第22話: 帰る理由
温めた葡萄酒の匂いが、鼻先をくすぐった。
差し出された杯を、指先で押しとどめる仕草が先に出た。
舌の上で毒を測る癖が、まだ抜けていない。
「顧問殿は、毒見の顔をしている」ハルダが眼鏡の奥で笑った。「今宵ばかりは、味わうだけでいい」
言われて初めて、杯を持つ手から力が抜けた。
宮付き薬院の広間には、灯りが増やされていた。壁際の卓には見慣れぬ皿が並び、薬種の匂いの代わりに焼いた肉と蜜の香りが漂っている。
隅の卓では、若い薬師見習いたちも杯を傾けていた。数ヶ月前まで、この広間に自分の席があるとは思っていなかった。
テオが上座から戻ってきて、卓の端に腰を下ろした。
「例の商会の主、捕らえたぞ」テオは杯を掲げた。「国境の外れの村に隠れていた」
「見つかったのは」オリヴィアは尋ねた。
「関所の判が、決め手になった」テオは笑った。「同じ判の押された荷を、隠れ家まで一つずつ辿った」
「口は」
「割った」テオは頷いた。「型を仕込んでいたのは、奴の裏の作業場だ。もう毒は出回らない」
「出所までは」
「国境の向こうから届く荷を、指図された通りに混ぜていただけだそうだ」テオは声を落とした。「誰の指図かまでは、奴も知らないと言っている」
知らないという言葉に、小さな落胆とわずかな安堵が同時に差した。
この都で人を屠っていた手は、ひとまず止まった。だが糸の先にある顔は、まだ見えないままだった。
「腰を折られた工房は、そう容易くは立て直せないよ」ハルダが杯を回しながら呟いた。「今夜だけは、それでよしとしようじゃないか」
「ともあれ」ハルダは杯を打ち合わせた。「あんたが来てから続いた格闘に、これでけりがついたわけだ」
広間の奥から、宰相府の書記官が歩み出た。
「メリディア公国は、オリヴィアを正式に宮廷医顧問の任へ迎える」書記官は羊皮紙を掲げた。「以後は身分によらず、働きのみでその地位を保証する」
拍手が広間を満たした。
あの城では、誰も名を呼ばなかった。毒見の女、それで七年通っていた。
今宵は違う。オリヴィア、とただその名だけで呼ばれた響きに、まだ慣れずにいる。
オリヴィアは椅子から立ち上がりかけ、どう振る舞えばいいのか分からず、結局中途半端に礼をした。
誰かに見られることに、慣れていなかった。
七年、見られないことこそが役目だった。今は逆に、見られることが役目になっている。
その落差に、まだ足元が定まらない。
ハルダが杯を差し出してきた。
「これで肩の荷が下りた、なんて顔をするんじゃないよ」ハルダは目を細めた。「これからも、うちの薬院で好きに腕を振るえばいい」
「はい」
「ここは、あんたの働きを飾りとは呼ばない」ハルダは杯を軽く合わせた。「それだけは、忘れるんじゃないよ」
その一言が、これまでのどんな拍手よりも深く胸に落ちた。
テオが席を立ちながら、片手を挙げた。
「明日からは、少しは眠れるな」テオはにやりとした。「顧問殿の根が詰まった顔、もう見飽きた」
軽口に紛れた気遣いだと分かった。
広間を出ていく二人の背を見送りながら、オリヴィアは杯の底に残った蜜の香りを、もう一度確かめた。
毒ではない。ただ、甘いだけの味だった。
夜更けの回廊には、燭台の火影だけが揺れていた。
燭台を手にしたユリウスが、書庫の戸口で足を止めた。
「まだ、起きていたのか」
「少し、頭を冷やしておりました」オリヴィアは燭台の灯りへ目を落とした。「杯を過ごしたわけでもないのに」
「祝いの席は、性に合わないか」
「合わないわけでは」オリヴィアは言葉を選んだ。「慣れていないだけです」
ユリウスは燭台を卓に置き、向かいの椅子に腰を下ろした。
「今日の書記官の言葉、聞いていたか」ユリウスは燭台の火へ目をやった。「身分によらず、働きのみで地位を保証すると」
「はい」
「この国は、もう君を手放さない」ユリウスは彼女を見た。「そのつもりで、あの一文を書かせた」
その言葉に、七年間誰からも向けられたことのない温度があった。
だからこそ、今から告げる言葉が重くなる。
「閣下」オリヴィアは膝の上で手を組んだ。「本国へ、戻ろうと思います」
燭台の炎が、ふっと傾いだ。
「理由を、聞いてもいいか」
「殿下が、まだ狙われているかもしれません」オリヴィアは声を落とした。「七年の毒が、誰の手だったのか。この目で確かめたいのです」
「ここにいれば、安全だ」ユリウスは短く言った。「地位も居場所も、もう揺るがない」
「存じております」
「それでも、戻ると」
「はい」
ユリウスは黙って彼女を見つめた。責める色ではなかった。ただ、確かめる目だった。
「国境の湧き水の場で、初めて君を見た日を覚えている」ユリウスはやがて口を開いた。「毒草を止めた指先が、荒れているのに迷いがなかった」
「あの日、木札一枚をいただきました」
「あの札一枚で、君はここまで来た」ユリウスは言葉を継いだ。「今度は、何を頼りに国境を越えるつもりだ」
「七年、殿下のお側にいられたのは役に立てる間だけだと思っておりました」オリヴィアは声を落とした。「用がなくなれば、いつ捨てられてもおかしくないと」
