第13話: 経路を読む
蝋を溶かした匂いの奥に、蜜の甘さと入れ替わるように、焦げた鉄に似た刺激が香った。
匙で掬った滓ではない。瓶の口を塞ぐ封蝋、その継ぎ目そのものが放つ匂いだった。
指先で継ぎ目をなぞると、真新しい蝋の下から、古い切り込みの筋が浮かび上がった。
薬院の作業台に、アーレン家から運ばせた瓶が三本、朝の光の中で並んでいる。
一本は伯が飲み干した瓶。残る二本は、酒蔵で封を切られぬまま眠っていたはずだった。
今朝は言われた通り、粥を一杯だけ腹に入れてから房へ来た。味は、ほとんど覚えていない。
封は切られていない、と家令は言っていた。三本を並べ、順に蝋の色を見比べていく。
一本目は艶のある赤茶。三本目も同じ艶だった。だが二本目だけ、蝋の艶に薄い曇りがある。
古い蝋の上に、新しい蝋がごく薄く重ねてある。爪の先で継ぎ目を探ると、下に細い筋が一本、走っていた。
「ハルダ様」
薬研の陰から、ハルダが顔を上げた。この薬院を束ねる老薬師の眼鏡が、朝の光を鈍く弾く。
「この瓶、封を切られた跡がございます」オリヴィアは瓶を掲げた。「一度切って、また塗り直した跡です」
ハルダは眼鏡越しに瓶を眺め、鼻を寄せた。
「私の目じゃ、継ぎ目までは見えないね」ハルダは言った。「おまえの舌と鼻が頼りだ」
「中身を検めてもよろしいでしょうか」
「好きにおし」ハルダは薬研に向き直った。「ただし、匙は使い捨てにするんだよ」
瓶の口に細い針を差し入れると、コルク栓の中程に、指の先ほどの穴が空いているのが分かった。
外から見ただけでは、まず気づけない穴だった。内側から刺し通したような向きに、繊維が裂けている。
穴の縁に、乾いた滓がわずかに付いていた。布に取って舌に乗せる。
舌先が、すぐに強く痺れた。速く命を奪う毒——銀舌の証だ。
だがその痺れの底に、もう一つ、古釘に似た金属の後味が薄く沈んでいる。遅い毒、灰塵の名残だった。
速い毒と遅い毒、両方の気配が同じ滓に潜んでいる。アーレン伯が飲み干した瓶と、同じ仕立てだった。
コルクを刺し、中身を入れ替えるか足すかしてから、また塞ぐ。封蝋を引き直せば、遠目には誰も気づかない。
残る一本目と三本目には、その筋がなかった。狙われたのは、三本のうちの一本だけということになる。
「入るぞ」
声とともに、ユリウスが房の敷居をまたいだ。手にした帳面を卓に置く。
「瓶は」
「もう一本、同じ手口が見つかりました」オリヴィアは針の跡を示した。「栓に穴が空いております。外からは、封蝋で隠されておりました」
「贈られた酒そのものには、毒がなかったということか」
「恐らくは」オリヴィアは頷いた。「蔵元で仕込まれたのなら、栓に穴は要りません」
「途中で、誰かの手が入ったと」
「はい」オリヴィアは瓶を卓に置いた。「贈り主を疑うより、届くまでの道筋を疑うべきかと」
ユリウスの指が、帳面の表紙をひとつ叩いた。
「ヴァレス侯の件だ」ユリウスは頁を開いた。「あの方は、快癒の後にまた臥せった。薬包を服んでからのことだ」
「薬包の包み紙は、まだ手元に」
「侍医の房に残っている。取り寄せさせた」
ユリウスは帳面の頁を繰った。細かな字で、受け取りの日付と差出人の名が記されている。
「差出人は、遠縁の見舞いだ」ユリウスは言った。「本人には、まだ確かめが済んでいない」
「その包みも、検めとうございます」
「今日中に届く」
ユリウスが薬包を待つあいだ、オリヴィアは瓶の封蝋にもう一度目を落とした。
「気になることが、もう一つございます」オリヴィアは蝋の一角を指差した。「この印に、欠けがございます」
小さな刻印だった。家紋のない、旅商人が使うような簡素な印。その角の一つが、僅かに欠けている。
