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『毒見の女など用済みだ』と婚約破棄された私が伯爵家を去った翌朝、王太子は毎日吐血するようになった  作者: 藍田 算


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第11話: 公国の毒

 鉄と、饐えた酒の匂いが、屋敷の扉を開けた瞬間に鼻先をかすめた。


 オリヴィアは足を止めなかった。懐の証文はまだ体温にわずかな湿りを残していて、その湿りごと押し込むように、屋敷の敷居をまたいだ。


 回廊の奥から、女の啜り泣きが漏れてくる。


 初夏とはいえ、この屋敷の空気は妙に冷えていた。窓という窓に喪の布が下ろされ、昼の光がどこにも届いていない。


 馬車の中で、ユリウスはほとんど口を利かなかった。窓の外へ目をやったまま、指先だけが膝の上で一度、二度と揺れていた。あの人が落ち着かぬ様子を見せるのは、初めてかもしれない。


「先に手を回して、屋敷の者を落ち着かせておいた」ユリウスは玄関で振り向いた。「侍医はもう下がらせている」


「見立てが割れているのですね」


「卒中だという者と、毒だという者と」ユリウスは廊下を歩きながら言った。「私は後者だと見ている。だが、証を挙げられるのは私ではない」


「わたしの目で、確かめてよろしいのでしょうか」


「そのために呼んだ」ユリウスは寝室の扉に手をかけた。「屋敷の者には、私から話を通してある。誰も、君の手を止めはしない」


 オリヴィアは、知らず胸の前で手を握り込んでいた。見られることを許された役目は、まだ慣れない形で肩にのしかかる。


 扉が開くと、真っ先に喉の奥へ流れ込んできたのは、酒精と、それに紛れた微かな渋みだった。


 寝台の上に、恰幅の良い男が横たわっている。血の気の失せた唇の端に、乾いた泡の跡が残っていた。


 夫人らしき女が、寝台の脇にくずおれていた。侍女に肩を支えられ、顔を上げようともしない。


「アーレン伯の奥方だ」ユリウスが低く言った。「気丈な方だが、いまは無理を言わぬほうがいい」


 オリヴィアは夫人に一礼し、寝台に近づいた。


 指先で瞼をそっと開くと、白目に細かな血の点が散っていた。唇を軽く割り、舌の縁に触れる。舌先はすでに硬く縮こまり、押しても弾力がなかった。


 爪の色を確かめる。指の先から、紫がかった翳りが這い上がっている。卒中であれば片側に寄るはずの翳りが、左右の指に均等に広がっていた。


 毒には、体が抗う跡が残る。抗えなかった跡もまた、残る。この均等さは、後者の跡だった。


「侍医殿の見立てでは、心の臓が急に止まったと」家令が上ずった声で言い添えた。「歳のわりに、頑健な方でしたのに」


「頑健であるほど、抗った跡が分かりやすくなります」オリヴィアは静かに言った。「これは、抗いきれずに止まった臓の跡です」




 卓上の杯に、赤い滓が薄く張りついている。


 オリヴィアは布越しに杯を持ち上げ、鼻先を寄せた。


 酒精の奥に、舌の先が瞬時にすくむような鋭さが差した。灰塵の後味に残るあのざらつきとはまるで違う、切っ先のような刺激だった。


「毒が入っていたのは、この杯かと存じます」


「晩餐のあと、伯は自室でもう一杯だけ飲む癖があった」ユリウスが言った。「給仕は誰だ」


「古くから仕える従僕が、毎晩注いでいたそうです」屋敷の家令が声を震わせながら答えた。「今日に限って、伯自ら瓶を選ばれたと」


「瓶は」


「贈り物です」家令は言った。「先週、隣領から届いた葡萄酒でした」


 オリヴィアは瓶の口を覆う布を持ち上げ、残った香りを確かめた。花の香を模した甘さの底に、あの鋭さが薄く沈んでいる。


「量は、多くありません」オリヴィアは言った。「けれど、狙って計られた量です」


「舌が痺れて指先が利かなくなり、やがて息を詰まらせる速い毒です」


「速い、と」ユリウスの声が、一段低くなった。「ヴァレス侯の毒とは違う、ということか」


「はい」オリヴィアは杯を卓に戻した。「あちらは、幾晩もかけて弱っていく毒でした。こちらは、一夜で仕上げる毒です」


 二つの毒が、同じ手から出たものかどうか——それを口にするには、まだ材料が足りない。


 だが、狙われたのがどちらも公国の有力な貴族だという事実だけは、動かなかった。


「瓶の残りは、まだございますか」オリヴィアは家令に尋ねた。


「地下の酒蔵に、あと二本」家令は答えた。「同じ荷で届いたものです」


「開けぬまま、封を確かめておいてください」オリヴィアは言った。「口をつけた形跡があれば、それも証になります」


「他の使用人が、口にする恐れは」ユリウスが言った。


「無い、と申し上げたいところですが」家令は声を落とした。「昨夜は祝いの席で、伯から下働きの何人かにも一杯ずつ振る舞われております」


 オリヴィアは家令のほうへ、思わず一歩踏み出していた。


「その者たちを、一人ここへ」オリヴィアは家令を見た。「様子は、この目で確かめます」


「すでに、皆いつも通りにございます」家令は慌てて言い添えた。「気分の悪い者は、一人も」


「いつも通りに見える毒も、ございます」


 呼ばれた下働きの若者は、怯えた顔で敷居に膝をついた。オリヴィアはその手首を取り、脈を確かめる。瞼の裏を返し、舌の色を検めた。


 乱れは、どこにもなかった。爪も唇も、健やかな血の色をしている。


 振る舞われたのは同じ瓶でも、伯の一杯だけが別に計られていたということだ。狙われたのは瓶そのものではなく、伯のためだけに用意された最後の一杯——そう確かめて、ようやく胸の底の強張りがほどけた。




