第17話: 二つ目の死体
鼻先を掠めたのは、蜜蝋の匂いだけではなかった。
その底に、古い釘に似た金気がひとすじ沈んでいる。
寝台に横たわる男の唇へ、オリヴィアは指先を寄せた。
冷たい。
だが苦悶の跡はどこにもない。
デュラン男爵は、眠ったまま逝ったように見えた。
屋敷に着いたのは、日が昇りきる前だった。
門前には、まだ弔いの支度が整っていない。
玄関先で、老いた家令が膝を折りかけて止まった。
「宰相閣下」家令の声が震えていた。「まさか、また」
「屋敷の者を、寝室に近づけぬように」ユリウスは短く言った。「話は、後で聞く」
廊下の奥から、若い侍女の啜り泣きが漏れてくる。
窓布の隙間から、朝の光が一筋差し込んでいた。
部屋には、まだ夜の匂いが残っている。
「今朝、従僕が起こして気づいた」戸口で治安隊のテオが言った。「昨夜は普段どおり、床に就いたそうだ」
「争った跡は」
「ない。物も荒らされていない」
オリヴィアは手袋の指を握り直した。この静けさこそが、あの毒の証だった。
窓辺に、ユリウスが立っていた。
振り向いた目が、こちらを捉える。
「待っていた」ユリウスは言った。
「お待たせいたしました」
「いや」ユリウスは寝台へ視線を戻した。「私も、今しがた着いたところだ」
次は私も同じ卓につく——あの約束を、彼は違えなかった。
オリヴィアは寝台に近づいた。
瞼をそっと開く。白目に、細かな血の点が散っていた。
爪の先を検める。紫がかった翳りが、左右の指に均等に広がっている。
この翳りには、覚えがあった。
アーレン伯の指先にも、同じ色が這っていた。
ただ今度の翳りは、縁がわずかに滲んで、爪の付け根まで濃く落ちている。アーレン伯のときより、毒が長く回った跡だ。
枕元の卓に、飲み干された杯が残っている。
縁に指を這わせ、滓を親指の腹に取った。
舌に乗せる。
砂を噛むようなざらつきが、すぐに追いかけてくる。
奥に、古い釘の後味。
——灰塵。
舌が、すぐにその名を思い出した。
数えきれない朝、この舌で確かめてきた毒だ。
滓を取った指が、杯の縁で止まる。息が、ひとつ浅くなった。
ここは王都ではない。
隣国メリディアの、名も知らぬ男爵の寝室だ。
なのに、同じ毒が沈んでいる。
いや——ひとつだけ、違った。
古釘の後味の底に、覚えのない渋みが一筋、絡んでいる。乾いた青い薬草のような癖だ。
王都で数えきれず舐めてきた灰塵には、なかった癖だった。
産地の違う何かが、この灰塵には練り込まれている。舌だけが、それを拾っていた。
「顧問殿」ユリウスの声が届いた。「顔色が変わった」
「……失礼いたしました」
「何を見つけた」
「灰塵にございます」
「その毒は」ユリウスは眉を寄せた。「以前にも聞いた名だな」
「蓄積性の、遅い毒です」オリヴィアは杯を戻した。「表に出た時には、もう手遅れになります」
「アーレン伯の時と、同じ有様だ」テオが言った。「争いも外傷もない。眠るように逝く」
「亡くなられたのは、いつ頃と」
「昨夜、遅くだろう」テオは首を振った。「今朝までは、誰も異変に気づかなかった」
「デュラン様は、コルバン様と親しくされていたのでしょうか」
「先月の宴に、揃って招かれていたはずだ」テオは答えた。「他にも、名の挙がる方は幾人か」
狙われているのは、一人の運の悪さではない。
一つの集まりに、顔を出していた者たちだ。
「アーレン伯の死に、ヴァレス侯の急変。コルバン家の宴の毒。それにこの男爵だ」テオは表情を硬くした。「短い間に、これだけ続いている」
「治安隊の手は」
「かき集めてはいるが、追いつかない」テオは首を振った。「宰相府の内でも、噂はもう抑えきれていない」