「型に、傷があるということか」
「はい」オリヴィアは言った。「同じ型を使えば、同じ場所が同じように欠けます」
「薬包の封にも、同じ欠けがあれば」ユリウスの声が低くなった。「同じ手が、両方を扱ったことになる」
「速い毒と、遅い毒の両方を」オリヴィアは瓶を持ち上げた。「作り分けているのではなく——それぞれの荷に、合う毒を差し込んでいるだけかもしれません」
ユリウスは、しばらく黙って瓶を見ていた。
「差し込むだけなら、毒を作る技はいらない」ユリウスは言った。「集める技だけでいい」
「はい」オリヴィアは言った。「作る者と届ける者は、同じとは限りません」
午後、届いた薬包を検めると、封の隅に同じ欠けがあった。針を確かめる手を止め、しばらくその角を見つめる。
包み紙の折り目にも、一度開いてから畳み直した跡が残っていた。
「同じ欠けです」オリヴィアは顔を上げた。「疑いようがございません」
「一つの死と一つの病を、同じ手が運んだ」ユリウスは言った。「なら、その手は誰の下で動いている」
「そこまでは、まだ」オリヴィアは首を振った。「ただ印の出所をたどれば、荷の道筋は追えるはずです」
「関所の帳面か」
「はい」
「行こう」ユリウスはすでに扉のほうを向いていた。
関所の帳面部屋は、外の光がほとんど届かない。壁一面の棚に、革表紙の帳面が並んでいる。
書記官が持ち出したのは、この一月に公国へ入った贈答の荷を記した帳面だった。頁を繰るたび、乾いた紙の匂いが立つ。
ユリウスが日付を指で追い、オリヴィアが印の欄を目で追う。
欠けた印は、思いのほか早く見つかった。
「ここに」オリヴィアは頁を指した。「アーレン家宛ての荷と、同じ欠けです」
「差出人の欄は」
「空欄にございます」オリヴィアは言った。「『取次による』とだけ」
「取次だけで通るものなのか」
「関所を通す名義さえあれば」書記官が横から答えた。「差出人本人が名乗り出ずとも、荷は動きます」
「その名義は、誰でも借りられるものか」ユリウスは書記官に尋ねた。
「銭を積めば、名義貸しの商人はおります」書記官は声を落とした。「珍しいことではございません」
頁をさらに繰ると、同じ欠けが、もう一箇所に見つかった。
「これは」ユリウスが眉を寄せた。
「ヴァレス侯家への、薬包の荷です」オリヴィアは日付を確かめた。「快癒の報の、三日前に届いております」
速い毒と、遅い毒。別々の日、別々の荷に、同じ欠けた印が押されていた。
同じ手が、一つの死と一つの病を運んだ証だった。
「この一月で、同じ印はいくつある」ユリウスが書記官に尋ねた。
書記官は頁を繰る手を速めた。
「確かめられただけで、五つにございます」書記官は言った。「残る三つの届け先は、まだ」
三つ。オリヴィアはその数字を、口の中で繰り返した。
二つはもう、死と病という形で答えが出ている。
残る三つは、まだ何も起きていないのか、気づかれていないだけなのか。今はどちらとも言えなかった。
書記官が、次の頁を繰ろうとした指を止めた。
「もう一つ、同じ印が」書記官は声を落とした。「三日前に、コルバン子爵家へ」
オリヴィアは頁に目を落とした。同じ欠けた角が、そこにも押されている。
「コルバン子爵家は」オリヴィアはユリウスを見た。
「今宵、隣国からの使節を招く宴を開く」ユリウスは短く答えた。「先触れは、もう届いている頃だ」
今宵、と胸のうちで繰り返した瞬間、瓶を持つ手が袋の口の上で止まった。
一つの死と一つの病を運んだ手が、今夜もまた人の集まる卓へ向かって動いている。
それを、たった今、自分は帳面の上でようやく追い越したのだ。
