第23話: 帰還
石畳を踏む足の裏に、覚えのない硬さがあった。
鼻先を掠めたのは、蝋の匂いと、乾いた薬草の匂いだった。
七年を過ごしたこの城は、こんな匂いはしていなかった。
メリディア公国の使節団が王都フェルンの城門をくぐったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
大通りの旗は、色褪せたまま掛け替えられていない。
露店の呼び声にも、覚えのある威勢はなかった。
「今日も、お城の方はよくないらしいよ」通りすがりの女が隣の女に囁いた。「もう幾月も、寝台から起き上がれないとか」
「口にするもんじゃないよ」隣の女がたしなめた。「壁に耳ありって言うだろう」
「けど、あのべっぴんの令嬢さまが付いてなさるからね」最初の女は声を潜めた。「あのお方がいなけりゃ、とっくにって話さ」
道行く人々は、王太子の名を出すとき、決まって声を落とした。
随員の列に紛れて馬車を降りながら、オリヴィアはその声の低さを聞き取っていた。
薬事に明るい随員、というのが今の自分の肩書きだった。
国境で落ち合った使節団に紛れ込ませる。宰相府の名で送ればかえって人目を引くと、あらかじめユリウスが手配していた形だった。
誰もその名までは尋ねてこない。
「顧問殿は、随員という扱いで構わないか」馬車の中でドナル卿が尋ねた。「名は伏せたままにする」
「はい」オリヴィアは表情を変えずに答えた。「薬事に明るい随員、それで十分です」
「宰相閣下からは深くは聞いていない」ドナル卿は窓の外へ目をやった。「だが事情はおおよそ察している」
オリヴィアは答えず、窓の外に広がる見覚えのある街並みへ目を向けた。
使節団の馬車は、正門を避けて裏手の通用門へ回った。
閂は、記憶にあるものより一回り大きく重かった。
——あれは、まだ半年と経たない、あの初夏のことだった。
同じ門を、たった一人でくぐった朝がある。
荷は、毒見役の証を返した後の身ひとつだけだった。
誰も見送らず、誰も呼び止めなかった。
閂の軋む音に、記憶の中の足音が重なって、やがて溶けて消えた。
謁見の間に通されたのは、日が傾き始めた頃だった。
玉座には、王がいた。
「メリディアの使節、大儀である」王の声には、以前ほどの張りがなかった。
使節団長のドナル卿が進み出て、一礼した。
「此度は、両国の交誼を新たにするため参上いたしました」ドナル卿は羊皮紙を掲げた。「殿下のご療養にと、薬種をお持ちしております」
「厚意、痛み入る」王は頷いた。「近頃は、客人を迎える余裕すらこの宮廷になかったものでな」
王の視線が、傍らのセリカへ流れた。
「セリカがいなければ、この宮廷はとうに立ち行かなかった」王は言った。「息子の看病から客人への気配りまで、あの娘一人が支えている」
「陛下のお言葉、身に余ります」セリカは睫毛を伏せた。「わたくしは、ただできることをしているだけですのに」
周囲の廷臣たちが、その謙遜に小さくどよめいた。
「殿下」王はアルヴィスへ目を向けた。「客人に、一言」
玉座の脇に、痩せた人影があった。
王太子アルヴィスだった。
金色だった髪は艶を失い、額に張りついている。
碧眼は落ち窪み、頬骨が薄い皮膚を押し上げていた。
オリヴィアは随員の列の端で、その姿から目を離せずにいた。
「アルデニア王家を代表し」アルヴィスの声は掠れていた。「両国の変わらぬ誼を歓迎する。薬種の厚意、痛み入る」
言葉の途中で、彼は小さく咳き込んだ。
「殿下は、まだお加減が優れませんの」セリカが進み出て、彼の肩にそっと手を添えた。「あとは、わたくしが」
セリカの声は柔らかかった。
周囲の侍従たちの目が、王太子ではなく、その手の主へ集まっていた。
