第24話: まだ盛られている
薬草を煮出す湯気に、ひとさじの苦みが混じっていた。
立ちのぼる匂いの底に、うっすらと焦げた蜜の甘さが差す。
舌に乗せずとも判じられる自分に、オリヴィアは少し驚いた。
使節団が城に入って、二日目の朝だった。
調薬の間の卓には、隣国から運ばれた薬包が並んでいた。
壁一面の棚には、見覚えのある陶壺が整然と並んでいる。
七年前、毎朝ここへ来て中身を確かめていた棚だった。
棚の並びも、壺の形も、当時のまま変わっていない。
案内の侍従が、戸口に立ったまま動かない。
「随員殿は、薬包を検めるだけと聞いている」侍従は言った。「棚には触れぬように」
「承知しております」オリヴィアは頷いた。「殿下のお薬を、正しくお届けするためだけに」
「十日のうちに、片をつける約束と伺っている」侍従は続けた。「余計な詮索は、困る」
「詮索のつもりはございません」オリヴィアは答えた。「役目に必要な分だけを」
棚の記録板には、使用量が几帳面に書き付けられていた。
だが壺の中身は、記録の目盛りより明らかに減っている。
誰かが記録に載らない分だけ、何かをすくい出している。
棚に指を伸ばしかけ、オリヴィアは寸前で止めた。
「触れるな、と申し上げたはずだが」侍従が一歩踏み出した。
「失礼いたしました」オリヴィアは手を引いた。「埃を払おうとしただけです」
「次に触れれば、上へ報せる」侍従は低く言った。「そう思っておけ」
侍従の目に、疑いの色が残ったままだった。
そこへ、白い外套の男が戸口をくぐってきた。
「ああ、隣国の随員殿か」男は言った。「私は宮廷医のひとりだ」
「お見知りおきを」オリヴィアは頭を下げた。「薬事に明るい随員でございます」
「殿下の薬種のことなら、私にも聞いてくれていい」宮廷医は疲れた声で続けた。「もっとも、聞かれても答えようがないのだがな」
「症状は」
「毎朝、血を吐かれる」宮廷医は首を振った。「舌の奥が痺れると、ご本人が仰る日もある」
舌の奥の痺れ、という言葉に、記憶が跳ねた。
七年前、幼い彼が同じ言葉で不調を訴えていたことを思い出す。
「他には」
「胃の腑に、砂を飲んだような重さがあるらしい」宮廷医は肩を落とした。「原因は、未だに分からぬままだ」
「毒の線は、疑われましたか」オリヴィアは尋ねた。
「無論、真っ先にな」宮廷医は苦い顔をした。「だが毒見役が廃されてから、器を検める者がいない。証の立てようがないのだ」
「試された治療は」
「三人がかりで、あらゆる手を尽くした」宮廷医は指を折った。「石を当てても薬を変えても、効かない」
砂を飲んだような重さ、その言い回しにも覚えがあった。
灰塵の症状そのものだった。
効かないのも当然だった。原因を絶たぬまま、症状だけ抑えようとしている。
「お役に立てず、申し訳ない」宮廷医はオリヴィアに一礼して去っていった。
薬棚の壺と、記録の目盛りの差。
舌の痺れと、砂の重さという症状。
どちらも、七年前に見たものと少しも違わなかった。
調薬の間を出ると、日はまだ高いところにあった。
与えられた猶予は十日、そのうちまだ二日目に過ぎない。
厨房に近づくと、煮汁の匂いに炒った麦の香ばしさが混ざっていた。
鍋を振る曲がった背中に、記憶が重なった。
「……あんた」老いた料理番が、鍋を置く手を止めた。「まさか、戻ってきたのか」
「お久しぶりです」オリヴィアは声を抑えて答えた。「今は、随員という立場ですが」
「随員が、なんで厨房を覗く」料理番は探るように目を細めた。
「殿下のお薬に、食事の相性を確かめる役目です」オリヴィアは答えた。「差し支えなければ、少し伺いたく」
背後の侍従は、竈の熱気を嫌ってか、戸口の風通しのよい場所まで退いていた。
鍋の音と湯気に紛れれば、低い声までは届くまい。それだけでもありがたかった。
「殿下の膳は、今も変わらず私が」料理番は鍋に向き直った。「材料も味付けも、あの頃のままだ」
「昔、夜遅くに炭の粉を分けていただいたことがありました」オリヴィアは言った。「あの頃から、鍋の火加減は変わっておられません」
「あんたが何に使っていたか、俺は聞かなかった」料理番は鍋をかき混ぜた。「聞かない方が、互いのためだと思っていたからな」
「膳を運ぶのは」
「給仕の娘たちだ」料理番は答えた。「厨房を出た後のことは、俺の預かりじゃない」
厨房を出た後、それが問題の在り処だった。
「運ぶ途中、盆に触れる者は」
「セリカ様のお声がかりで入った侍女が、途中で一度預かる決まりになった」料理番は忌々しげに言った。「毒見役がいなくなってからは、確かめる者もいない」
「その侍女は、厨房にも」
「入らせん」料理番は鍋の縁を木杓子で叩いた。「盆を渡すのは廊下でだ。厨房の中までは、誰にも触らせやしない」
「それは、いつからの決まりですか」
「あんたが城を出て、ひと月と経たないうちだ」料理番は答えた。「新しい侍女が来て、そこから盆を預かる役ができた」
城を出てひと月足らず、すぐにその決まりができていた。
誰かが空いた穴を見つけ、すぐさま埋めたということだった。
「その侍女の顔は」
「日替わりで変わる」料理番は肩をすくめた。「セリカ様の采配で、いつも別の顔が来る」
日替わりで変わる顔、それでは的が絞れない。
「危ないことは、するなよ」料理番は鍋に向き直りながら言った。「あんたが城を出た日、俺は何も言わずに見送っちまった」
