほうまで、腕が良いと噂になっていて」
「……大げさです」
「大げさじゃありませんよ」見習いは笑った。「うちの房で、三日で名の挙がった人なんて他にいません」
その言葉に、耳の裏がふっと熱を持った。くすぐったいような、居心地の悪いような——噂になる、というだけで、まだ慣れないこそばゆさが指先に残る。
ハルダはようやく帳面を閉じた。
「おまえの名は、もう三度この帳面に載った」ハルダは薬研の縁を指でなぞった。「見立てが当たるたび、書き足す決まりでね」
「そんな決まりがあるとは、存じませんでした」
「知らなくていい。見られて困る仕事なら、うちには置けないよ」
その言い方に、咎める色はなかった。ただ、当たり前のことを告げる声だった。
房の入り口に、若い従僕が姿を見せた。
「オリヴィア殿。宰相閣下がお呼びです。執務の間へ」
ハルダの眉が、ひとつ動いた。それだけで、何も問わなかった。
「行っておいで」ハルダは薬研を引き寄せた。「帳面の続きは、待っていてやる」
執務の間は、薬院よりも静かだった。
高い窓から差す午後の光が、床の石に細長い枠を落としている。
石壁に囲まれた四角い部屋に、卓が一つ、書棚が壁一面。装飾らしい装飾はどこにもない。要るものだけを残し、あとは削ぎ落とす——それが、メリディア公国の宰相府の顔らしかった。金と絹で飾り立てられた王都フェルンの回廊とは、何もかもが違う。
窓辺の卓に、ユリウスが立っていた。手にした書状から目を上げる。
「来たか」
「宰相閣下」オリヴィアは腰を折った。
「そこに」ユリウスは卓の向かいの椅子を示した。「立ち話で済む用でもない」
腰を下ろすと、卓の上に、一枚の羊皮紙が置かれているのに気づいた。
まだインクの匂いが残っている。書かれたばかりの文字らしい。
「三日、薬院を見た」ユリウスは羊皮紙に手を置いたまま言った。「ハルダの見立てを信じるなら、腕は疑いようがない」
「もったいないお言葉です」
「言葉ではない」ユリウスは、それだけで答えを打ち切った。「事実を言っている」
オリヴィアは、口を噤んだ。
「君に、宮廷医顧問の任を与える」ユリウスは言った。「今日、この場で」
その一語が、耳に入ってから、意味を結ぶまでに間があった。
「……顧問、と」
「薬院の一員としてでなく、宮の医事に直接意見する立場だ」ユリウスは続けた。「膳の疑い、毒の疑い。宮でそういう事が起きたとき、君の見立てが記録に残る」
「これまでの見立ては、薬院の帳面に留まっていた」ユリウスは羊皮紙を指先で押しやった。「顧問の名は、宮の記録に載る。誰の目にも見える形で」
見える形で。
七年、その言葉を恐れて生きてきた。毒見と称して王太子の器を検め、毒を見つけるたび、そしらぬ顔で自分の器とすり替えてきた。見えれば、そのすり替えに気づかれる。盛った者に、手口を変えられる。
だが今、その言葉は、罰でも危うさでもない形で差し出されていた。
「なぜ、わたしを」オリヴィアは尋ねた。「まだ、三日にすぎません」
「三日で、三度当てた」ユリウスは短く言った。「十年かけて一度も当てぬ者もいる」
「それに」ユリウスの目が、ふとやわらいだ。「泉で、私はすでに見ている」
毒芹を一本抜いたあの日のことだ。あの日から、この人はずっと見ていたのかもしれない。
「この書は」ユリウスは羊皮紙を、オリヴィアのほうへ向けた。「任命の証文だ。名を記さねば、正式にならない」
紙面の中ほどに、空白があった。名を記す場所だけが、まだ埋まっていない。
「家名を」ユリウスは尋ねた。「聞いてもいいか」
オリヴィアの指先が、膝の上でこわばった。
家名を記せば、レイヴンズクロフトの名が、この国の記録に残る。いつか誰かが、その名から糸をたどるかもしれない。
「……お許しいただけるなら」オリヴィアは顔を上げた。「名だけを、記していただきたく存じます」
ユリウスの視線が、証文の空白とオリヴィアの顔のあいだを、一度だけ往復した。羽根ペンへ伸ばしかけた手が、そこで一拍止まる。それきり、家名の在り処を問い返すことはなかった。
「理由は問わない」ユリウスは羽根ペンを取った。「名だけで、記録は成る」
羽根ペンの先が、羊皮紙をかすかに引っ掻く音を立てた。インクが、乾いた紙に沈んでいく。
——オリヴィア。
その名が、空白を埋めた。姓のない、ただの名だけが。
誰かに与えられた家名でなく、誰かに切り捨てられた肩書きでもない。ただ、自分だけの名が、初めて紙の上に立っていた。
息が、喉の途中で一度止まった。
七年、器の底にだけ流してきた働きが、インクの染みひとつぶんの重みで確かに記された。
「……ありがたく」
声が、思ったより掠れた。
「礼はいい」ユリウスは証文を丸め、赤い封蝋を垂らした。「働きに見合う扱いをしているだけだ」
封蝋の上に、白い鳥の紋を押しつける。冷めた蝋が、じきに固く締まった。
「これは、君のものだ」ユリウスは証文をオリヴィアへ差し出した。
受け取った証文は、思いのほか軽かった。だが掌に乗せると、木札のときとはまた違う確かさが指に残った。