「侍医は卒中だと診た」ユリウスは寝台から目を離さずに言った。「私が疑わなければ、そのまま弔いに進んでいた」


「疑われたのは、なぜでしょう」


「贈り物の酒を、伯自ら選んだという話が引っかかった」ユリウスは言った。「贈り主を、伯はまだ屋敷に招いてもいない」


「まだ会ってもいない相手からの酒を、真っ先に開けたと」


「気に入っていたのだろう。産地を自慢していたそうだ」ユリウスは短く息をついた。「好みを知っている者が贈った、ということになる」


 好みを知っている者。


 オリヴィアはその言葉を、口の中で一度だけ転がした。


「顧問殿」家令が慌てた声で割って入った。「奥様が、伯のご様子を今一度」


 夫人が、震える手で寝台の縁をつかんでいた。侍女が慌てて支えようとするが、夫人はそれを押しのけ、夫の頬に触れようと腕を伸ばす。


 オリヴィアはとっさに夫人の手を止めた。


「奥様。どうか、お触れになりませんように」


「なぜです」夫人は涙で濡れた目を上げた。「もう、それきりだというのに」


「毒の性質が、まだ判じきれておりません」オリヴィアは声を落とした。「万一のことがあれば、奥様のお命にも障ります」


 夫人の肩から、力が抜けた。


「主人は……」その唇が、力なく震えた。「近いうちに大切な客が見えると、あんなに楽しみにしておりましたのに」


 誰が、とオリヴィアが問う前に、夫人は侍女の腕の中へ崩れ落ちるように沈んでいった。


 その嗚咽だけが、しばらく部屋を満たした。


 招いてもいないはずの贈り主と、夫人の言う「大切な客」。二つがひとつなのかどうか、いまはまだ確かめようがなかった。




 寝室を辞したあと、廊下でユリウスが足を止めた。


「見立てを聞かせてくれ」


「速効性の毒です。ごく少量で舌と指先の自由を奪い、やがて息を止めます」オリヴィアは言った。「乳と卵白で中和できる毒ですが、気づいた時にはもう遅い種のものです」


「解毒の見込みは」


「今夜のうちに気づいていれば、まだ望みはありました」オリヴィアは首を振った。「今となっては」


「屋敷にはもう一つ、疑うべきことがございます」オリヴィアは続けた。「贈り主の名を、確かめるべきかと」


「隣領の家名は届いている。だが、その家名がどこまで本物かは知れない」ユリウスは言った。「調べさせよう」


「ヴァレス侯の件と合わせて、しばらく私の目の届く場所に置く」ユリウスはオリヴィアを見た。「顧問としての初仕事にしては、荷が重いか」


「いいえ」オリヴィアは答えた。「これくらいの荷なら、慣れております」


 ユリウスは何か言いかけて、口をつぐんだ。それ以上は、問わなかった。


「一つだけ、お尋ねしても」オリヴィアは足を止めた。「なぜ、これほど早く伯の死を疑いに」


「一月のうちに、有力な貴族が二人だ」ユリウスは前を向いたまま答えた。「宮のどこかで、何かが動いている。そう考えぬほうがどうかしている」


「他にも、疑うべき死が」


