第12話: 荒れた指先の理由
炭の匂いに紛れて、鉄に似た後味が舌の奥に残った。
匙の先についた滓は、ほんの一粒ほどしかない。惜しみながら指先で摘み、舌に乗せたのはついさっきのことだ。
銀舌の鋭さがまず舌先を刺す。速く命を奪うこの毒の底に、灰塵——かつて幾度も嗅いだ、あの遅い毒に似た金属の後味が、薄く沈んでいた。
夜半を過ぎても、宰相府の一室に灯りは消えていない。窓の外では、初夏の湿った夜気が草いきれを運び、灯芯に虫の羽音がひとつ寄っては離れていった。
昼のうちは、書見台に二つの記録を並べていた。ヴァレス侯の検分記録と、今朝届いたばかりのアーレン伯の記録。字の癖まで見比べても、二つの死をひとつの手に結びつける糸は、まだ細く頼りない。
薬院から借りた毒物図譜には、銀舌の項に「速く、荒々しい」と朱で注がある。灰塵の項には「遅く、慎み深い」とだけ。
同じ筆致が、なぜか両方の余白に見え隠れしている気がして、何度も頁を繰り返した。
日が落ちてからは、寄せ集めた滓と向き合う時間になった。
ヴァレス侯の乾いた滓は、灰がかった白で粉のように軽い。アーレン伯の赤い滓は、酒精に溶けきらず粘ついた。
並べて嗅ぎ比べ、指先にひとしずくずつ含んでは、舌の奥の後味を記憶と突き合わせる。
銀舌の量は多くない。だが、底に潜む金属の後味だけは、確かめるたびに輪郭を増していく。
「……同じ手か」
声にならない声で、そう呟いてみる。返す者は、誰もいない。
指先が、微かに震える。炭の粉に何度も浸けた指は、水にさらした紙のようにふやけていた。
ひび割れの奥がじくじくと疼く。疲れのせいだと、自分に言い聞かせた。
扉が控えめに叩かれ、返事を待たずに開いた。
「まだ起きていたか」
ユリウスが、書類の束を小脇に抱えて入ってきた。宰相府の夜警が交代を告げる鐘を、遠くで一つ鳴らしたところだった。
「杯の滓を、今一度確かめておりました」オリヴィアは匙を置いた。「銀舌が主です。金属の後味の正体は、まだ判じきれておりません」
「ヴァレス侯の記録とは、比べてみたか」
「並べました。滓の色も匂いも、似ているようで違います」オリヴィアは小皿を彼のほうへ押した。「同じ手から出たと断じるには、まだ材料が足りません」
「違うと言い切れるか」
「それも、まだ」オリヴィアは首を振った。「ただ、遅い毒と速い毒は作る者の気性まで映します」
「気性、と」
「遅い毒は、待てる者の毒です。速い毒は、待てぬ者の毒」オリヴィアは二つの滓を目で示した。「同じ手が両方を使うなら、よほど器用か——よほど追い詰められているかのどちらかかと」
彼の足が、卓のそばで止まった。視線が、皿の上の粒と彼女の指先を、一往復した。
「今、それを口に含んだのか」
「量はわずかです。害にはなりません」
「わずかでも銀舌は銀舌だ」ユリウスの声が硬くなった。「舌が痺れて動かなくなるまで、どれほどの間がある」
「量を誤らなければ、そこまでは」
彼はしばらく、彼女の顔を見ていた。恐れの色を探しているようだったが、見つからなかったのだろう、視線がまた指先へ落ちた。
「アーレン家でも、夫人の前で臆した様子がなかった」ユリウスは言った。「ヴァレス侯の骸を検めたときも、そうだったと聞いている」
「毒見役には、慣れております」
「毒見役は、毒を検めるだけの役目のはずだ」彼は言った。「口に含んで確かめ、平然としている役目ではない」
答えに詰まる代わりに、オリヴィアは小皿の縁を指先でなぞった。粉が指の腹について、白く残る。
卓上の蝋燭が、芯を鳴らして一段小さく縮んだ。書類の束に落ちる影が、その分だけ深くなる。
「見せてくれ」