「屋敷の名は、まだ表に出していないのですね」ユリウスが確かめた。
「今のところは」テオは頷いた。「だが、いつまで保てるか」
酒箱の前で、テオが瓶をいくつか並べていた。
「杯以外に、口にした物は」オリヴィアは尋ねた。
「贈り物の酒を、昨夜空けたそうだ」テオは瓶を掲げた。「これしか残っていない」
「贈り主は」
「まだ分からない。荷は、使用人が受け取っただけだ」
瓶の傍らに、小さな木箱が置かれていた。
蓋には、封蝋の跡が残っている。
継ぎ目に、薄い蝋が重ねられていた。コルバン家の水差しで見た筋に、そのまま重なる手順だ。
誰かが一度封を切り、開けた中身を検めてから、また閉じ直している。
蓋の内側に、荷札が貼られている。
オリヴィアは荷札を手に取った。
焼き印は葡萄の意匠——だが縁取りの組み方が、記憶の隅に引っかかった。
「配達の下男を見た者は」ユリウスがテオに聞いた。
「一人だけ、それらしい影を見たと言っている」テオの声が沈んだ。「頭巾を被った男が、裏口から荷を運び入れたと」
「刀傷の男か」
「そこまでは、分からない」テオは肩を落とした。「暗くて、顔までは見えなかったそうだ」
あの晩の路地を思い出す。
頭巾の奥に覗いた、引きつれた傷痕。
あの男が、こんな所にも足を運んでいるのか。
オリヴィアは荷札から目を離せずにいた。
木箱の隅に、細く畳まれた紙片が挟まっている。
取り出して開くと、見慣れぬ書体で数量だけが記されていた。
「この文字は」ユリウスが覗き込んだ。
「商人の符牒かと存じます」オリヴィアは紙片を灯りに透かした。「量を数える、あちらの流儀です」
「あちら、とは」
答えようとして、言葉に迷った。
「……国境の向こうにございます」
「その数を、記録に控えておいてくれ」ユリウスは紙片を返した。「同じ荷が、他にも出ているかもしれない」
「薬師ギルドの荷受け帳にも、目を通してみます」
薬院に戻った頃には、日が傾いていた。
ユリウスも、共に房へ入っていた。
作業台に、荷札と紙片を並べる。
葡萄の焼き印が、灯りに炙られて浮かび上がった。
「その顔は」ハルダが薬研から顔を上げた。「良くない知らせの顔だね」
「アーレン伯と、同じ毒でした」
「貴族の毒死は、これで二人目かい」ハルダは針を置いた。「一人の企みには、多すぎる」
オリヴィアは棚から、これまでの検分記録を取り出した。
アーレン伯とヴァレス侯、コルバン家の記録を並べた。
紙の端に、揃って古釘の後味の印がついている。
「見比べてみれば」オリヴィアは紙を指でなぞった。「量も配合も、少しずつ違います。ですが、根はひとつです」
「ひとつの手が、配り分けているようだね」ハルダは眼鏡越しに紙を見た。
「顔色が、まだ戻っていないね」ハルダはオリヴィアを一瞥した。
「大事ございません」
「二人目の骸を見て、平気な顔をする方が心配だよ」
「ひとつ、気にかかることが」オリヴィアは口を開いた。「あの灰塵には、見慣れぬ薬草の癖が混じっていました」
「癖、とは」ハルダが手を止めた。
「乾いた青い渋みです。王都の灰塵にも、この土地の草にもないものでした」
「どこの草だい」
「分かりません。ただ、国境を越えた先のものかと」
「国境の商会が絡むとなれば」ハルダが眼鏡を押し上げた。「他国との話にもなりかねないね」
「今はまだ、内々に留める」ユリウスは言葉を継いだ。「表沙汰にすれば、証を摑む前に手を引かれる」
「この荷札に、見覚えがございます」オリヴィアは焼き印を指した。「国境の向こうの商会が使う、組み方です」
「確かかい」
「はっきりとは。ただ、どこかで見た覚えがあります」
