第18話: あなたの七年
膝が、言うことを聞かなかった。
寝台を降りようとした足が崩れ、アルヴィスは寝具の縁を握って持ちこたえた。
支えなしでは、もう立てない。
「殿下」控えの間から駆け込んだ侍女が、脇の下へ肩を差し入れた。「お一人では」
「分かっている」アルヴィスは声を尖らせた。「言うな」
膝の力が抜けたのは、これで三度目だ。血を吐くだけならまだ耐えられた。今度は、立つことそのものが体から離れていく。
「侍医長を」侍女は震える声で続けた。
「呼べ」
オーウェンが房に入るまで、さほど時はかからなかった。膝をつき、脈を測る指が、いつもよりわずかに長く止まった。
「脈が、細くなっております」オーウェンは眉根を寄せた。「昨日より」
「昨日より、悪いということか」
「悪いというより」オーウェンは言葉を選んだ。「弱っておられます。全身が」
瞼の裏を検め、爪の色を見比べる。
爪の根の青紫が、以前よりも濃くなっていた。オーウェンはそこに指を添えたまま、しばらく動かなかった。
「答えろ」アルヴィスは低く言った。「俺は、治るのか」
オーウェンは、すぐには答えなかった。
「殿下」ようやく口を開いた老医の声は、これまでよりも掠れていた。「わたくしにできることは、もう」
「もう、何だ」
「これ以上、ございません」
その一言だけが、房の空気を凍らせた。
「今まで、はっきり言わなかったな」アルヴィスは布団を握った。「匙を投げる、と」
「申し上げる勇気が」オーウェンは頭を垂れた。「今日まで、持てませんでした」
「王家に三十年仕えてきたお前が、か」
「その三十年で、初めて手が尽きました」オーウェンの肩が落ちた。
「では、誰に頼めばいい」
「遠い国に、毒に通じた医師がいると聞き及びます」オーウェンは声を絞った。「使いを送るお許しを」
「父上には」
「まだ、何も」オーウェンは目を伏せた。「殿下がお隠しになりたいと」
継承の先を囁く声は、もう抑えきれぬところまで来ている。それでも父に告げる決心は、まだつかなかった。
俺の体に、何が起きているのか。
考えるたび、行き着く先が同じところへ戻ってくる。あの女がいた頃は、こんな夜はなかった。
だが、あの女が何をしていたのかを、今も俺は知らない。
毒見の役目など、飾りだと思っていた。器を検める仕草も、退屈な慣わしにしか見えなかった。
あの地味な女は、毎朝、俺の器にだけ長く目を落としていた。今にして思えば、あれは飾りの仕草ではなかった。
何を見ていたのか。尋ねる機会は、もう俺の手の中にない。
布に散った赤い染みを、アルヴィスは拳の中に握りしめた。
昼を過ぎた頃、セリカが房を訪れた。
「殿下」寝台の脇に膝をつき、両手で彼の手を包む。「侍医長どのから、もう手立てがないと伺いました」
「聞いたのか」
「城中の噂に、耳を塞いでいても入って参りますの」セリカは睫毛を伏せた。「遠い国に、良い医師がいるとも」
「オーウェンが、使いを出したいそうだ」
「それは」セリカは彼の手を握り直した。「よろしいのでしょうか。見知らぬ者を、殿下のお側に」
「他に、手がない」
「わたくしが、お食事もお薬湯もすべて整えております」セリカは声を震わせた。「新しい方が入れば、その手順を一から」
「手順、とは」
「殿下のお加減に合わせ、匙の量も刻限も調えておりますの」セリカは微笑んだ。「余所の方には、分からぬことかと」
毎朝同じ刻限に、寸分違わぬ手つきで匙が動く。そこに乱れが一切ないことに、アルヴィスはふと違和感を覚えた。
病人の世話にしては、あまりに手順が整いすぎている。その心地が、一瞬だけ喉に引っかかった。
だがそれもすぐに、献身の証だと思い直した。
「侍医長どのには、もう少し様子を見ていただいては」セリカは続けた。「新しい方をお呼びになるのは、その後でも」