間に合えば、初めて誰も死なせずに済むかもしれない。
七年、毒に気づいても、いつも舌で受け止めるのが精一杯だった。誰かの死を先回りして止めたことなど一度もない。
その思いが、指先を急かした。
残る三つのうちの一つが、これで居場所を得た。あとの二つは、まだ帳面の外に埋もれている。
——近く、大切な客が見える。
昨日、アーレン家の閨で奥方が漏らした一言が、頁の文字に重なった。
贈り物が届く先には、いつも客を迎える支度があった。人が集まる夜を狙って、荷は届けられている。
偶然だと、まだ言い切れなかった。
「荷の中身は」オリヴィアは尋ねた。
「まだ検めていない」ユリウスは帳面を閉じた。「子爵家に届いているかどうかも、これからだ」
「宴のたびに、荷が動いております」オリヴィアは帳面の印を指でたどった。「人が集まる夜を、狙っているとしか思えません」
「客を迎える家ほど、狙われやすいということか」
「あるいは」オリヴィアは顔を上げた。「狙いは家の主ではなく、その夜に招かれた客のほうかもしれません」
「主を殺すふりをして、本当に消したいのは客だと」
「同じ卓に着けば、同じ杯が回ります。主が先に倒れれば、誰も客の椀までは疑いません」
言ってから、オリヴィアは口を閉じた。これはまだ、自分の頭が描いた影絵にすぎない。裏づけは、何一つない。
「面白い見立てだ」ユリウスは低く言った。「影絵でも、糸の先を指してはいる」
二人のあいだに落ちた沈黙が、帳面部屋の暗さの中で、しばらく形を持たずに漂った。
誰の客か、何のための客か——帳面の文字は、そこまでは語らない。
「今から使いを出せば」オリヴィアは言った。
「間に合うかどうかは、分からない」ユリウスは扉へ向かった。「だが、出さぬ理由にはならない」
「わたしも参ります」
「荷を検めるなら、君の目がいる」ユリウスは振り向かずに答えた。「支度をしろ」
ユリウスは書記官に短く命じ、早馬を仕立てさせた。
オリヴィアは瓶と針、布に包んだ滓を手早くまとめ、後を追った。
厩から、馬の嘶きが二つ続けざまに響いた。
道具一式を鞍袋に押し込みながら、オリヴィアは残る二つの届け先を思った。コルバン家の他にも、気づかれていない荷があるかもしれない。
今宵だけで、すべてに手が回るとは思えなかった。
帳面部屋を出ると、廊下の窓から差す光が、もう西へ傾きはじめていた。
宴は今宵。使いの足がどれほど速くとも、日はすでに大きく傾いている。
間に合うかどうか、それさえまだ分からなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は「経路を読む」というタイトル通り、毒そのものより、毒がどう運ばれたかに焦点を当てた頭脳戦回でした。贈り主を疑うのではなく、届くまでの道筋を疑う——オリヴィアの発想の転換が、今回の一番の見せ場だったと思います。
現実でも、問題の原因を探るとき「誰が悪いか」より「どこで壊れたか」を先に見た方が、案外早く答えにたどり着くことがありますよね。今回のオリヴィアとユリウスのやり取りは、そんな地道な検証作業の積み重ねを書きたくて組み立てました。
「作る者と届ける者は、同じとは限りません」というオリヴィアの台詞がお気に入りです。毒を作る技と、それを狙った相手に届ける技は別物——この視点が、次の被害を防げるかどうかの鍵になります。
同じ欠けた印が、今宵宴を開く子爵家にも届いていた——この符合に、二人は間に合うのでしょうか。次話も、どうか見届けていただけたら嬉しいです。
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