第16話: 信頼という毒
舌の先に残る味は、酒精よりも苦い。
焦げた鉄に似た金気。その底にわずかな甘さ。二晩経った今も、喉の奥に居座っている。
薬院の作業台に、コルバン家から下げさせた瓶の滓が三つ、朝の光の中で並んでいた。
夜明け前からここにいた。窓の外は、まだ乳白色の靄に沈んでいる。
灯芯は、もう指の長さほど短くなっていた。
滓を指先で丸め、舌に乗せる。痺れがすぐに走り、奥に古釘の後味が沈んだ。
銀舌と灰塵。速い毒と遅い毒が入り交じる、あの宴の夜と同じ配合だ。量だけが、心持ち違う。
「また、味見で済ませたね」
薬研の陰から、ハルダが顔を上げた。老眼鏡の奥の目が、呆れを隠さない。
「匙も量らずに」ハルダは続けた。「危ういほうから、先に舌を出す」
「舌のほうが、匙より速うございます」
「速さと引き換えに、何を差し出してるんだか」オリヴィアの手元を覗き込む。「昨夜も、これをやっただろう」
「量は、ほんの少しです」
「その少しずつ、ってのが一番おっかないんだよ」
「その少量を毎晩重ねる者を、私は他に知らないよ」
「お褒めには、聞こえませんね」
「褒めてないさ」ハルダは鼻を鳴らした。「心配してるんだよ」
「……肝に銘じます」
口ではそう言って、滓を布に包み直した。三つ目の瓶だけ、まだ検め終えていない。
——二日前の夜も、同じ卓でこれをやった。舌が痺れ、視界が滲んで、膝から崩れた。
目を覚ましたときには、寝台の上だった。あの夜と同じ苦さが、今また舌の奥に沈んでいる。
給仕を口封じに刺した、あの刀傷の頭巾の男は、いまだ捕らえられていない。
路地に残されたのは、名も知れぬ亡骸だけだ。
あの子の名も妹の名も、まだ分からない。名を持たない死に、心の重さだけが積もっていく。
「治安隊からの報せは」
「まだ、糸口なしだ」ハルダは薬研を挽きながら言った。「刀傷の男を見た者もいない」
指先だけが、答えの手前で働いている。せめて滓の中身だけでも、暗闇を照らせたら。
「宰相閣下がお呼びらしい」ハルダが顔を上げずに言った。「片付けてから行きな。それと」
「何か」
「二日前に倒れかけたことは、あの方には黙っておいた」ハルダは針を置いた。「今日まではね」
布の上で、オリヴィアの手が止まった。
戸が開いたのは、日が高くなってからだった。
窓から差す光が、作業台の滓を白く炙っている。
廊下の足音は、迷いのない歩調だった。誰のものかは、聞かずとも分かる。
「まだ夜明け前からいたと、ハルダに聞いた」ユリウスが敷居をまたいだ。
「滓の見分けが、まだついておりませんでしたので」
「一人でか」
「手が空いておりませんでした」
「私は空いていた」ユリウスは作業台に近づいた。「呼べばよかっただろう」
「宴の夜、言ったはずだ」ユリウスは続けた。「次は私も同じ卓につく、と」
「覚えております」
「なら、なぜ一人で舌を出す」
「閣下のお手を、滓の味見に煩わせるわけには」
「それを言っているんじゃない」
声の調子が、いつもより低い。オリヴィアは布の上の滓へ目を戻した。
「使節どのの一件は、もう片づいたはずだ」ユリウスは瓶を一つ取り上げた。「だが君は、今朝もまた同じことをしている」
「配合の割合が、まだ確かめきれておりません」
「二日前、房で倒れかけたそうだな」
息が、浅くなった。ハルダの目が、少し離れた薬研の向こうで伏せられている。
「大事にはいたっておりません」
「倒れた者の言う台詞ではないな」ユリウスは短く息をついた。
「聞かせてくれ」ユリウスは瓶を置いた。「なぜ、そこまで自分を安く扱う」
思いがけない問いだった。オリヴィアは布を握った指を止めた。
「安く、とは」
「舌に乗せる前に、量る手間を惜しまない」ユリウスは彼女の手元を見た。「危うい側から先に立つ。倒れても、それを隠す」
「それは」オリヴィアは言いかけ、言葉を探した。
「役目にございます」
「役目でなくても、君はそうする」ユリウスは瓶から手を離した。「前にも見た」
その言い方に、逃げ場を塞がれた。
「以前、指の話をしたな」ユリウスは目を細めた。「誰にも言えぬ仕事を、長く——そう言った」
「……覚えております」
「あの時から、ずっと考えていた」ユリウスは彼女を見据えた。「君は、誰かの盾になることでしか自分の値打ちを量れないのではないか」
「……買いかぶりにございます」
答えが出てこなかった。喉の奥に、まだ古釘の後味が残っている。
「役目にございます」もう一度、同じ言葉を返した。
指の関節の布は、もう幾重にも替えた。皮膚の下の痛みだけが、変わらず居座る。
「同じ答えだ」ユリウスは首を振った。「役目を外して、聞いている」
「役目を外した、わたしを知りません」
沈黙が、作業台の上に薄く積もった。ハルダの薬研の音だけが、その隙間を埋めていく。
ハルダは薬研の手を止めぬまま、聞こえぬふりで俯いた。房には、二人分の沈黙だけが残った。
「あの給仕を、覚えていますか」オリヴィアは言った。「妹の名も分からぬまま、逝かせました」
「覚えている」
「あの子を救えなかったのは、わたしの手が足りなかったからです」
「違う」ユリウスは即座に言った。「君の手は、足りていた」
「……そうでしょうか」
「同じ轍を、踏みたくないだけです」
「君が身代わりに立てば、轍は踏まずに済むとでも」ユリウスは言った。「では、次に君が同じ目に遭ったら」
「わたし一人なら、まだましです」
「そこだ」ユリウスは短く言った。「君は、いつも自分だけを勘定から外す」
「……そういう質なのです」
