第20話: 偶然ではなかった
紙の黴と埃の匂いに紛れて、指先へ赤錆に似た匂いが移った。
古い帳面の綴じ目に鼻を近づけると、匂いはさらに際立つ。
記された日付は、七年前だった。
薬師ギルドの書庫は、灯りの届かぬ奥まで棚が連なっていた。
治安隊が過去の変死記録を洗い直す許しを取った。封のかかった書架を開けたのは、今日が初めてだった。
オリヴィアは埃を払った帳面を卓へ運び、頁を繰る手を止めた。
染みのように残った古い封蝋の欠片が、頁の隅に貼りついている。
欠片へ爪を立てると、乾いた蝋が薄く剥がれた。舐めずとも分かる匂いだった。表は鋭く芯は重い。銀舌と灰塵。二つの匂いが同じ場所に眠っていた。
「顧問殿」テオが書庫の奥から声をかけた。「その棚の帳面は、七年より前のものだ」
「七年、前」
「もっと古い記録がないか探していたら、行き当たった」テオは埃まみれの箱を卓に置いた。「当時の変死の記録簿だ。エッカート男爵という人物が、原因不明の衰弱で亡くなっている。犯人は分からずじまいだったらしい」
オリヴィアは頁を繰る手を早めた。染みの位置、封蝋の色。今追っている四件の記録と、そっくり同じ形をしている。
記録には、男爵の最期の様子も短く記されていた。ひと月あまりをかけて次第に衰弱し、最後の数日は幾度も血を吐いた、と。
その一文に、指先が止まった。
じわじわと衰える体。突然の吐血。
その進み方は、耳にした覚えのある型そのものだった。灰塵の抑えが外れたときの表れ方と、あまりに近い。
「同じ、型ですね」
「歳月は隔たっているのに、手口だけがそっくりそのままだ」テオは記録簿を指でなぞった。「気味が悪いくらいに」
ハルダが老眼鏡を押し上げ、頁を覗き込んだ。指先で頁の染みをそっとこすり、鼻を寄せて確かめる。
「表と芯、確かに分かれているね」ハルダは呟いた。「あの蝋の欠片と、寸分違わない層だ」
「七年前も、同じ手順で仕込まれていたのですね」
「わたしの見立てじゃ、疑いようがないよ」ハルダは眼鏡を外して拭った。「腕を持つ誰かが、七年前からこの型を扱っていた証さ」
「たまたま、同じ思いつきということは」テオが紙束の陰から尋ねた。「二人の毒師が別々に、同じ工夫をしたとか」
「派手と地味を重ねる工夫は、思いつく者ならいくらでもいる」ハルダは首を振った。「だが蝋に浸けねば見分けもつかぬ層の厚みまで、そこまでぴたりと揃うものかね」
その問いに、答える者はいなかった。
「七年前というと」ハルダは眉を寄せた。「あんたが王城に上がったのは、いつだったかね」
問われて、答えに詰まった。
「……ちょうど、七年前にございます」
卓の上が、しんと静まった。
「偶然、でしょうか」オリヴィアは声を絞った。
「同じ型が、同じ年数だけ続いている」ハルダは記録簿を閉じた。「わたしなら、偶然とは呼ばないね」
「荷の記録も、洗い直した」テオが紙束を広げた。「符牒は変わっても、出所の型は途切れていない。七年以上、途切れずに続いている」
「途切れず……」
「一つの工房が、七年も回り続けている証だ」テオは紙を指した。「休んだ形跡もない」
テオが帳面を抱えて棚へ戻していく足音が、書庫の奥へ消えていった。
ハルダは老眼鏡を外し、卓の隅に置いた。
「七年、休まず一つの型を回し続けるというのは」ハルダは低く言った。「腰を据えて仕込む場所が、どこかにあるということさ」
「型を、育て続ける場所があるということですね」
「そうだろうね」ハルダは肩をすくめた。「ここいらだけの話じゃ、なさそうだ」
ハルダも書庫を出ていくと、灯りは卓上の一つだけになった。
残った帳面の頁を、指先でもう一度なぞった。染みの形。封蝋の厚み。蝋の下に沈んだ二つの匂い。どれを取っても今夜の四件と重なっている。
七年前、この国のどこかで同じ手が動いていた。
その同じ年、遠い王城の食卓にも同じ手業の毒が盛られ始めた。
二つが同じ年に生まれたのなら——それは、もう偶然とは呼べない。
蝋の欠片を指に挟んだまま、オリヴィアはどれほどそうしていたか覚えていなかった。
戸口に人の気配がして顔を上げると、ユリウスが立っていた。
「まだ、ここに」ユリウスは卓へ歩み寄った。「テオから聞いた。七年前の記録が出たと」
「はい」オリヴィアは記録簿を差し出した。「型も日付も、今追っている四件と重なります」
ユリウスは頁を検め、しばらく黙って文字を追った。手を止めた頁には、エッカート男爵の名が記されている。
「七年、途切れず続いている型か」ユリウスはやがて口を開いた。「君が城に上がった年と、同じだな」
「はい」
声が、思いのほか小さく出た。
「顧問殿」ユリウスは顔を上げた。「これは、まだ偶然と言えるか」
問われて、頭の奥がひやりとした。
「……いいえ」オリヴィアは首を振った。「もう、そうは思えません」
「七年、ずっと」オリヴィアは膝の上で手を握った。「誰か一人の恨みだと思っておりました。理由も動機も分からぬまま」
「今は、違うと思うのか」
「型を仕込む場所があり、その型が七年途切れず回り続けているのだとすれば」オリヴィアは声を落とした。「わたしが向き合っていたのは、一人の悪意ではなかったことになります」
「教え込まれた技を持つ誰かが、次々に送り込まれていたと」
「はい」
その一言を口にした瞬間、七年間毎朝繰り返した言葉が、耳の奥でよみがえった。
