第15話: 王都、血の匂い
喉の奥に、鉄の味が沈んでいた。
アルヴィスは寝台の上で身を起こし、口元を拭った布を見下ろした。
白絹に散った赤い染みは、もう見慣れたものになっている。
喉の焼ける感覚が、まだ胸にわだかまる。額の汗が、こめかみを伝って落ちた。
指先が、まだ小さく震えている。それを見られるのが嫌で、アルヴィスは拳を布の下に隠した。
「殿下……」扉の隙間から窺っていた侍女が、思わず声を漏らした。
血の跡を見てしまったのだろう。
最初の夜から、ひと月ほどが経つ。あの頃は数日おきだった発作が、今はほとんど毎晩訪れる。
窓の外はまだ暗い。灯芯の炎が、壁に細長い影を揺らす。
閉め切った寝所に、湿った熱がこもる。初夏の夜気は、扉の外にある。
控えの間から、乱れた足音が近づいてくる。
「殿下」侍従が扉越しに声を張った。「お加減は」
「見ての通りだ」アルヴィスは布を握り込んだ。「侍医長を呼べ」
「今宵は、これで三度目でございます」侍従の声が震えた。「いますぐ、お呼びいたします」
「早くしろ」
声が、思ったより掠れて出た。
程なく、侍医長オーウェンが息を切らして現れた。白髪の生え際に、脂汗が滲んでいる。
寝台の脇に膝をつき、手首を取る。指の腹が脈を数える間だけ止まった。
「脈は、乱れておりません」オーウェンは眉根を寄せた。「舌の色も、常と変わらず」
「では、この血はどこから出ている」
「それが、分かりませぬ」オーウェンは口ごもった。「傷ならば診立てもつきます。ですが、傷が見当たらぬのです」
「傷もなく、血だけが出るというのか」
「はい」
「そんな病があるものか」
「わたくしの学んだ書には、載っておりませぬ」オーウェンは頭を垂れた。「この目で診たものしか、頼れませぬゆえ」
瞼の裏を検め、爪の色を見比べ、額に手を当てる。
ひとつひとつの仕草が、これまでと寸分違わなかった。
その爪の根に、いつからか薄い青紫が差していた。老医は、そこに目を留めない。アルヴィス自身も、それが何の徴かは知らなかった。
こういう時、あの女なら——そこまで考えて、思考を打ち切った。
「なら、なぜ血を吐く」アルヴィスは声を尖らせた。「十日と経たぬうちに、これで何度目だ」
「胃の腑も肺も診ましたが、これという徴が見当たりません」オーウェンは視線を落とした。
「役立たずが」
「返す言葉も、ございませぬ」
教本に記された診立ての、どれをなぞっても答えは出なかった。
俺の体に、何が起きているのか。アルヴィスは奥歯を噛みしめた。
「答えろ」低い声が出た。「俺は、王太子だぞ」
「お答えできませぬ」オーウェンは眉を落とした。「王太子殿下と存じ上げてなお、分からぬのです」
オーウェンは答える代わりに、匙で煎じ薬をすくい、口元へ運んだ。苦い草の匂いが鼻の奥にひりつく。
「薬は、もう三度替えました」オーウェンは積まれた薬包に目をやった。「草も量も替えましたが、血は止まりませぬ」
「王都随一の薬師も隣国の医師も、みな同じでした」老医は首を振った。「心当たりがない、と」
聖光教の司祭の加持も受けた。祈りは、血を止めはしなかった。
次期国王の不調は、隠しおおせるものではない。
継承の先を囁く声が、重臣の間で上がり始めていると聞く。まだ、聞かぬふりで通していた。
宮廷医の診立ては、脈と顔色、そして薬草の効き目だけを頼りにしていた。舌に残る後味を読む技を、彼は持たなかった。
——そして今夜も、老医は同じ徒労を繰り返している。
「これは、進言ですが」オーウェンは声を落とした。「万一を思い、毒見の役を再びお立てになっては」
「毒見だと」アルヴィスは眉を寄せた。「俺の食事に、毒が入っているとでも」
「疑いを消すためにも」オーウェンは言葉を選んだ。「立てておいて損はございません」
「損はない、か」アルヴィスは吐き捨てた。「毒見を立てれば、毒に怯える王太子だと城中に触れ回るも同じだ」
「そこまでは、申しておりませぬ」
「では、なぜ勧める」
「万一を、思うだけにございます」オーウェンは肩を落とした。
「万一、か」
毒見役、という言葉に、喉の奥が痞えた。
