第14話: すり替えの技
日が傾くころ宰相府を出て、馬を替えながら駆け通した。子爵領の門をくぐったのは、宵の口だ。
鞍を降りると、膝が崩れそうになった。それでも足は止めなかった。
裏庭に、荷馬車が何台も連なっている。祝いの品が、次々と厨房へ運び込まれていた。
「宴は」オリヴィアは息を整えた。
「もう始まる」ユリウスが門番から聞き取って言った。「乾杯は、じきだ」
「では、厨房から」
戸をくぐった途端、鼻の奥にあの匂いが刺さった。蝋と葡萄酒の甘さの、その奥。
焦げた鉄に似た匂いだ。毒で死んだアーレン伯の瓶からも、病に臥せったヴァレス侯の薬包からも香った。
あれと、同じ匂い。
厨房の奥から、恰幅のよい男が駆けてきた。子爵家の家令だという。
「宰相閣下」男は膝を折りかけ、すぐに思い直したように立ち上がった。「かようなお時間に、いったい」
「贈り物として届いた酒と薬包を、すべて検めたい」ユリウスは短く言った。「この者が見る」
「もう卓へ運び終えたものもございます」家令は声を低くした。「使節どのへの祝いの杯は、特に念入りに」
「他の贈り物は」ユリウスが尋ねた。
「薬包の類は、侍医の房で預かったままにございます」家令は言った。「酒は、あの一本だけかと」
「その杯を」オリヴィアは前へ出た。「まだ、封は」
「先ほど開けたばかりで」家令は台の上を指した。「三十年物の葡萄酒にございます」
祝いの品の銀の水差しが、燭台の光を鈍く弾いている。
栓の封蝋に、真新しい艶があった。
指先で継ぎ目をなぞる。古い切り込みの上に、薄い蝋が重ねてあった。あの筋と同じだ。
「これも」オリヴィアはユリウスを振り返った。「同じ手が入っております」
「間に合ったのか」
「封は、もう」オリヴィアは水差しを傾けた。「注ぎ口から、すでに移し替えられているかと」
「使節の杯には、まだ回っていないか」
「注がれる前なら、間に合います」オリヴィアは匙を取った。「確かめさせてください」
匙で受けた一滴を舌に乗せる。
速い痺れが舌先を這い、その底に古釘めいた渋みが沈んだ。
「銀舌と、灰塵です」オリヴィアは声を落とした。「二つの毒が、同じ水差しに紛れ込んでいます」
「アーレン家の瓶と、同じ仕立てかと」
「使節どのの杯は、もう卓に」
「先ほど、給仕頭が運びました」家令は声を絞った。「乾杯の口上は、あと四半刻で始まります」
「水差しごと差し替えられれば」オリヴィアは言った。「よろしいのですが」
「それは無理だ」ユリウスが遮った。「三十年物を突然下げれば、使節への非礼になる」
「では」
「君は、私の毒見役として卓へつく」ユリウスは家令を見た。「今宵の私の随行に、そういう者がいると伝えておけ」
家令は瞬きを二度した。だがそれ以上は問わず、宴の間へ続く扉へと駆けていった。
宴の間は、初夏の夜気を入れて窓が大きく開かれている。虫の羽音が、灯芯のまわりを横切った。
長い卓に、隣国からの使節ダンヴィル卿と従者たちが並ぶ。上座には子爵夫妻。
卓には初夏の苺と蜂蜜漬けの菓子。子爵は上気した顔で客をもてなしている。
この屋敷の主は、自分の卓に死が仕込まれていることを、まだ知らない。
ユリウスが遅れて席に着くと、周囲の視線が集まった。オリヴィアはその斜め後ろ、給仕の位置に立つ。
「メリディアの宰相どのが、毒見役をお連れとは」ダンヴィル卿が杯を掲げたまま言った。「物騒なお国柄だ」
「実力主義の国では」ユリウスは静かに答えた。「役目に貴賤をつけません。彼女の舌は、私の目より正確です」
ダンヴィル卿は片眉を上げ、それ以上は追わなかった。
給仕頭が、銀の水差しを運んでくる。
卓の端に、若い給仕が控えていた。背が低く、他より少し年若い。手の甲に、乾いた蝋の跡がある。
「あの給仕を」オリヴィアはユリウスの耳元で、ごく低く言った。「手の甲に、封を塗り直した跡が」
「見ている」ユリウスも唇をほとんど動かさずに応じた。「先に、毒だ」
乾杯の口上が始まる。子爵が立ち上がり、両国の交わりを言葉で飾っていく。
給仕頭が水差しを傾け、ダンヴィル卿の杯に注ぐ。琥珀色の酒が、灯りに揺れた。
「使節どの」オリヴィアは進み出た。「毒見の作法にございます。まず、私に」
場の空気が、一拍だけ止まった。子爵夫人が眉を寄せる。ダンヴィル卿は面白がるように口の端を上げた。
「メリディアの流儀か」
