第19話: 同じ手口
乾いた滓の欠片を、指の腹へ移す。
舌の先へ触れさせると、覚えのある苦みの底に、覚えのない酸みが差した。
三日前、荷馬車ごと押収した瓶の底に張りついていた粉だった。
舌の先で転がすほど、酸みは輪郭を持ってくる。灰塵の苦みでも、銀舌のしびれでもない。
この酸みだけは、まだ名を持たない毒だった。
——一人で舌を出させはしない。三日前の夜、ユリウスはそう言った。
その声は耳の底に残っている。それでも名の知れぬ毒を前にすると、指のほうが先に動いた。ほんの先端で確かめただけだと、胸の内で言い訳をした。
薬院の房に、蝋を溶かす匂いが薄く満ちていた。
三日前、荷馬車を止めた夜から、蝋に沈めて寝かせておいた欠片だった。
卓にはアーレン伯とヴァレス侯、コルバン家で採った滓の記録も並べてある。どの紙にも古釘の後味の印が同じ場所に押してあった。
この三日、生の滓を舐めても、層の境目までは分からなかった。舌に触れた途端、二つの毒が渾然と混ざり合ってしまう。答えを出したのは、舌ではなく蝋だった。
「三日、寝かせた甲斐はあったよ」ハルダが薬研の脇から、蝋の欠片を摘み上げた。「表と芯で、味が違う」
「よく、蝋に沈めようと思いつかれましたね」
「昔、香の匂い移りを蝋で拾ったことがあってね」ハルダは眼鏡越しに目を細めた。「毒も油に馴染む質なら、同じ理屈で層が分かれると踏んだのさ」
「表と、芯」
「ここを見てごらん」ハルダは欠片を灯りにかざした。外側は白く粉を吹き、内側だけが飴色に透けている。「銀舌は表にだけ塗ってある。灰塵は、芯に押し込まれていた」
蝋に三日沈めてようやく内と外の層がくっきり分かれて現れる。急いで割れば、二つの毒は混ざり合ったまま見分けがつかない。
オリヴィアは欠片を受け取り、割れ目に鼻を寄せた。
外からは、しびれを呼ぶ鋭い匂いが立つ。だが割れ目の奥には、あの古釘に似た匂いだけが低く沈んでいた。
「銀舌は、飲んだ者をすぐに苦しませます」オリヴィアは欠片を灯りに透かした。「その隙に、灰塵は誰にも気づかれず腹の奥へ収まります」
「派手な方で、目を逸らさせる」ハルダは眼鏡を押し上げた。「地味な方を、その陰で送り込む算段だね」
「派手さの陰に、地味を仕込む……」
声にしてから、オリヴィアは自分の言葉に立ち止まった。
「顧問殿」戸口でユリウスの声がした。「見つかったか」
「はい」オリヴィアは欠片を差し出した。「表と芯、二つの層に分かれています」
ユリウスは欠片を受け取り、割れ目を検めた。
「派手な毒で目を引き、地味な毒を芯に隠す」ユリウスは低く言った。「毒を、二重に仕込む手口か」
「一つだけでは、狙いを疑われます」オリヴィアは言葉を継いだ。「二つ重ねれば、片方に気を取られます。その隙に、もう片方が本命として残ります」
「本命は灰塵の方だな」
「はい。銀舌は、その本命を隠すための囮にございます」
ユリウスは欠片を指の間で挟んだまま、しばらく黙っていた。やがて、それをオリヴィアの手のひらへ戻す。
「顧問殿」ようやく口を開いた。「この作り方に、覚えは」
問われた拍子に、握らされた欠片の角が指の腹へ食い込んだ。
覚えがあった。
いや——覚えがあるはずのない作り方だった。毒がこんな風に層をなしているところなど、今まで目にしたことはない。
なのに、指先の感触にだけ、覚えがある。
——あれは、まだ王城にいた頃のことだ。
王太子の茶器の縁に、薄い膜が張っていたことがあった。毒見のたび指先で拭い、当然のように捨てていた。膜の下は、いつもの古釘の匂い。膜の上だけが、いつも違う匂いを纏っていた。
白磁の縁に浮くその筋は、朝の光を受けるとかすかに虹を帯びて見えた。美しいとさえ思ったことがある。だからこそ、疑いもしなかった。