——なぜ、血が止まらない。あの女がいた頃は、こんなことは一度も。
言いかけて、口をつぐんだ。あの女、と呼んだきり、続きが出てこなかった。
——あれは、ひと月ほど前のこと。謁見の間で、彼女に告げた。
毒見の女など、もう用済みだ。祝いの葡萄酒の甘さが、まだ口の中に残っていた頃だった。
毒見の女など飾りだと、七年そう思ってきた。器を検める仕草も、退屈な慣わしにしか見えなかった。
——葡萄酒の甘さは、もうどこにもない。喉の奥には、鉄の味だけが沈んでいる。
「実際に毒など、七年で一度も出たことはない」自分の声が、宙で虚しく響く。「今さら誰を立てても、同じことだ」
毒見役を再び置けば、弱った姿を晒すも同然だ。そんな噂は、立てられたくない。
「殿下」オーウェンは声を絞った。「これ以上は、王都の外から名医を探すほかにございません」
「王都随一のお前が、匙を投げるか」
「……面目次第もございません」オーウェンは視線を落とした。
匙を投げる、という言葉を、老医はついに口にしなかった。だが目は、それを語っていた。
アルヴィスは布を握った拳を、寝具の上に落とした。
自分を七年生かしていたものの正体を、彼はまだ何一つ知らない。
昼を過ぎた頃、セリカが見舞いに訪れた。控えの間の噂は、もう城中を巡っていたらしい。
侍女たちを扉の外に残し、寝台の脇に膝をつく。両手でそっと彼の手を包んだ。
「殿下」セリカは睫毛を伏せた。「居ても立ってもいられず、参りました」
鼻先に、いつもの甘い香りがふわりと届く。その奥に、微かな金気の匂いが紛れていた。
香に焚き染めた何かだろう。気に留めるほどのことでもない。
「殿下のお加減が、思わしくないと聞き及びました」セリカは声を震わせた。「わたくしにできることがあれば、何なりと」
「見舞いだけで十分だ」アルヴィスは目を逸らした。「弱った姿は見せたくない」
「弱っていらしても、殿下は殿下ですわ」セリカは彼の手を握り直した。「わたくし、それでもお慕いしております」
「世辞はいい」アルヴィスは口の端を歪めた。
「世辞ではありませんわ」セリカは彼の頬へ手を伸ばしかけ、止めた。「殿下がお認めにならないだけです」
その言葉のすぐ後、彼女の瞳から温度が引いたように見えた。
乾いた光が、獲物を検分するようによぎった気がした。
握られた手から、指を引きたくなる。その心地が、うなじの裏をかすめた。
だが疲れのせいで、そう見えただけだろう。アルヴィスは顔を背け、その感触を追い払った。
「侍医長どのが、毒見の役を立てよと仰ったそうですね」セリカは膝の上で手を組んだ。「本当に、お立てになるのですか」
「決めてはいない」アルヴィスは答えた。「もう懲りている」
「よかった」セリカは胸を撫でおろした。「また誰かをお側に置いて、何かあったらと思うと恐ろしくて」
その怖さの向きが、本当はどこにあるのか。アルヴィスは深く考えなかった。
「せめて、薬湯だけでも」セリカは碗に手を伸ばした。「わたくしが仕えとうございます」
「侍女がいる」
「侍女では、わたくしの気が済みませんの」セリカは潤んだ瞳を伏せた。「案じられて、夜も眠れませんもの」
「毒見の儀もない身で、案じることもあるまい」アルヴィスは苦く笑った。「私の食事に、毒など出たことがないのだから」
「いいえ」セリカは引かなかった。「もう、誰にもお任せしたくありませんの」
「そこまでせずとも」アルヴィスは首を振った。
「それでも」セリカは碗を引き寄せた。「殿下のお口に入るものは、わたくしの手で整えとうございます」
オーウェンが何か言いかけたが、セリカの潤んだ眼差しに気圧されたように、言葉を呑み込んだ。
「侍医長どのの薬は、確かに正しいのでしょう」セリカはオーウェンへ会釈した。「ですが殿下のお心には、わたくしの手のほうが効くこともございますでしょう」
オーウェンは何も言わず、退がっていった。
扉を出る間際、一度だけ振り返る。何か言いたげな顔をしていたが、結局それきり黙って去った。
「お前に委ねよう」アルヴィスは目を閉じた。「その心遣いだけは、疑う理由がない」