彼はそう言うと、返事を待たずに彼女の右手を取った。
オリヴィアは、とっさに手を引こうとした。だが彼の指は、もう関節を確かめるように包み込んでいる。
灯りの下に、荒れた指先が晒された。
人差し指と中指の腹、爪の際に沿って、赤黒く盛り上がった筋が三本、四本と走っている。第二関節の皮は乾いて厚く、指紋が半ば潰れて読めない。ひび割れの合間に、古い痕がいくつも重なっていた。
新しい傷ではない。年月をかけて、同じ場所が幾度も裂けては塞がった跡だ。
「これは」ユリウスは親指の腹で、指の関節をなぞった。「今朝できた傷ではないな」
「調薬の仕事には、ままあることです」
「薬草だけで、ここまでの痕がつくものか」
オリヴィアは答えなかった。
指を包む彼の手は、思いのほか熱かった。
その熱に押されるように、遠い記憶が一瞬だけ甦る。祖母の手も、幼い自分の指をこうして包んだことがあった。
「この痛みは、いつかおまえを守る」
しわ深い指で傷をなぞりながら、祖母はそう言った。痛みの意味は教えても、誰のための痛みかまでは、ついぞ明かさぬまま逝った。
人に見せるための手ではない。幼心にそう納得していたはずの指が、今は他人の掌の中で行き場を失っている。
「アーレン伯の閨で、君は迷わず唇に触れた」ユリウスは続けた。「今も、迷わず毒を口に含んだ」
「見立てを急ぐ必要がございました」
「急いでいるようには見えなかった」彼は言った。「見慣れた手つきだった」
オリヴィアは、皿の上の粒を指先でそっと寄せ集めた。手を動かしていなければ、次の言葉が続けられそうになかった。
「その指先」ユリウスは、まだ離さない手のまま言った。「薬草と、毒を扱う者の手だ。誰にも言えぬ仕事を、長く」
彼の声に、咎める響きはなかった。ただ、確かめるような間があるだけだった。
七年、という数字が喉元まで上がってきた。言ってしまえばこの手も痕も、初めて誰かに預けられるのだろうか——そんな考えが一瞬よぎり、オリヴィアは奥歯を軽く噛んで押し戻した。
「わたしの家は、代々薬師にございます」オリヴィアは指先をそっと引いた。「幼い頃から毒草に触れて育ちました。この手は、その名残にすぎません」
「名残、か」
ユリウスは手を放した。だが、目だけはまだ、指先の傷を追っていた。
「毒に慣れているように見える」彼は言った。「薬草を扱う者の手ではなく、毒そのものに体を慣らした者の手のように」
核心まで、あと一歩だった。
言い当てられた、と思った瞬間、舌の根がからからに乾いた。毒を検めるときですら乱れなかった喉が、いまはひとつ唾を呑むのにも張りついた。
「——それは」
凪いでいたはずの声が、初めて縁を欠いた。続きかけた本当の言葉を、オリヴィアは唇の内側で噛んで呑み込む。
ユリウスは、急かさなかった。答えを待つでも、引き出すでもなく、ただオリヴィアの喉のあたりを見ている。呑み込んだものの形まで、その視線には映っている気がした。
沈黙が、蝋燭の芯の鳴る音ひとつぶん、長く伸びた。
卓上の炭の小皿へ目を落とし、答えを探すふりをして、実のところは答えを隠す間を稼ぐ。この人の前では、隠しているという事実まで見透かされている——そう思いながら、それでも隠すしかなかった。
「毒に慣れているとすれば」オリヴィアは顔を上げた。「扱う機会が、人より多かったというだけのことです」
「それだけで、この痕がつくと」
「薬師の家に生まれれば、誰しも似たものを持ちます」
ユリウスはしばらく黙っていた。信じたのか、信じたふりをすることに決めただけなのか、その顔からは読み取れない。ただ、指先を見ていた目が、ようやく彼女の顔へと戻ってきた。