「宴の席で、毒見などと」子爵夫人が声を尖らせた。「客人に失礼ではありませんか」
「失礼は承知しております」オリヴィアは頭を垂れた。「それでも、御身に代えられるものはございません」
「隣国よりお越しの方の杯には、なおのこと念を入れるのが務めにございます」
「客人の御前で、はしたない」子爵が取りなすように口を開いた。「だが宰相どののご随行だ。ここは、まかせてみよう」
給仕頭の手から水差しを受け取る。注ぐふりをしながら、卓の下で杯をすり替えた。
一瞬の重なりだけで、ダンヴィル卿の杯は空に、オリヴィアの杯には毒入りの酒が満ちる。
指先だけが覚えている動きだ。毎朝繰り返した手つきを、体がそのまま辿る。迷いはなかった。
——毎朝、器の底に流れていた毒。今は、この杯の底に。
誰にも気づかれないための技だった。それが今夜、初めて誰かのために動いた。
杯を口に運ぶ。舌先が痺れ、奥に古釘の渋みが沈む。見慣れた毒だ。量も、覚えのある範囲だった。
ユリウスは杯を持ち上げたまま、動かさない。卓の下で、指の背がオリヴィアの手にそっと触れた。
その熱に、脈が跳ねた。案じられていると分かる温もりだった。
「……問題ございません」
「大儀」ユリウスが短く応じた。
声が、いつもより沈んで出た。喉の奥で痺れが広がっている。だが顔には出さなかった。
給仕頭が次の杯へ移ると、詰めていた息をそっと逃がす。綱を渡りきった足が、まだ微かに震えていた。
「見事な作法だ」ダンヴィル卿は笑って新しい杯を求めた。「隣国にも、こういう役があればよかったな」
「役ではありません」ユリウスは杯を置いた。「私が信を置く、ただ一人です」
「ほう」ダンヴィル卿は目を細めた。「宰相どのがそう仰るなら、よほどの舌だ」
「では、あらためて」子爵が安堵の色で杯を掲げ直した。「両国の、末永い誼に」
給仕頭は何も知らぬまま、次の杯へ水差しを傾けた。
料理が運ばれ、場の緊張が緩んだ。誰も、卓の端の異変に気づいていない。
だがオリヴィアの目は、あの若い給仕を追っていた。落ち着かない指先。
給仕は空いた器を下げると、裏戸のほうへ足早に去った。
「あの給仕が、裏戸へ」オリヴィアはユリウスの耳元に寄った。「今のうちに」
「後を追え」ユリウスは短く頷いた。「私は席を立てない。君が頼りだ」
オリヴィアは杯を置き、裏戸へと続いた。舌の奥に、まだ古釘の味が残っている。
荷馬車の並ぶ路地に、給仕がいた。誰かと向かい合っている。
相手は、宴の客でも屋敷の者でもない。外套の頭巾を深く被り、顔は見えない。
ただ、頭巾の奥で、左の頬に古い刀傷が引きつれているのが、灯りの端に覗いた。
「約束のものは」給仕の声が震えていた。「もう、渡しただろう」
「これで抜けさせてもらえるんだろう」給仕は一歩詰め寄った。「妹の借金は、片づいたはずだ」
「頼む。妹だけは、巻き込まないでくれ」
「借金なら、これで帳消しだ」
頭巾の男の腕が、下から掬うように動いた。その指の先で、細い針めいたものが灯りをちらと弾く。
給仕が喉を押さえてよろめいた。声にならない音が、路地の壁に短く反響する。
「待って」
叫んでいた。駆け寄ったときには、頭巾の男はもう路地の暗がりに消えていた。
追う足が、二歩で止まった。
給仕の膝が、敷石の上でくずおれていく。追うか、屈むか。ほんの一拍の迷いが、指先を凍らせた。
膝をついて給仕の襟をゆるめる。喉元に、小さな針の跡があった。
「銀舌でも、灰塵でもない」思わず声が漏れた。「刺してから止まるまでが、速すぎる」
針で送り込む類の毒だ。オリヴィアの知らない毒だった。
「誰の指図で」オリヴィアは給仕の肩をつかんだ。「誰にこれを頼まれた」
給仕の唇が動いた。だが音にならない。
目だけが、何かを言おうとしてオリヴィアを見上げている。その瞳が、涙の膜の奥で細かく揺れた。妹の名を呼ぼうとしているのか、それとも許しを乞うているのか。
炭を。せめて炭があれば——いや、これは灰塵ではない。炭では、間に合わない。
手を尽くす前に、手立てのほうが尽きていた。手元にあるのは、空の杯だけだ。
喉が動かなくなる。目の中の光が、ゆっくり薄れていく。
「名前は」オリヴィアは囁いた。「せめて、名前だけでも」
「妹御の名でもいい」顔を寄せる。「何か一つでも、遺していって」
答えは、返らなかった。
路地に駆けつけたユリウスが、給仕の亡骸の前で足を止めた。