ユリウスは、それ以上聞かなかった。
荷札を手に取り、作業台の向かいで検める。
「国境の向こうから、この国へ何かが流れている」ユリウスは目を細めた。「その道筋に、毒も紛れているのかもしれん」
「まだ、断定はできません」
「だが、無縁とも思えないな」
「はい」
「コルバン家にも、同じ荷が届いていなかったか」ユリウスはテオに聞いた。
「調べます」テオは一礼し、房を出て行った。
足音が遠ざかると、房には三人の沈黙が残った。
薬研を回すハルダの手だけが、変わらず時を刻んでいた。
「荷を追う手立ては」ハルダが尋ねた。
「商会の名が割れれば、宰相府から使いを出す」ユリウスは荷札を置いた。「国境の関から、先に洗わせよう」
「顧問殿」ユリウスが言った。「一人の犯行ではないと、前々から思っていたな」
「はい」
「今の話は、それが国を跨ぐものだと言っている」
その通りだった。
だが、口にするにはまだ早い。
「閣下、証はまだ荷札一枚にございます」
「一枚でも、道は見える」ユリウスは荷札を指先で押さえた。「この印を追えば、贈り主に届く」
「届いた先に、何があるでしょうか」
「それは」ユリウスは短く言葉を切った。「私にも、まだ分からない」
「この先を追えば」ユリウスは荷札を見た。「危うい場所に踏み込むかもしれない」
「かまいません」
「かまう」ユリウスは言った。「巻き込まれるとしたら、まず君だ」
二人の視線が、一枚の荷札の上で重なった。
夜更け、房に一人残ったオリヴィアは、荷札を灯りにかざした。
窓の外で、初夏の虫の声が滲んでいた。
焼き印の縁を、指先でなぞる。
商会の名までは、まだ分からない。
だが道筋は、確かに国境の向こうから伸びていた。
この連続した死は、一人の企みではない。
誰かの手が、国から国へ、毒を運んでいる。
運ばれているのが灰塵だということが、胸の奥に小さな棘を残した。長く付き合ってきた毒が、こんな遠くで人を殺している。
舌に絡んだ、あの青い渋みも消えない。遠い土地の草が、この毒に練り込まれている。
偶然だと、片づけてしまえたらよかった。
だが偶然というには、その一筋があまりに雄弁だった。
この道をたどれば、どこへ行き着くのだろう。
考えるだけで、指先が冷えた。
巻き込まれるとしたら、まず君だ。
その一言を、胸の奥で反芻する。
案じられることに、まだ慣れない。
だが今日は、一人ではなかった。
その手がどこから伸びているのか——今はまだ、この一枚の焼き印だけが、答えの端を握っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、ユリウスが「次は私も同じ卓につく」という約束を、ついに果たす回でした。オリヴィアが一人で毒と向き合う場面に、彼が並んで立つ——それだけで、これまでの孤独な検分とは違う景色になったはずです。
そしてもう一つの核は、灰塵という毒そのものでした。七年間オリヴィアが数えてきたあの後味が、遠く離れた隣国の寝室に、同じ姿で沈んでいる。この符合は偶然では片づけられません。荷札一枚から伸びる道筋が、国境の向こうを指していること——その先に何があるのかは、オリヴィア自身にもまだ見えていません。
事件は、もう一人の犯行ではなく、国境を越えて伸びる何者かの手によるものだと分かってきました。ただ、その手の持ち主が誰なのかは、オリヴィアにもまだ見えていません。次話以降、この糸がどこに繋がっていくのか、どうか見届けていただけたら嬉しいです。
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