半分だけの真実だった。差し出すつもりのある分は、それで全部だった。
「そうか」ユリウスは言った。書類を卓の隅に置く。「今日のところは、それでいい」
だが彼は、すぐには動かなかった。
「アーレン家の酒蔵で、口を切られた瓶がもう一本見つかった」ユリウスは話を変えた。「贈り主の家名は、こちらで洗わせている」
「一つ、気にかかることがございます」オリヴィアは顔を上げた。「奥方が、近く大切な客が見えると仰っていました」
「招いてもいない贈り主と、同じ相手かもしれぬと言うのか」
「まだわかりません」オリヴィアは首を振った。「ただ、頭の隅に留めております」
ユリウスは短く頷いた。「その勘は、書き留めておけ」
「その瓶も、明日には確かめとうございます」
「明日でいい」ユリウスは言った。「今夜は、その手を休めろ」
「宰相閣下こそ、お休みになるべきかと」オリヴィアは書類の山へ目をやった。「二つの死が、まだ結びついておりません」
「一つずつでいい。今夜のところは」
ユリウスは扉のそばで一度足を止め、彼女の手元へ、もう一度だけ目をやった。その唇が、問いの形に開きかけて——結局、まったく違う一言に落ち着いた。
「明日、瓶を見る前に朝餉を取れ」
言い添えると、彼はそのまま扉に手をかけた。書類を残して部屋を出ていく背に、続く言葉はなかった。扉の閉まる音は、いつもより心持ち長く尾を引いた気がした。
扉が閉まったあと、オリヴィアはしばらく卓の前から動かなかった。
小皿に残った黒い粉に、指先で触れる。七年分の痕を隠すには、この粉ひとかけらでは足りない。
引き出しの奥から薄布を取り出し、指の関節に巻きつけた。何度も巻いてきたものらしく、端がすでにすり切れている。
誰にも言えぬ仕事を、長く——彼の言葉が、布を巻く指の間に挟まったまま抜けなかった。核心を言い当てられかけたのは初めてだった。逃げきれたのか、猶予を与えられただけなのか、判じる材料はまだない。
「名残、か」
口の中で、彼の言葉をなぞってみる。名残と呼ぶには、この痕はあまりに今も続きすぎている。
七年のあいだ、この手を見た者はいても、この手を疑った者はいなかった。誰にも気づかれないことを、これまでずっと望んできたはずだった。なのに今、指を包んだ彼の手の熱だけが、まだ皮膚の下に居座っている。
望んでいたことのはずが、なぜこうも落ち着かないのか——その答えもまた、今夜のうちに見つかるものではなかった。
巻き終えても、手を動かす気にはなれなかった。
すり切れた布の端だけが、灯りの下で白く浮かんでいた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回はユリウスが、オリヴィアの荒れた指先から彼女の過去に触れかけるお話でした。現実でも、長く同じ痛みに耐えている人ほど、それを表に出さないものだと思います。周りが気づくのは、たいてい何気ない拍子——今回で言えば、手を取られた瞬間だったりします。
「その指先。薬草と、毒を扱う者の手だ。誰にも言えぬ仕事を、長く」というユリウスの台詞がお気に入りです。責めるでも詮索するでもなく、ただ見えたものを言葉にするだけ。この不器用な観察眼が、いつか彼女の七年を丸ごと受け止める日につながっていけばいいなと思いながら書きました。
オリヴィアは今回、核心のすぐ手前で踏みとどまりました。彼女がすべてを話せる日はまだ先ですが、その日のために、少しずつ距離を縮めていく二人を見届けていただけたら嬉しいです。
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