あの膜が何のためにあったのか、七年、一度も考えなかった。ただの茶渋だと、自分に言い聞かせていただけだった。
一度だけ、侍女頭に聞かれたことがある。「その白い筋は、何でしょう」と。オリヴィアは「古い茶渋にございます」と答え、それ以上は誰にも言わなかった。
——指の間の欠片が、あの頃の感触に重なって戻ってくる。
欠片を持つ指が、いつの間にか小さく震えていた。
ユリウスの手が、伸びかけて止まった。
「顧問殿」
名を呼ばれて、我に返った。
「顔色が」ユリウスの声が硬くなった。「何を思い出した」
「昔、似た手触りを見た覚えがございます」
「似た、とは」
「本国の、器の縁にございました」オリヴィアは声を抑えた。「膜のように薄い層が、いつも上に張っていて……」
「それも、二重だったのか」
「はい。今にして思えば」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「これは」ユリウスは欠片を灯りに戻した。「同じ作り手の手か」
「分かりません」オリヴィアは首を振った。「ですが、同じ手業だとは思います」
ユリウスは何も言わず、房の外へ声をかけた。ほどなく下働きの娘が、湯気の立つ杯を運んでくる。
「先に、それを」ユリウスは杯をオリヴィアの手元へ寄せた。「話は、それからでいい」
何を飲まされているのかを確かめる癖が、指先まで出かかった。だが香りは、ただの薬草茶だった。
「同じ手業」ハルダが薬研の柄を止めた。「一人の思いつきじゃない、ということかい」
「型が、決まっているように見えます」オリヴィアは欠片を見つめた。「同じ手順を、何度も踏んでいるような」
「型があるということは」ユリウスが言葉を継いだ。「一人の毒師の仕事ではなく、教え込まれた技だということだ」
教え込まれた技。
誰かが、この作り方を誰かに伝えている。
教える者がいるということは、教わった者は一人ではないということだ。
そう思った途端、喉の奥が乾いた。
戸口から、テオの足音が入ってきた。
「アーレン家とコルバン家の残り滓も、洗い直した」テオは紙束を掲げた。「どちらにも、同じ層があった」
「どちらも、二重に」
「表は違う毒でも、芯はいつも灰塵だ」テオは紙を卓に広げた。「四件とも、揃っている」
「日付を並べると」テオは紙を指でなぞった。「ひと月に一件のような速さだ」
「狙われる家に、共通は」ユリウスが尋ねた。
「今のところ、社交界での繋がりだけだ」テオは首を振った。「身分も、財も揃っていない」
「歳も家格もばらばらだ」テオは紙束を卓に置いた。「なのに、盛られた型だけが四件とも揃っている」
「無差別に見えて、選ばれている」オリヴィアは紙の並びに目を落とした。「誰かが、狙う相手を決めているのですね」
ユリウスはしばらく紙束を見つめ、それから低く問うた。
「荷の出所は」
「例の商会に、まだ繋がったままだ」テオは答えた。「国境の向こうから途切れず入っている。止める気配もない」
国境の向こう。あの符牒の紙も、この蝋の層も、同じ場所から流れてきている。
四件とも。
一人の恨みでも、行き当たりばったりの犯行でもない。
一つの型を、一つの手が、繰り返し刻んでいる。
「これで、はっきりした」ユリウスは紙束に目を落とした。「一人の犯行ではない。技を持った誰かが、繰り返しこの型を使っている」
「型を教える者がいて、それを使う者が幾人もいるのですね」
「そういうことだ」
「これは」ハルダの声が沈んだ。「一つの工房どころではないね」
「工房、というと」
「型を仕込むには、場数が要る」ハルダは薬研を置いた。「片手間で覚える技じゃないよ」
「一人前になるまで、幾人にも毒を練らせて仕込む場所ということですか」
「そういう所がどこかにあるんだろうね」ハルダの声は低かった。「それも、一つとは限らないよ」