「今も、同じ思いで戻るのか」
「いいえ」オリヴィアは首を振った。「今度は、誰に望まれずとも行きたいと思ったのです」
言ってしまってから、その一言がどれほど自分を軽くしたか気づいた。
役目のためでも、必要とされるためでもない。ただ、自分がそうしたいから。七年かけても知らなかった動き方だった。
——今朝も、問題はございませんでした。
七年、毎朝同じ言葉を差し出してきた。今度その言葉を口にするなら、それは役目のためではなく、確かめたい自分のためだ。
「その顔は」ユリウスは目元をゆるめた。「もう、迷いがないな」
「はい」
「なら、私が止める理由はない」ユリウスは椅子から立った。「支度だけは、こちらで整えさせてくれ」
「宰相府の名で動けば、かえって目につく」ユリウスは首を振った。「だが、身ひとつで放り出すつもりもない」
「では」
「炭の粉と、灰塵に効く薬種を持たせる」ユリウスは卓の抽斗を開けた。「それから、もう一つ」
卓に置かれたのは、小さな包みだった。
開くと、銀色の匙が一本、布の上で鈍く光っていた。
「顧問拝命の証として、公から下賜されたものだ」ユリウスは匙を示した。「本来は式典で渡す決まりだが」
「今、いただいてよろしいのですか」
「君が持って出るには、ちょうどいい頃合いだろう」ユリウスは彼女を見た。「毒を検めるためではない。ただ、この国が君を認めた証として持っていきなさい」
銀の匙の重みが、思いのほか手にずしりと来た。
「閣下」オリヴィアは匙を包み直しながら、顔を上げた。「戻れば、もう二度とこの国へ来られないかもしれません」
「それは違う」ユリウスは即座に言った。「ここは、君が捨てた場所ではない。君が選んで得た場所だ」
「……はい」
「行っておいで」ユリウスは彼女を見つめた。「確かめたいものを、確かめてくるといい。この国の椅子は、そのままにしておく」
その言葉に、これまで胸の奥にだけ収めていた呼び名が、思わず口をついて出た。
「……ユリウス様」
言ってしまってから、頬にほのかな熱を覚えた。
ユリウスは束の間目を見開き、それからふっと笑んだ。
「その呼び方は」ユリウスは目を細めた。「悪くない」
朝靄の残る中庭で、旅装を整えた馬車が待っていた。
城を追われた朝は、荷といえば灰塵の瓶と着の身着のままの外套だけだった。あの時は、誰にも見送られなかった。
荷を確かめながら、オリヴィアは道具袋の内側に、小さな包みをそっと収めた。
開けば、銀の匙と、白い鳥の木札が並んで収まっている。
木札は、国境の湧き水の場で受け取ったものだった。あの日、この札一枚だけを頼りに、知らぬ国の扉をくぐった。
匙は、この国が働きだけを見て渡してくれたものだった。
入り口をくぐらせた札と居場所を認めた匙が、今は同じ布の内側で触れ合っている。
「忘れ物は、ないんだろうね」ハルダが杖を突きながら歩み寄った。「炭の粉、足りなくなったら文をお寄越し」
「はい」
「小僧が向こうで何をしていようが、あんたが謝ることじゃないよ」ハルダは眼鏡越しに彼女を見た。「確かめたら、さっさと戻ってくるんだ」
「肝に銘じます」
テオが荷の縛りを検めながら、片方の口の端だけ上げた。
「土産は、こっちの薬種でいい」テオは言った。「向こうの厄介事は、いらない」
その言い草に、思わず頬が緩んだ。
道具袋の口を閉じ、オリヴィアは馬車に乗り込んだ。
窓の外に、ハルダとテオ、そしてユリウスの姿があった。
誰も、引き止める言葉は口にしなかった。
馬車が動き出すと、窓越しにユリウスと目が合った。彼は小さく頷いただけだった。
道具袋の中で、木札と匙が硬い音を立てて触れ合った。
その音を聞きながら、オリヴィアは本国アルデニアへ続く街道へ目を向けた。
あの城のどこかで、今も見えない手が毒を練り続けている。その顔を知らぬまま、彼女は故国へ帰っていく。
道具袋の底で、銀の匙がひやりと冷たかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回で隣国編、全ての幕を閉じます。連続毒殺事件は現地の手だけを断つところまでで一区切りとし、糸の先にある本当の顔はまだ見せていません。その代わり、オリヴィアがメリディアで「見られないことでなく、見られることを役目にする」立場を得るところまでを、はっきり書きたいと思いました。
今回の核は「帰る理由」です。彼女には、もう安全な居場所があります。それでも本国へ戻るのは、殿下がまだ狙われているかもしれないという胸騒ぎと、七年間知らずに背負っていた毒の真相を、自分の目で確かめたいという思いからです。「役に立てる間だけそばにいられる」という七年の縛りを、彼女自身の言葉で少しだけ裏返せたなら嬉しいです。ユリウスが引き止めず、匙を持たせて送り出す場面も、彼らしい不器用な誠実さとして書きました。
次回からは、いよいよ王都崩壊編です。オリヴィアが本国で何を目にするのか、見届けていただけたら嬉しいです。
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