——今朝も、問題はございませんでした。
あの言葉を差し出していた七年が、この型の回り続けた七年に、ひたりと重なっていた。
自分がいたから型が回ったのか、型が回る年に自分が呼ばれたのか。考えるほど、その順序さえ分からなくなる。
毎朝同じ器を検めた。毎晩同じ量の毒を体に入れた。誰にも気づかれず七年を数えてきた。
あれは一人の悪意への抵抗ではなく、名も知らぬ大きな歯車への抵抗だった。
自分一人の忍耐で押し止められるものでは、初めからなかったのかもしれない。
そう思い至ると、七年ぶんの静かな誇りが、足元から崩れていくような心地がした。
ユリウスは彼女の指先へ目を落とした。
「今の話は、確信か」
「確信、にございます」オリヴィアは答えた。声に、迷いはなかった。
「その確信は、軽々しく口にできる代物ではない」ユリウスは声を落として続けた。「だが、私も同じ結びに至った」
その一言に、初めて誰かと同じ景色を見ている、という感覚が胸を過ぎった。
「閣下」オリヴィアは顔を上げた。「この型が、七年途切れず回っていたのだとすれば」
「本国も、同じ型に晒されていたと思うのか」
「今も、かもしれません」オリヴィアは唇を結んだ。「わたしがいなくなっただけで、型そのものが消えるわけではありません」
言葉にしてから、みぞおちのあたりが重く沈んだ。
「殿下は」オリヴィアの声がかすかに震えた。「まだ、狙われ続けているのかもしれません」
七年前に始まったものが、まだ終わっていないのだとすれば。
自分が去ったあの朝から、王太子の器を検める者は誰もいない。
じわじわと衰え、最後に血を吐いたエッカート男爵の記録が、頭の奥で殿下の姿に重なった。
あの吐血は、抑えが外れた表れに過ぎない。
もし型が今も回り続けているのなら、抑えの外れた体にさらに新しい手が伸びているかもしれない。
「顧問殿」ユリウスは彼女の顔色に気づいて、眉根を寄せた。「顔が、白い」
「大事ございません」
「今、無理に立ち向かう必要はない」ユリウスは記録簿を卓に置いた。「本国への文一つにしても、迂闊に出せば向こうの目に留まる」
「では、どうすれば」
「まずは、こちらの型を突き止める」ユリウスは言葉を選んだ。「型の出所が分かれば、本国の側にも探る糸口が立つ」
「閣下は、本国のことも」
「君が案じている以上、私が知らぬふりをするわけにはいかない」ユリウスは彼女を見据えた。「ただし今は、逸ってはならない」
ユリウスは記録簿の頁へ視線を戻した。
「まだ、誰の仕業かは分からない」
「はい」
「分からないまま国境を越えれば、確かめる手立てもなくなる」ユリウスは言葉を継いだ。「今は、ここで型を追う方が確実だ」
「……仰る通りです」
答えながら、胸の底には別の重さが居座ったままだった。七年前、同じ年に生まれた二つの型。
その片方は今もこの国で牙を剥き、もう片方は遠い王城で、誰にも気づかれぬまま回り続けているのかもしれない。
「その胸騒ぎは、君ひとりで背負うには重すぎる」ユリウスは彼女から目を離さず言った。「私に預けなさい」
預ける、という言葉が、七年間誰にも渡したことのない重みに触れた気がした。
誰かに預けるという行いを、これまで一度も覚えたことがなかった。渡し方すら分からず、オリヴィアは小さく頭を下げるだけで、それ以上は言葉にしなかった。
窓の外はとうに日が落ち、書庫の空気は夜のものに変わっている。灯芯が一つ、卓の上で細く揺れていた。
「今夜は、もう休め」ユリウスは彼女の肩越しに窓を見やった。「型を追う仕事は、明日からでも遅くない」
「はい」
答える声だけは、いつもの凪いだ調子に戻っていた。だが胸の底に居座った重さまでは、まだ鎮まってくれそうになかった。
ユリウスの足音が書庫の奥へ遠ざかっても、オリヴィアはすぐには動けなかった。
卓に残された七年前の記録簿。エッカート男爵の名の脇へ、そっと指を置く。
この頁と同じ型が、今も王城のどこかで、誰かの器の底に沈んでいるのかもしれない。
書庫の闇が、ひと回り深くなった気がした。その闇の向こうに、遠い王城の食卓がふいに思い浮かんだ。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、七年前の未解決記録という「もう一つの符合」を出しました。連続毒殺の型が七年間途切れず回り続けていたと分かった時点で、オリヴィアがその年数に自分自身の七年を重ねてしまうのは、彼女にとって避けようのない反応だったと思います。「一人の恨みだと思っていたものが、実は途切れず回り続ける仕組みだった」——この認識の反転こそが、今回いちばん書きたかった核でした。
この話でオリヴィアが辿り着いたのは、あくまで「型が七年続いている」という事実と、それが本国にも及んでいたかもしれないという胸騒ぎまでです。誰がその糸を引いているのかは、彼女にもユリウスにも、まだ何一つ見えていません。ユリウスの「まだ、誰の仕業かは分からない」という一言は、逸る心を静かに繋ぎ止める言葉として書きました。
王太子の器を検める者がもういない、という事実だけが、オリヴィアの胸に重く残ります。この胸騒ぎがどこへ向かうのか、次話以降も見届けていただけたら嬉しいです。
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