「使節どのは」
「無事です」オリヴィアは立ち上がった。「杯は、わたしが受けました」
「この者は」
「口を割る前に」オリヴィアは自分の手のひらを見た。「消されました」
「毒か」
「わたしの知らない毒でした」オリヴィアは頷いた。「銀舌でも灰塵でもない。針で送り込む、速い毒です」
「口封じのための毒だな」ユリウスは骸を見下ろした。「標的に使う毒とは、別の道具か」
「使い分けています」オリヴィアは目を伏せた。「殺す相手で、毒を替える手合いです」
「炭では、間に合いませんでした」
厨房の灯りの下で見ると、給仕はまだ十七か十八ほどの若さだった。名も、知らないままだ。
妹がいると、この子は言っていた。その妹は、兄が何をして死んだのかを、生涯知らずにいるのだろう。
「先月雇われたばかりの下働きだと聞いた」ユリウスは眉を寄せた。「素性は、洗われていなかったのだろう」
「使い捨てにされたのでしょう」オリヴィアは言った。「役目を終えた駒は、口を塞がれるだけの」
ユリウスは何も言わず、路地の暗がりへ目を向けた。頭巾の男が消えた方角には、もう何もない。
厨房の裏口から、家令が青ざめて駆けてきた。骸を見るなり、声を失う。
「今夜のことは、私の名で片をつける」ユリウスは家令に向き直った。「使節どのの耳には、まだ入れるな」
「かしこまりました」家令は震える声で答えた。「亡骸は、私が」
「糸の先は」
「まだ闇の中です」オリヴィアは首を振った。「捕らえたのは、末端だけでした」
毒に気づいても、いつも舌で受け止めるのが精一杯だった七年だ。
誰も死なせずに済むと、心のどこかで信じていた。だが結局、一人を取りこぼした。
「杯の中身は、守れました」声が掠れる。「でも、それを運んだ手までは守れませんでした」
「一人も、死なせずに済むと思っていたのに」
声が、自分でも驚くほど掠れて出た。敬語を落としたことに、遅れて気づいた。
「今夜、君は一人救った」ユリウスは言った。「それは事実だ」
「ですが」
「全部は救えない」ユリウスは給仕の亡骸へ目を落とした。「それでも、救った分は消えない」
オリヴィアは、すぐには答えられなかった。
「あの男の頬に、古い刀傷がありました」暗がりへ目をやる。「次にどこかで会えば、きっと気づきます」
「覚えておけ」ユリウスは声を沈めた。「その傷ひとつが、いつか糸の先へ繋がる」
「必ず、たどってみせます」
「顧問殿」ユリウスは続けた。「君は、よく毒を飲む」
「役目にございます」
「次は、私も同じ卓につく」ユリウスは骸から目を上げた。「君ひとりに飲ませはしない」
その言葉に、返す言葉が見つからなかった。ただ、胸の奥が、痺れとは違う熱を持った。
厨房の灯りが、路地の敷石を細く照らしている。
宴の間からは、まだ和やかな話し声が届く。誰も、裏のことは知らない。
使節は生き延びた。手がかりは頭巾の男とともに闇へ消え、後にはあの刀傷の記憶だけが残った。
手の中には、救えなかった空の杯。縁に、乾いた血が一筋。
舌の奥では、古釘の後味がまだ引かずにいた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は「すり替えの技」というタイトル通り、オリヴィアが七年間ひっそりと続けてきた身代わりの手口を、初めて誰かのために能動的に使う回でした。誰にも気づかれないための技だったものが、誰かを守るための技に変わる瞬間を書きたくて、この話を組み立てました。
ただ、ハッピーエンドだけでは終わらせませんでした。杯は守れても、それを運んだ手までは守れない。オリヴィアが「今度こそ誰も死なせずに済むかもしれない」と願った EP13 の希望に、この話であえて一つ影を落としています。全部は救えない、それでも救った分は消えない——ユリウスのこの台詞は、書いていて自分でも救われる気持ちになりました。
毒を仕込んだ給仕を操っていた頭巾の男の正体は、まだ物語の奥に隠したままです。糸をたどればたどるほど、闇はまだ深いところにあります。オリヴィアとユリウス、二人がどこまでこの闇に近づいていくのか、どうか見届けていただけたら嬉しいです。
☆評価・ブックマーク・感想が、続きを書く大きな励みになります。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。