セリカは薬包を手に取り、卓の上で開いた。粉薬を匙で碗に移し、湯を注いでいく。
その手つきに、迷いはなかった。まるで幾度も繰り返してきたかのように。
あまりに手慣れた仕草に、ふと引っかかる。だが疲れのせいだと片付けた。見ないでいるほうが、楽だった。
碗を差し出す仕草だけを見れば、それはただ献身に見えた。
「殿下」セリカは彼の手に碗を持たせた。「これからは、毎朝わたくしが」
「毒見の真似事か」アルヴィスは碗を見下ろした。
「いいえ」セリカは微笑んだ。「ただの、お世話にございます」
「そういうことにしておこう」
「毎晩も」セリカは付け加えた。「わたくしの目の届くところに、殿下を置かせてくださいませ」
「目の届くところ、とは」アルヴィスは片眉を上げた。
「隣の間に、わたくしの居場所をいただけませんか」セリカは彼の手を握ったまま言った。「呼べばすぐに参れるように」
「隣の間か」アルヴィスは口の端を緩めた。「大げさな」
「大げさでなければ、殿下のお側にはいられませんもの」セリカは声をひそめた。「一晩でも、離れているのが恐ろしくて」
「恐ろしい、か」アルヴィスは呟いた。「俺のほうが、よほど心細い身だがな」
「殿下」
断る理由は、すぐには浮かばなかった。誰かがすぐ隣にいるという事実に、いくらか気が緩んだ。
毒見の女が去ってからずっと、夜だけはひとりだった。
「好きにしろ」アルヴィスは短く答えた。
夕刻のうちに、隣室へ寝具を運び込む足音がした。
碗の中の薬湯から、湯気が細く立ちのぼる。よくある煎じ薬の、ぬるい湯気だった。
窓の隙間から差す光が、薄い橙色に変わっている。
セリカの衣擦れの音だけが、規則正しく響いていた。
「頼む」アルヴィスは碗を口へ運んだ。喉の奥に、苦さと共に安堵が広がる。
舌の奥に、砂を噛むようなざらつきが残った。薬草の苦味だろうと、それ以上は確かめなかった。
「よく、お飲みになれましたわ」セリカが空の碗を受け取った。「明日の朝も、わたくしが」
誰かに委ねる心地よさに、疑いを挟む余地はなかった。
毒見など要らぬと言い切った男が、今は薬湯を注がれるのを待っている。
その落差に気づく余裕は、もうなかった。
父上には、まだ何も報せていない。弱みは、誰にも見せてはならない——幼い頃からの、教えだった。
「今宵は、もうお休みくださいませ」セリカが枕元の灯りを少し落とした。「あとは、わたくしが」
「……今、俺の側にいるのは」アルヴィスは長く息を吐いた。「お前だけだな」
「はい」セリカは口角だけを上げた。「わたくしだけにございます」
セリカは残った薬包を封じるため、蝋燭を寄せた。垂らした蝋の上に、指先の跡がうっすらと残る。
冷えていく蝋の匂いに、彼女の香りと同じ金気が、ひとすじだけ混じっていた。アルヴィスは、それにも気づかない。
燭台の灯りに、封蝋の艶が鈍く沈んでいく。
やがて蝋はすっかり冷え、彼女の指の跡だけを刻んだまま、静かに固まった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回からしばらく、視点をアルヴィスに切り替えています。ここまでオリヴィアの目でしか見えなかった王都を、今度は「彼女を切り捨てた側」の目で見る回になりました。
アルヴィスは悪人として書くつもりはありません。彼はただ、七年間ずっと「見なかった」だけの人です。誰かの献身を当たり前だと思い込む鈍感さは、案外どこにでもあるものだと思っていて、だからこそ憎み切れない書き方をしたいと考えています。
セリカの場面は、書いていて自分でも少し怖くなりました。彼女の優しさは嘘ではないように見えて、でもどこか一点だけ温度が違う。読者の方には、その一点にだけ気づいていただけたら嬉しいです。アルヴィス自身は、まだ何も気づいていません。
薬湯の匂いに紛れた小さな違和感が、この先どうなっていくか。どうか見届けていただけたらと思います。
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