「まだ形になっていない噂が、いくつか」ユリウスは言った。「一つずつ潰していくしかない。君の目を借りてな」


 一つずつ、と彼は言った。数えるほどの死で済むのか、それとも、これが始まりに過ぎないのか——答えは、まだどこにもない。




 馬車を待つあいだ、オリヴィアは家令に断って、もう一度だけ寝室に戻った。


 卓の上に残された杯を、そっと取り上げる。


 布越しに鼻を近づけると、あの鋭い痺れの奥に、もう一つ、別の匂いが埋もれているのに気づいた。


 最初は、酒精に紛れた滓の匂いだと思った。だが鼻先をもう一段深く近づけたとき、それが違うと分かった。


 乾いた砂を噛むような、古釘に似た金属の後味——舌に乗せずとも分かる、あの匂いだった。


 杯を持つ指が、布の上で固まった。


 七年、毎朝の毒見のたびに舌の先で追い続けた匂い。蜜がけの林檎や焼きたてのパンの湯気の奥に、必ず紛れていたあの後味だ。あの毒は数週かけて臓腑を蝕み、病と見分けがつかぬまま人を弱らせる毒だった。


 だが、この杯からかすかに漂うそれは、命を一夜で刈り取る毒に紛れて沈められている。急ぐ毒と、急がぬ毒と——まるで、その両方の作り方を、同じ手が知っているとでもいうように。


 似た鉱物から採れる毒なら、後味が近づくこともあるだろう。ただの思い過ごしかもしれない。そう自分に言い聞かせても、指先の冷たい強張りだけは解けなかった。


 この匂いを知っているのは、この世でわたし一人だけだと思っていた。


 窓の外で、御者が馬を宥める声がした。


 オリヴィアは杯を布でくるみ直し、証文と並べて懐に沈めた。


 冷えた陶器の重みが、しばらく胸の奥に残っていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は隣国編で最初の「事件」に踏み込む話でした。宮廷医顧問になったばかりのオリヴィアが、いきなり毒殺現場に呼ばれる——喜びの余韻もそこそこに、現実の重さが押し寄せてくる展開を書きたくて、この構成にしました。


 ユリウスの「顧問としての初仕事にしては、荷が重いか」という問いに、オリヴィアが「これくらいの荷なら、慣れております」と即答するところがお気に入りです。本人にとっては謙遜でも強がりでもなく、ただの事実なんですよね。七年間、もっと重いものを一人で抱えてきた人ですから。


 そして最後、杯の奥にかすかに嗅ぎ取った、あの懐かしい金属の後味。速い毒と遅い毒が、同じ杯に紛れて沈んでいる——この違和感が何を意味するのか、オリヴィア自身にもまだ答えは出せません。でも読者の皆さんには、きっと何かが引っかかったはずです。この糸がどこに繋がっていくのか、どうか見届けていただけたら嬉しいです。


 ☆評価・ブックマーク・感想が、続きを書く大きな励みになります。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。

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