寵愛の令嬢が、いつしか宮廷そのものを支えているように見えた。
薬種の箱を捧げ持って進み出る段になり、オリヴィアは一歩、玉座の前へ出た。
箱を差し出した拍子に、指先がわずかに触れた。
アルヴィスの目が、一瞬だけその指先に留まった。
荒れて赤黒い、その指を。
痩せた手が何かを掴もうとするように半ばまで持ち上がり、そこで止まった。
彼は喉の奥で何か言いかけ、それを小さな咳に紛らせて視線を逸らした。
「……下がってよい」
誰の名も呼ばれることなく、オリヴィアは列へ戻った。
「殿下のために、これほどのものを」セリカが箱を覗き込み、声を弾ませた。「メリディアの方々には、なんとお礼を申し上げればよいか」
「お役に立てば」ドナル卿が答えた。「何よりです」
「必ず、お役に立てます」セリカは箱へ手を添えた。「わたくしが、責任を持って殿下にお渡ししますから」
その一言に、廷臣たちの顔がまた綻んだ。
控えの間へ下がる道すがら、回廊の陰から声が漏れてきた。
「あのお方がいなければ、殿下はとうに」侍女の一人がひそめた声で言った。「もっていらっしゃれなかったでしょうね」
「陛下も、すっかり心をお許しだもの」もう一人が答えた。「王太子妃のお話も、時間の問題だと専らの噂よ」
オリヴィアは足を止めず、そのまま通り過ぎた。
かつて恋敵と見ていた娘が、今は宮廷の実権を握っている。ただそれだけの話だった。
燭台を運ぶ背中に、見覚えがあった。
侍女頭だった。
「……オリヴィアさま」侍女頭は燭台を取り落としかけた。「本当に、あなたさまなのですか」
「お久しぶりです」オリヴィアは声を潜めた。「今は、名乗れる立場ではありませんが」
侍女頭は廊下の先を確かめてから、声をさらに落とした。
「殿下のご病状は、変わりません」侍女頭は言った。「宮廷医が三人がかりでも、病の名すら分からぬままです」
「セリカ様は」
その名を出すと、侍女頭は燭台を一度持ち直した。
「この数月、片時もお側を離れず尽くしておられます」侍女頭は目を伏せた。「陛下も、すっかりお心を許しておいでです」
まず知りたいのは、かつての顔ぶれが今どれだけ残っているかだった。
「侍女は、当時のままですか」
「幾人か、入れ替わりました」侍女頭は少し口ごもった。「セリカ様のお声がかりで、新しい顔ぶれが増えています」
その一言に、見知った目がこの宮廷にどれだけ残っているのか見当もつかなくなった。
「厨房は」
「そこは、あまり変わっていません」侍女頭の声が、そこで少しだけ緩んだ。「古株の料理番が、今も鍋を任されています」
「宮廷医の三人は」
「当時のまま、お残りです」侍女頭は肩を落とした。「ただ、もう誰も匙を投げかけております。首を捻るばかりで、陰ではお手上げだと零しておいでで」
鍋を任される古株の顔ぶれ、それだけは変わっていない。
そこに、まだ手掛かりが残っているかもしれない。
「危ういことは、なさいませんように」侍女頭はオリヴィアの手を取った。「あなたさまが城を出た日、何も言えなかった自分を悔いております」
「あの日、十分すぎるほど託していただきました」オリヴィアは首を振った。「託された役目を、確かめに戻って参りました」
「危ないことになったら」侍女頭は声を強張らせた。「どうか、私を頼ってください」
「はい」オリヴィアは頷いた。「その時は、必ず」
「あなたが今もこの城にいてくださる」オリヴィアは彼女の手を握り返した。「それだけで、心強く思います」
侍女頭は何かを問い返そうとして、結局黙って頭を下げた。
燭台の火を揺らしながら、彼女は廊下の向こうへ去っていった。
与えられた客間で旅装を解いていると、戸口にドナル卿が姿を見せた。
「滞在は、十日と定められている」ドナル卿は言った。「その間に交渉をまとめる手筈だ」