「役目にはもう一つ、伝えることがある」ユリウスの声の色が、わずかに変わった。「軽い話ではない」
「先の宴で倒れたヴァレス侯の話は、覚えているな」
「覚えております」オリヴィアは証文を握り直した。「持ち直しては、また吐かれると」
「ヴァレス侯は今日、床払いをした。医者は快癒と診た」ユリウスは言った。「だが私は、まだ疑っている」
「快癒と診ながら、なぜ」
「治ったふりのできる病と、治ったふりのできない病がある」ユリウスは言った。「見分ける目が、この宮には君しかいない」
「顧問は、常にお側に控えるのでしょうか」
「いや」ユリウスは首を振った。「呼ばれるまでは、いつも通り薬院にいればいい。ただ呼ばれたときは、日でも夜でも構わず来てもらう」
「宮の毒だけは、待ってはくれないからな」
その一言に、七年の記憶がふっと重なった。夜更けに器の底を検めた、幾百の朝を思い出す。呼ばれる側でなく、気づく側であり続けた七年だった。
その言葉の大きさを、オリヴィアはまだうまく量れずにいた。証文の墨も湿ったまま、もう次の役目を差し出されている。
薬院に戻ると、ハルダが帳面から顔も上げずに言った。
「早かったね」
「これを」オリヴィアは証文を卓に置いた。
ハルダは薬研の手を止め、赤い封蝋を検めた。白い鳥の紋を、指の腹でなぞる。
「顧問、か」ハルダの口の端が、片方だけ上がった。「三日でそこまで上がった者は、私の代では初めてだ」
「腕だけで、ここまでとは」
「腕だけじゃないさ」ハルダは証文をオリヴィアへ返した。「見た目じゃ測れない何かを、閣下は見たんだろうよ」
オリヴィアは、証文を両手で受け取った。
封蝋の固さが、掌にじんわりと残る。
名を掲げた瓶の列に、自分の瓶だけが紛れていた三日前を思い出す。あのときの自分に、この証文を見せたら、どんな顔をするだろう。
「浮かれてる暇はないよ」ハルダが帳面を閉じた。「顧問になれば、これまでより厄介な仕事が回ってくる」
「望むところです」
自分でも驚くほど、すんなりとその言葉が出た。
扉が、乱暴に開いた。
息を切らした従僕が、房の敷居で足をもつれさせた。
「ハルダ様。オリヴィア様も、ここに」
「何ごとだい、そんな顔をして」
「アーレン伯が」従僕は喘ぎながら言った。「アーレン伯が今朝、屋敷で亡くなりました」
房の手が、いっせいに止まった。
「亡くなった、とはどういうことだい。あの方はご壮健だったろう」
「夕べの晩餐のあと床に就かれて、そのまま」従僕は声を落とした。「侍医は、毒を疑うと」
アーレン伯。宮の宴でも、幾度か名を耳にした。壮健で、声の大きな貴族だったという。
その人が、たった一晩で。
持ち直しては崩れる、ヴァレス侯の毒とは違う。晩餐のあと、一夜で、一息に。まだ遺体を見てもいないのに、そんな予感が胸の底をかすめた。
背筋を、冷たいものが一息に駆け上がった。オリヴィアの手の中で、証文の縁が、じわりと湿る。
「宰相閣下がお呼びです」従僕はオリヴィアのほうへ向き直った。「顧問殿を伴い、すぐに屋敷へと」
顧問殿。
その呼び名が、まだ自分のものだという実感を持てないうちに、もう役目として差し出されていた。
オリヴィアは証文をきつく握った。乾ききらぬインクの匂いが、まだ紙の奥からかすかに立っていた。
その匂いの向こうに、覚えのある古釘の気配が、遠く舌の奥をかすめた気がした。確かめる術は、まだない。
名を得たばかりの手が、早くも、名のない死体へ差し伸べられようとしていた。
オリヴィアは、封蝋の白い鳥をひとつ指でなぞってから、証文を懐に収めた。
まだ湿ったインクの上を、冷たい蝋の重みが押さえつける。喜びと、これから向かう死の匂いが、同じ懐の中で隣り合っていた。
証文を胸に抱きながら、オリヴィアは屋敷へ向かう馬車へと足を速めた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回のテーマは「名前」でした。七年間、毒見役として器の底にだけ働きを流してきたオリヴィアが、初めて自分の名だけを紙に記される場面を書きたくて、この話を組み立てました。家名は隠したまま、ただ「オリヴィア」の名だけが証文に沈んでいく——その瞬間に、彼女の七年ぶんの重さを込めたつもりです。
ユリウスの「理由は問わない。名だけで、記録は成る」という一言がお気に入りです。詮索しないことが、この人なりの誠実さなんだと思って書きました。踏み込みすぎず、でも確かに見ている。そのバランスが、彼の不器用な優しさだと感じています。
喜びも束の間、公国貴族の毒死という報せが飛び込んできて、顧問としての初仕事がいきなり始まってしまいました。乾ききらぬ証文のインクと、遠くかすめた古釘の気配。この二つがどうつながっていくのか、次話からいよいよ隣国編の事件編が動き出します。
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