第21話: 黒幕の糸
舌の上に、鉄の味が広がっている。
寝台に沈んだまま、アルヴィスはそれを飲み下すこともできずにいた。
喉の奥にわだかまる血の匂いは、いつからか目覚めの合図になっていた。
窓の外はまだ暗い。差し込む光さえ、今の彼には重かった。
宮廷医が脈を取り、眉間の皺を深くした。
「脈が、弱くなっております」宮廷医は静かに告げた。「薬でどうにかできる域は、もう越えました」
「他の医師も、同じことを言うのか」
「三人とも、同じ見立てにございます」宮廷医は目を伏せた。「毒かとも疑いましたが、それらしき証は何も。病の名すら、突き止められぬままにございます」
アルヴィスは天井を見つめたまま答えなかった。答える力さえ、日ごとに薄れている。
宮廷医が一礼して下がると、入れ替わりに扉が開いた。
セリカが盆を手に入ってきた。
「殿下」セリカは寝台の脇に膝をつき、匙を手に取った。「お加減は」
「変わらん」掠れた声しか出なかった。「相変わらず不甲斐ない王太子だ」
「そんな風に仰らないでくださいませ」セリカは匙を彼の唇へ寄せた。「わたくしは、お側にいられるだけで」
薬湯を飲み下すと、苦さの底に淡い蜂蜜の香りが残った。
この数十日、彼女は夜も寝台を離れなかった。舞踏会にも夜会にも一度も顔を出していないと、侍女たちが噂しているのを小耳に挟んだことがある。
かつて彼女の素性を訝しんでいた老貴婦人までもが、先だって回廊で「あの令嬢は、変わられた」と洩らしていた。
ある日の昼下がり、見舞いに訪れたオルレア侯爵夫人が、扉の外でセリカに声をかけているのを耳にしたことがある。
「以前は、あなたのことを誤解しておりましたわ」侯爵夫人の声は柔らかかった。「殿方の寵を独り占めする、浅はかな娘だとばかり」
「わたくしも、至らぬ身にございます」セリカの声が答えた。「殿下のお側におれることだけが、今の望みですから」
「その献身、しかと見届けましたとも」侯爵夫人は続けた。「もう、誰もあなたを疑いはしませんわ」
扉越しに聞こえたやり取りに、アルヴィスは瞼を閉じたまま耳を澄ませていた。
扉の外で、また別の人の気配がした。
「入ってもよいか」低い声がした。国王だった。
セリカが立ち上がり、深く頭を下げた。
「陛下」
国王はしばらく寝台の傍らに立ち、アルヴィスの顔色を検めた。それから、傍らのセリカへ目を向けた。
「そなたが、毎晩ここに詰めていると聞いた」
「殿下のことが、案じられてなりませんの」セリカは睫毛を伏せた。「他に、できることがございませんから」
国王は小さく頷いた。
「よくやってくれている」国王の声に、これまでにない温度があった。「王太子妃の座が空いたままでは、示しがつかん」
アルヴィスは目だけを動かして父を見た。
「セリカを、正式に迎える支度を進める」国王は続けた。「反対していた者たちも、この様子を見れば得心するだろう」
セリカは驚いたように顔を上げ、それから頬を染めて俯いた。
「わたくしなどが、そのような」
「謙遜はいい」国王はセリカの肩へ手を置いた。「これほどの献身を、誰が疑うものか」
その場に立ち会った侍従長までもが、深く頭を下げていた。数月前まで、素性の定かでない令嬢と眉をひそめていた男だった。
「殿下のお側に侍って、もうひと月あまりになります」侍従長は声を落とした。「これほどのお方は、そういらっしゃいません」
国王はその一言に満足げに頷き、房を出ていった。
残されたのは、アルヴィスとセリカの二人だけだった。
セリカはもう一度、匙を手に取った。
「殿下」セリカの声は、変わらず柔らかかった。「もう少し、召し上がってくださいませ」
アルヴィスは匙を受けながら、ふと別の顔を思い浮かべた。
あの、毒見の女。そういえば、名を呼んでやったことすら一度もなかった。
こんな風に匙を寄せる女ではなかった。ただ黙って器を検め、黙って下がっていくだけだった。
器を差し出すあの女の指先は、いつも荒れて赤黒く罅割れていた。手袋もつけずに何をしているのかと、ついぞ問うたことがなかった。
去り際に一度だけ「ご無事で」と洩らした声を、なぜ今になって思い出すのか分からない。
あの頃、こんな重さを感じたことはなかった。それが何を守っていたのか、今になって考える。
考えたところで、答えは出ない。
匙が唇に触れ、鉄の味がまた広がった。
紙の縁に、微かな樹脂の匂いが残っていた。
指先でなぞると、匂いの下にもう一つ、乾いた土の香りが沈んでいた。
関所の荷改め帳に押された判の、滲んだ朱だった。
薬院の一室に、テオが分厚い帳面を運び込んだ。
「関所の荷改め帳が、ようやく借りられた」テオは帳面を卓に広げた。「例の商会が通した荷を、全部洗った」
オリヴィアは頁を繰る手を止めた。判の形、朱の色。三日前に押収した瓶の符牒と、寸分違わず重なっている。
「この判は」オリヴィアは滲んだ朱へ指を這わせた。
「国境の、荷改め所の印だ」テオが指で示した。「向こう側の関所を通した荷にだけ押される」
見覚えのない印だった。だが押された場所も朱の色も、押収した瓶の符牒とそっくり同じだ。
「向こう側、というと」
「アルデニア領の、東の関所だ」テオは声を落とした。「符牒の荷は、みな一度そこを通っている」
アルデニア。
その名を耳にした瞬間、指先の震えを抑えることができなかった。
自分が七年を過ごした国の名だった。
ハルダが老眼鏡を押し上げ、帳面を覗き込んだ。