「様子を見て、何が変わる」
「殿下のお体は、わたくしが一番よく存じております」セリカは彼の頬に手を伸ばしかけ、止めた。「他の誰より」
碗を持つ指すら震える今の体で、匙を口へ運んでくれるのはセリカだけだった。
頼るしかない自分を、アルヴィスはもう恥じることもしなくなっていた。
「お前に、任せる」
「はい」セリカは満ち足りたように笑んだ。「わたくしに」
薬湯の匂いが、房に薄く広がっていく。よくある煎じ薬の匂いのはずだった。
碗を口へ運ばれながら、アルヴィスは目を閉じた。
舌の奥に、ざらりと砂を噛むような後味が残る。薬草の苦さだろうと、それ以上は確かめなかった。
夜、房に一人残されたアルヴィスは、天井を見上げていた。
灯芯の炎が、壁に細い影を揺らしている。
同じ問いが、今夜は違う重さで胸に戻ってきた。喪ってから、その形がようやく見え始めている。
あの女は、いったい何を見ていたのだろう。俺は、何に守られていたのだろう。
セリカの手つきの、あの揺るぎのなさが、なぜか目の奥に残っている。
だが今は、それに頼るしかない。灯芯の火が、じりと音を立てて縮んだ。
薬師ギルドの荷受け帳を洗い直して、三日が過ぎていた。
符牒の数字は、国境近くの名も知れぬ商会の倉へと続いていた。
オリヴィアはその暗がりで、木箱の瓶を灯りにかざす。
封を切った跡が、蓋の継ぎ目に残っている。
瓶の口に鼻を寄せると、古釘の金気が立った。前より濃い。
「顧問殿」ユリウスが背後で言った。「量は」
「並みの荷より、明らかに多うございます」
「今宵のうちに、コルバン家の縁者へ届く手筈だ」治安隊のテオが戸口で言った。「荷馬車は、もう表に」
「間に合うか」ユリウスが聞いた。
「間に合わせるしかない」テオは瓶を掲げた。「これが本当に、あの毒かどうか」
図譜で確かめる時はない。分析には一晩かかる。届く前に止めるには、今この場で断じるしかない。
オリヴィアは瓶の縁に指を這わせ、滓を親指の腹に取った。
「顧問殿」ユリウスの声が硬くなった。「待て」
待つ猶予はなかった。今夜のうちに、誰かの卓へ上る酒だ。
滓を、舌の先にわずかに触れさせた。
痺れが、いつもより急いて舌を刺す。その奥から、古釘の匂いが立ち上がった。
だがそれだけではない。銀舌の鋭さが、遅れて舌先を刺した。
二つの毒が、同じ瓶の中に重ねてある。
視界が、わずかに滲んだ。
「顧問殿」
膝が崩れかけた。ユリウスの腕が、倒れる寸前の体を支えた。
「灰塵と、銀舌にございます」オリヴィアは舌の痺れを噛み殺しながら言った。「量は、これまでのどれよりも」
「荷を止めろ」ユリウスがテオへ叫んだ。「今すぐ」
テオが倉を飛び出していく足音が遠ざかる。
支えられたまま、オリヴィアは呼吸を整えた。
「歩けるか」
「大事ございません」
「大事あるかどうかは、私が決める」ユリウスは彼女の腕を放さなかった。「並みの量なら、今ごろ君は倒れている」
その通りだった。だが体は、しびれの底からゆっくりと戻ってきている。並みの者なら、まだ立てもしないはずの毒だった。
テオが荷馬車を止めたと報せに戻る頃には、しびれも引いていた。
夜半、薬院の房に、二人だけが残った。
卓の上に、瓶と滓の包みを並べる。ユリウスは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
「聞きたいことがある」ようやく口を開いた。
「何なりと」
「今夜の量は、致死に近かった」ユリウスは彼女の手元を見た。「なのに君は、今こうして立っている」
「耐性が、ついておりますので」
「灰塵に限って、と前にも言ったな」ユリウスの声が低くなった。「銀舌にまで、この程度で済んだのは何故だ」
答えに詰まった。舌の根に、まだ痺れの名残がある。
「その指」ユリウスは彼女の手を見つめた。「以前も見た。同じ場所が、幾度も裂けては塞がった痕」