「十日、ですか」
「短いと思うか」ドナル卿はオリヴィアを見た。「宰相閣下は、それで十分だろうと仰っていた」
「いいえ」オリヴィアは首を振った。「十分すぎるほどです」
「交渉の間、随員は調薬の間や台所にも出入りを許される」ドナル卿は続けた。「療養の薬を届ける役目だからな」
「ただし、どこへ行くにも宮廷の侍従が付く」ドナル卿は声を落とした。「単身での探索は、無理と思え」
「承知しております」オリヴィアは頷いた。「決して、無理はいたしません」
「深くは聞かない」ドナル卿はオリヴィアを見た。「ただ、十日で片をつけてくれ」
ドナル卿は軽く一礼し、戸口を離れていった。
与えられた客間は、使節の随員に宛がわれた最も質素な一室だった。
窓の外には、庭木の影が黒く伸びている。
道具袋を解くと、炭の粉の乾いた匂いが、ふわりと立ちのぼった。
あの朝この城を出たときには、荷にこんな匂いさえ入っていなかった。
卓に炭の粉の包みを並べながら、オリヴィアは今日見たものを頭の中で並べ直した。
衰弱していく王太子。
その傍らで、実権を静かに束ねていく令嬢。
病の名を誰も言い当てられない宮廷。
——出ています。毎朝。あなたの器の底に。
七年前、自分がそう告げた相手は、今もまだ同じ器を前にしている。
七年のあいだ、自分は毎朝その器をすり替え、毒を代わりに飲み干してきた。だから殿下は生きてこられた。
あの朝それをやめた瞬間から、毒はまっすぐ殿下の体へ流れ込み始めたのだ。
告発すれば手口を変えられると恐れて沈黙を選んだあの朝から、何一つ終わっていなかった。
誰が今も糸を引いているのかは、まだ見えない。
だが、見えないままにしておく理由も、もうなかった。
気づかれなくていい。ただ、確かめたいだけだ。
ふいに、あの声が耳の奥で蘇った。
——確かめたいものを、確かめてくるといい。
国境を越える前に、ユリウスがくれた言葉だった。
厨房に近づく機会を作ること。
調薬の間に出入りする者の顔を覚えること。
七年前と同じ型が今も繰り返されているかどうか、この目で見定めること。
やるべきことは、そう多くない。
だが、そのどれもが、一人で進めるしかない道だった。
与えられた猶予は、十日しかない。
外庭の向こう、正門の閂が下ろされる音がした。
鈍い金属の音が、闇を一度だけ叩いて消えた。
あの初夏、同じ音を背に、この城を出た朝があった。
今夜は、その音を城の内側で聞いている。
閉ざされたのは外ではなく、自分のいる側だった。
閂は、確かな重みをもって下りきった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
王都崩壊編、開幕です。オリヴィアが隣国で得た地位も居場所も一度置いて、追われた故国へ戻る回でした。同じ城門を、かつては一人で出て、今回は使節の列に紛れて戻ってくる——その対比を、なるべく静かに書きたいと思いました。
帰るという言葉は、本来なら安堵を連れてくるはずです。ですが彼女にとっての帰還は、安心とはほど遠いものです。変わり果てた殿下の姿、実権を握りつつあるセリカ様、誰も名を知らないまま列に紛れる自分。書いていて、望郷というより「確かめに行く」緊張のほうが強く出た気がします。
殿下の目が一瞬だけ彼女の指先に留まる場面は、書いていて自分でも少し切なくなりました。気づきかけて、気づかないまま逸れていく——このすれ違いは、もう少し長く続きそうです。宮廷で何が起きているのか、私自身も先を書きながら確かめていきたいと思います。
☆評価・ブックマーク・感想が、続きを書く大きな励みになります。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。