「間違いないよ」ハルダは判を指でなぞった。「同じ手が、同じ関所を使い続けている」
「では」オリヴィアは声を絞った。「型を仕込む場所は」
「そこまでは、分からない」ハルダは眉を寄せた。「だが、荷の出入りだけは確かだ」
「商会の主は」オリヴィアは尋ねた。「話を聞けないのですか」
「消えた」テオは紙束を指した。「三日前、店ごと畳んで姿を消している」
「口を割らせる前に」
「向こうも、そこは心得ているということだ」テオは肩をすくめた。「尻尾を切るのが、慣れた手口なんだろう」
戸口にユリウスが立っていた。
「聞こえた」ユリウスは帳面へ歩み寄った。「アルデニアの関所だと」
「はい」オリヴィアは判を指した。「符牒の荷は、みなそこを通っています」
「四件の毒も、七年前のあの記録も」ユリウスは低く言った。「すべて、同じ出所へ繋がるわけか」
「閣下」オリヴィアは顔を上げた。「本国の、どこかから糸が伸びているのだと思います」
——出ています。毎朝。あなたの器の底に。
七年前、自分がそう告げたのは、目の前の器だけのことだと思っていた。だが今、器の底に流れ込んでいたものの源は、遠い国境の向こうにまで根を張っていたことになる。
足元が、ゆっくりと崩れていくような心地がした。
「顧問殿」ユリウスの声が、彼女の顔色に気づいて硬くなった。「大丈夫か」
「存じております」オリヴィアは小さく息を吐いた。「本国に、糸が届いているというだけで」
「それだけで、済む話ではない」ユリウスは帳面を閉じた。「だが、今分かっているのはそこまでだ」
「誰の手かは」
「まだ、見えていない」ユリウスは彼女を見た。「先走れば、糸そのものを見失う」
テオが咳払いをして、帳面の端を指した。
「関所を抜けた先の荷は、どこへ運ばれたかまでは追えていない」テオは言葉を継いだ。「記録は、関所止まりだ」
「本国に入ってからの足取りは」
「途絶えている」テオは帳面に目を落とした。「向こうの記録までは、こちらの手が届かない」
「本国の当局へ、報せるべきでは」テオが言った。「向こうの手で、追ってもらえれば早い」
「今は、まだ早い」ユリウスは短く言った。「下手に動けば、向こうに勘づかれる」
「勘づかれる、とは」
「型を仕込む者は、七年も気づかれず動いてきた相手だ」ユリウスは声を落とした。「こちらの動きが漏れれば、また尻尾を切られるだけだ」
「向こうに、誰か知った顔でも」ハルダが眼鏡越しに彼女を見た。「あんたなら、心当たりがあるんじゃないのかい」
「分かりません」オリヴィアは首を振った。「七年、宮廷の外を知らずに過ごしておりましたから」
だが、と続けかけた言葉を、オリヴィアは飲み込んだ。
あの城のどこかに、この型を知る者がいる。それだけは、疑いようがなかった。
七年過ごした王城には、見知った顔がいくつもある。侍女頭、宮廷医、居並ぶ貴族たち。そのどの顔にも、型を教え込まれた影があるようには見えなかった。
だが、見えなかっただけかもしれない。自分がずっと、そうであったように。
誰なのかは、まだ像を結ばない。
「顧問殿」ユリウスが低く問うた。「今、思いつく名はあるか」
「ございません」オリヴィアは目を伏せた。「城を出てから、七年前の顔ぶれさえ朧げです」
「それでいい」ユリウスは彼女を見た。「今は、思い込みで一人を疑う方が危うい」
「その代わり、関所の役人は私が当たる」ユリウスは帳面の判へ目を落とした。「向こうに気取られぬ筋から、荷の行き先を手繰ってみる」
「今夜は、これ以上進めない」ユリウスは帳面を布に包んだ。「関所の記録は、明日もう一度洗い直す」
「はい」
テオとハルダが房を出ていくと、あとには紙とインクの匂いだけが残った。
オリヴィアは帳面へ視線を戻した。
最後の頁、荷の受け取り主を記す欄があった。
そこだけ、何も書かれていない。
名を記すはずの場所に、ただ余白だけが広がっている。
糸は確かに、本国アルデニアへ届いている。
だが、その先で誰の手がそれを引いているのかは、この帳面のどこにも記されていなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は本国と隣国、二つの場面を同時に進めました。本国では、衰弱するアルヴィスのそばでセリカがますます存在感を増していきます。国王までもが彼女の献身を疑わず、王太子妃の座へ手が届きかけるところまで書きました。アルヴィスが匙を受けながらふとオリヴィアを思い出す場面は、失って初めて気づく重みを静かに滲ませたいと思って書いた一節です。
隣国側では、これまで「国境の向こう」としか言えなかった荷の出所が、ついに「本国アルデニア」だとはっきり分かる回にしました。オリヴィアにとって、それは七年を過ごした故郷の名でもあります。糸がどこへ届いているかが分かった今、次に知りたくなるのは当然「誰の手が引いているのか」ですが、そこはユリウスの言う通り、まだ何も見えていません。帳面の最後に残った空白の欄が、今回いちばん書きたかった「まだ分からない」の手触りです。
本国の誰かが、今も糸を引いているのかもしれない——そう思うと落ち着かない気持ちになりますが、その正体が明らかになる日まで、どうかもう少しお付き合いいただけたら嬉しいです。
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