七年間、毎朝同じ言葉だけを差し出してきた。
——今朝も、問題はございませんでした。
その言葉の裏で、誰かが毎晩同じ手順で毒を練っていたのだとしたら。
一人の悪意でも、思いつきの犯行でもなく、決まった型を持つ誰かの仕事だったのだとしたら。
あの言葉を差し出すたび、自分は何と向き合っていたことになるのだろう。
七年間、自分が向き合っていたのは、たった一人の敵ではなかったのかもしれない。
背筋を、冷たいものが滑り落ちた。
「閣下」オリヴィアは顔を上げた。「この型は、隣国だけのものではないと思います」
「本国からも、同じ手が伸びていると」
「確かめる術は、ございません」オリヴィアは言葉を選んだ。「ですが、手業だけは同じです」
「手業が同じなら」ユリウスは静かに言った。「作った者も、同じということだ」
その一言が、房の空気を重くした。
「これまでの被害を、もう一度洗い直させる」ユリウスは欠片を布に包んだ。「同じ型が、他にも出ていないか」
「はい」
「顧問殿」ユリウスは彼女を見た。「一人で抱え込むな。今度は」
「……存じております」
「私も同じ卓につくと言った」ユリウスは声を落として続けた。「あれを、今度こそ違えるつもりはない」
その一言に、朝ひとりで舌を出した後ろめたさが、胸の底で小さく疼いた。
テオが一礼して、房を出て行った。
足音が遠ざかると、房には静けさだけが残った。
灯芯だけが小さく灯る房で、オリヴィアは蝋の欠片を指先で挟んでいた。
昼間の薬草茶は、とうに冷めて卓の隅に置かれたままだった。
外側の白い粉と、内側の飴色。二つの層は指で挟むとわずかに軋んで、決して混じり合おうとしなかった。
一つの手が、二つの国へ違わぬ型を刻んでいる。
だとすれば、七年前のあの膜も、誰かが一人で思いついたものではなかったのかもしれない。
思いを巡らすほど、肩のあたりが硬くこわばっていく。
誰にも気づかれないまま七年を生きてきた。その誰かも、気づかれないまま手業を磨いてきたのだとしたら——二人はよく似ている。
欠片を挟んでいた指が、ふいに動きを止めた。
いつからか、気づかれないことのほうを恐れている自分がいる。七年のあいだ恐れていたのは、その逆だったはずなのに。
問いは声にならないまま、そっと飲み下すしかなかった。
窓の外は、物音ひとつ立たない夜だった。
薬院の廊下を、遅い見回りの足音が一度だけ通り過ぎていく。灯りは房の中にひとつだけ残っていた。
灯りに透かした欠片の中で、二つの層は、今夜もまだ混じらないままだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回、オリヴィアが手にしたのはただの毒物ではなく「作り方」でした。銀舌で目を引き、灰塵を芯に隠す——毒そのものより、この設計の仕方に彼女が戦慄する回にしたいと思って書きました。七年前、王太子の器の縁にあった薄い膜を、ただの茶渋だと自分に言い聞かせていた過去が、まったく違う意味を持って戻ってくる瞬間です。
「型があるということは、教え込まれた技だということだ」というユリウスの一言は、彼にとっても静かな確信だったはずです。一人の悪意と、教え込まれた技を持つ誰かの仕事とでは、抱えるべき覚悟の重さがまるで違います。オリヴィアがこれまで向き合ってきたものの輪郭が、この話でひとつ変わりました。
ただ、その手がどこから伸びているのかは、彼女にもユリウスにも、まだ見えていません。灯りに透かした欠片の中で、二つの層がまだ混じり合わないように、答えもまだ混ざり合ってはいないのです。次話で、この確信がどこへ向かうのか、どうか見届けていただけたら嬉しいです。
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