「調薬の仕事には、ままあることです」
「薬草だけで、これほどの痕はつかない」ユリウスは首を振った。「アーレン家でもコルバン家でも、君は迷わず毒に触れた。今夜もそうだ」
「見立てを急ぐ必要が」
「毎回、そう言う」ユリウスは瓶を置いた。「だが本当に急いでいるようには見えない。見慣れた手つきだ」
核心が、すぐそこまで迫っていた。
「顧問殿」ユリウスは彼女を見据えた。「これほどの痕がつくには、七年かそれ以上の年月が要る。違うか」
息が止まった。指先まで、血の気が引いていく。
「君は、誰かの毒を長いあいだ身代わりに引き受けてきたのではないか」
喉が、からからに乾いた。凪いでいたはずの声が、出てこない。
「……なぜ、それを」
言ってしまってから、しまったと思った。膝の上で、指がきつく閉じる。
「違うと、言ってくれ」ユリウスは静かに言った。「言えるなら」
オリヴィアは、瓶の滓へ視線を落とした。
沈黙が、二人の間に薄く積もっていく。
「存じません」ようやく絞り出した声は、いつもより硬かった。
「その顔で、そう言うのか」
膝の上の拳が、答えの代わりに小さく震えた。
ユリウスは、それ以上問い詰めなかった。ただ、しばらく彼女の手を見ていた。荒れた指の一本一本を、確かめるように。
「よく、一人で持ちこたえた」
思いがけない一言だった。オリヴィアは顔を上げた。
「責めているのではない」ユリウスは言葉を継いだ。「どれほどの年月を、一人で抱えてきたのか。私には測りきれない。だが軽い年月でないことだけは、分かる」
七年、と胸の中でだけ答えた。声には出さなかった。
「家名も、これまでの一切もまだ聞かない」ユリウスは言い足した。「今、君に話せというつもりはない」
「閣下」
「だが、これだけは言っておく」ユリウスは彼女の目をまっすぐに見た。「これからは、一人で舌を出させはしない」
「……それは」
「今夜のような真似は、もう許さない」ユリウスは言った。「この一件の先で、君を守る側に回る。それを、決めた」
オリヴィアは、何も言えなかった。
喉の奥に残っていた痺れが、いつの間にか別のものに変わっている気がした。
誰かに七年を言い当てられ、それでも咎められなかったのは、初めてのことだった。
窓の外で、初夏の虫が一つ、二つと鳴きはじめる。
ユリウスは瓶を布で包み直し、それ以上は何も聞かずに卓を離れた。
オリヴィアは、しばらくその背を見送っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は本国と隣国、二つの場面を交互に置く回でした。アルヴィスの側では、侍医長オーウェンがついに「もう手立てがない」と言葉にし、彼自身も「あの女が何を見ていたのか」という、これまでより一歩踏み込んだ問いを抱き始めます。ただし彼はまだ、答えにはたどり着けません。セリカの献身も、表向きは変わらず続いています。
隣国の側では、ユリウスがついにオリヴィアの生き方の核心近くまで言葉にします。「よく、一人で持ちこたえた」という一言は、彼女がこれまで誰からも受け取ったことのない種類の言葉だったはずです。認められることの怖さと、それでも少しだけ息がつける安堵と、その両方を書きたい場面でした。
ただし、ユリウスが辿り着いたのはあくまで「誰かの毒を身代わりに受けてきた」という生き方の事実までです。その毒を誰が盛っていたのか、本国と隣国の毒がどう繋がっているのか——そこはまだ、彼にもオリヴィアにも見えていません。二つの国で静かに深まっていくそれぞれの真実が、この先どう交わっていくのか、どうか見届けていただけたら嬉しいです。
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