「あの日、十分に伝えていただきました」オリヴィアは目を伏せた。「鍋の火加減まで、変わらぬままでいてくださっただけで十分です」
料理番は何か言いかけて、結局黙って鍋をかき回した。
与えられた薬包を運ぶ役目は、侍従の目の前でのみ許された。
王太子の居室の扉をくぐると、乾いた血の匂いが鼻を突いた。
寝台の傍らに、痩せた影があった。
アルヴィスは、脇の水差しへ震える手を伸ばしていた。
金色だった髪は艶を失い、額に幾筋も張りついている。
「お薬を、お持ちいたしました」オリヴィアは頭を下げ、卓に薬包を置いた。
彼の目が、一瞬だけこちらへ向いた。
「……お前、また来たのか」アルヴィスは掠れた声で言った。「毒見の女」
その呼び名に、胸の奥が一度だけ強く鳴った。
「隣国の随員でございます」オリヴィアは表情を変えずに答えた。「お薬をお届けに上がりました」
「薬など」アルヴィスは乾いた笑いを漏らした。「もう、何を飲んでも同じだ」
「……前は、こんなにはならなかった」彼は水差しから目を逸らし、独り言のように呟いた。
「お苦しみは、いつ頃からでしょう」オリヴィアは膝をついたまま尋ねた。
「さあな」アルヴィスは天井へ目をやった。「ある朝、目が覚めたら喉が焼けていた。それだけだ」
何と比べての「前」なのか、彼自身は分かっていない様子だった。
言葉の途中で、彼は胸を押さえて咳き込んだ。
喉の奥から、赤黒いものが零れた。
オリヴィアは膝をつき、口元に布を差し出した。
しばらく、誰も動かなかった。
咳の余韻が収まるまで、オリヴィアはただ布を支え続けた。
拭った布の色に、思わず息を詰めた。
鮮やかな赤ではなく、黒みを帯びた赤。
七年前、中和し損ねた朝に見た色と、同じだった。
「殿下」戸口から声がした。「わたくしが、代わりますわ」
セリカだった。
彼女は駆け寄り、アルヴィスの背をさすった。
「殿下、もう少しの辛抱ですわ」セリカはアルヴィスの額の汗を拭った。「わたくしがついておりますから」
「もう下がってくださいな」セリカはオリヴィアへ目を向けた。「あとは、わたくしがいたしますから」
「承知いたしました。あとを、お願いいたします」オリヴィアは礼をして、下がりかけた。
下がりぎわ、オリヴィアは空いた杯を盆へ下げた。給仕なら誰もがする、何気ない手つきだった。
その指先が、杯の縁をひとなでする。
二人の目は、咳き込むアルヴィスへ向いたままだった。
縁に張りついた薄い膜が、指の腹にわずかに移った。
オリヴィアは何食わぬ顔で盆を戻し、そのまま一礼して部屋を出た。
与えられた客間に戻り、オリヴィアは戸を閉めた。
指の腹に移した膜を、白い布へそっと擦りつける。
鼻先へ寄せると、古釘に似た乾いた金気が立った。
灰塵——七年のあいだ、殿下の器から拭い続けた、あの遅効性の毒だ。
七年前、同じ滓を毎朝すくい取っていた自分がいた。
あの頃、誰に問われても答えは決まっていた。
——今朝も、問題はございませんでした。
その一言を、もう何年も口にしていない。
今日この城で同じ言葉を差し出す相手は、どこにもいなかった。
だが器の底には、今も同じ滓が残り続けている。
自分が去った日から、誰かが毒を盛る役目をそっくり引き継いでいた。
厨房の帳面は変わらない。
薬棚の目盛りは合わない。
症状の型は、七年前と寸分違わない。
どれも、示す先は一つだった。
厨房か、調薬の場か、日替わりの侍女か、あるいは宮廷医の誰かか。
顔までは、まだ見えない。
それでも、手を動かしている者は確かにこの城にいる。
オリヴィアは深く息を吐いた。
告発すれば手口を変えられると恐れ、七年前に沈黙を選んだ自分がいた。
今度は、恐れて黙るつもりはなかった。
毒は、盛る者より、気づかぬふりをする者の方が罪深い。
誰にともなく、そう心の中で言い切った。
気づかれなくてもいい。ただ、今度は見過ごさない。
布に包んだ滓を、小さな薬包に移し替える。
薬包を、肌着の内側にそっと収めた。
肌に触れた布は、じきに体温を吸って馴染んでいく。
冷たかったはずの証が、少しずつ自分の熱に染まっていくのが分かった。
十日のうち、まだ二日目が終わろうとしている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、オリヴィアが監視の目をかいくぐりながら宮廷の内側を調べ回る話でした。調薬の間、厨房、そして殿下の居室——どこにも決定的な顔は見えないのに、証拠だけは動かしようもなく積み上がっていく。そんな「見えないのに確信だけが強まる」怖さを書きたい回でした。
殿下が咳き込んで零す血の色、杯の縁に残る薄い膜。この二つが七年前と寸分違わないと分かった瞬間、オリヴィアの中で「もう疑いではなく確信だ」という一線が引かれます。けれど誰が今も手を動かしているのかは、彼女自身にもまだ見えていません。ここから先、少しずつ人の顔が絞られていく過程を書いていきます。
セリカ様の献身も、料理番の忠義も、宮廷医の疲弊も、この回では誰も嘘をついていないように見えるはずです。それでいて、確かに何かがおかしい——そのざらつきを、一緒に感じ取っていただけたら嬉しいです。
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