言ってしまってから、その先が続かなかった。
「杯を守れても、運んだ手までは守れない。君自身がそう言った」ユリウスは彼女の手元へ目をやった。「なら、君の手は誰が守る」
「わたしは」オリヴィアは声を落とした。「役に立てるうちしか、ここにいてはいけない気がするのです」
言ってから、しまったと思った。だが、拾い直す言葉がなかった。
「役に立たなくても、いていい」ユリウスは真っ直ぐに言った。「そう言ったら、君は困るのか」
困る、という言葉が、思いのほか正しく胸を突いた。喉の奥が、ひとつ鳴る。
「困る」
役目の声が、そこで抜け落ちた。敬語の下から、素の一言がこぼれていた。
「……困り、ます」
言い直したときには、もう遅かった。
「誰かの役に立てないなら」オリヴィアは瓶の滓から目を上げた。「わたしが、ここにいる意味がありません」
言い切った瞬間、喉の奥がひりついた。布の上で、拳だけがきつく閉じている。
ユリウスは、すぐには言葉を返さなかった。
彼の視線が、しばらくオリヴィアの手の上に留まっていた。
何かを測るような、それでいて咎めない眼差しだった。
やがてユリウスの手が伸び、滓の匙を作業台の奥へ寄せた。今日はもう検めなくていい——そう言うように。
「その考えを、誰に教わった」ユリウスはようやく言った。
教わった、のではない。生まれた家の名も、七年抱えてきた秘密も、まだ何一つ明かしていない。
「……さあ」
言葉を濁したのは、初めてではない。だが今日は、その濁し方に自分でも違和感があった。
「顧問殿」
「はい」
「君が黙るとき、たいてい核心の近くにいる」ユリウスは言葉を継いだ。「それも、もう分かってきた」
図星だった。だから、なおのこと答えられなかった。
「ハルダ様」オリヴィアは薬研のほうへ向き直った。「三つ目の滓が、乾いてしまう前に」
「顧問殿」ユリウスの声が、背に届いた。「逃げたな」
「乾く前に、検めねばなりません」
「その滓より、君のほうが心配だがな」
それだけ言って、作業台の端へ布と匙を運んだ。手が、いつもより忙しなく動いた。
ユリウスは、それ以上追わなかった。ただ戸口に立ったまま、しばらくこちらを見ていた気配だけが残った。
日が落ちて、房に灯りをともす頃には、指先の震えも収まっていた。
小さな硝子瓶に、今日の滓の抽出液が少し溜まっている。濁った液は、まだ澄みきらない。
役に立てるうちしか、ここにいてはいけない。
自分の口から出た言葉を、今さらのように反芻する。誰に教わったわけでもない。
ただ七年のあいだ、そう信じるしかなかっただけだ。
気づかれないほうが都合がよかった。誰かの盾でいるあいだだけ、自分の居場所があると思えた。
その底に何があるのか。ユリウスに聞かれるまで、確かめたこともない。
答えられなかった問いは、答えを出すまで消えてくれない。それも、七年で知ったことだ。
窓の外で、夜の虫が一つ、二つと鳴きはじめる。初夏の湿った風が、房の隙間から忍び込んだ。
彼の声が、まだ耳の奥に残っている。役に立たなくても、いていい。
そう言われて、困ると答えたのは自分だった。困る理由を、まだ言葉にできていない。
滓を寄せた彼の指の動きだけが、妙にはっきりと思い出せる。咎めるのでも、詮索するのでもない手つきだった。
誰かに気づかれることを、これほど怖いと思ったのは初めてだった。
次は私も同じ卓につく、と彼は言った。あの約束を、今日はまた一人で破った形になる。
いつか本当のことを話す日が来るのか、自分でもまだ分からない。
生まれた家の名も七年の中身も、伝える言葉を持たないままだ。
硝子瓶の中で、抽出液がゆっくりと澄んでいく。灯りに透けて、底のほうから薄い金色が上がってきた。
澄みきるまでには、まだ二晩ほどかかりそうだった。答えの出ない問いも、同じだけの時をかけて澄んでいくのだろうか。
その二晩を待たずに、事は動いた。
翌朝、治安隊から報せが届く。公国のもう一つの館で、また一人が床の中で冷たくなっていた——と。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回はユリウスが、オリヴィアの「危うい側から先に立つ癖」に真正面から踏み込む回でした。彼女がこれまで誰にも突かれずに済んできた場所に、初めて手が届いた話だと思います。
「役に立てるうちしか、ここにいてはいけない気がする」という台詞は、書きながら一番苦しかった一言でした。献身と自己犠牲は紙一重で、本人はそれを美徳だと信じて七年を過ごしてきたわけですが、その信じ方そのものを誰かに問われる怖さを書きたかったのです。ハルダが二日前の失神をこっそり伝えていた、という一言も、書いていて少し切なくなりました。誰も彼女を放っておかない、それ自体が彼女には初めての経験なんですよね。
ユリウスへの信頼が芽生えることは、オリヴィアにとって嬉しいことのはずなのに、同時にひどく怖いことでもあります。誰にも心を開かず一人で毒を受けてきた人にとって、信頼されること・信頼することは、優しい毒のように効いてしまうのだと思います。タイトルの「信頼という毒」には、そういう意味を込めました。
今回、オリヴィアは核心の手前で逃げてしまいましたが、逃げた問いは彼女の中に残り続けます。次はいよいよ事件が再び動き出しますが、この静かな一話が二人の距離にどう効いてくるか、見届けていただけたら嬉しいです。
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