第25話: 二年前の女
黴と古紙の饐えた匂いが、まず鼻をついた。
舌の裏にざらりと残る、長く人の絶えた部屋の後味だった。蜜蝋の甘さがかすかに尾を引くのは、いつか誰かが灯を掲げた名残だろうか。
顔を上げれば、埃の膜が窓の光を鈍らせている。棚の背表紙にも卓の縁にも白い綿が積もり、戸を開けた風にすら揺れなかった。
王都の城に身を寄せて、はや三日目を数える。
毒は今も、宮廷の内側から盛られ続けている。昨日はそこまで見極めた。ならば次は、王太子の身近に侍る顔ぶれを一人ずつ洗うほかない。その筆頭に立つのが、いまや殿下の周りを差配するセリカ様だった。
通されたのは、城の奥まった記録の間だった。
棚には社交界の名簿と叙爵の台帳が、背を並べて眠っている。
埃をかぶった革表紙のどれもが、幾代ぶんもの名を抱えていた。
付き添いの侍従は、こちらの手元から一度も視線を外さなかった。
「随員殿にお許しがあるのは、そこまででございます」侍従が戸口から、名簿の一冊を目で示した。
「承知しております」オリヴィアは頭を下げた。「隣国の薬種を、どなたのお名で御礼状に記すか。作法を違えては、非礼になりますので」
侍従が顎で奥を示した。台帳を預かるのは、あの記録官らしかった。
白髪の記録官が、棚の陰から進み出てきた。
「どちらのお名を、お調べで」記録官は眼鏡の縁を押し上げた。
「セリカ様のお名の記載を」オリヴィアは答えた。「殿下へのお届け物に、粗相があってはなりませんので」
「セリカ様の」記録官は台帳の背をなぞり、一冊を抜き出した。「少々、お待ちを」
乾いた紙をめくる音が、静まった部屋に細く響いた。
「ございました」記録官が行の上で指を止めた。「二年前の春、社交界にお披露目された記録です」
「ご後見人のお名は」
「先代エルダ子爵の、ご未亡人様です」記録官は答えた。「もっとも、今は亡くなっておいでで」
「いつ頃、お亡くなりに」
「お披露目から、半年と経たぬうちに」記録官は眉を寄せた。「急なご病気だったと伺っております」
半年で後見人を失い、後ろ盾を継ぐ者もないまま、たどるべき道はそこでぷつりと途切れていた。
「ご実家からのお便りや、ご来訪の記録は」オリヴィアは続けた。
記録官は別の帳面を引き寄せ、指でなぞった。
「この二年、一件も見当たりません」記録官は眉根を寄せた。「文も贈り物も、ただの一度も」
「珍しいことですか」
「珍しゅうございます」記録官は台帳を閉じ、戸口の侍従をちらと窺ってから声を落とした。「これほど何も残らぬご令嬢は、私の代では覚えがありません」
覚えがない、というその一言が、耳に引っかかった。
「お家の所領は」
「北方の、ヴェスパー男爵領と」記録官は指を滑らせた。「詳しい在り処までは、この帳面には」
オリヴィアは短く礼を述べ、次の一冊へ手を伸ばした。
「セリカ様の紋章は」オリヴィアは尋ねた。「男爵家の紋章帳に、同じ意匠がございますか」
「それが」記録官は紋章帳をめくり直した。「ヴェスパー家の紋には、あの意匠の登録がございません」
登録のない紋を身につけた令嬢。胸のうちで、食い違いがまた一つ数を増した。
「分家や母方の紋を、借りることもございます」記録官は言い添えた。「稀ではございますが」
戸口で、侍従がひとつ咳払いをした。その視線が、早く切り上げろと急かしてくる。
「御礼状に、母方のお家名も添えるのが作法でして」オリヴィアは侍従へ小さく頭を下げ、記録官へ向き直った。「では、母方のお血筋は」
「そこまでは、紋章院に問わねば」記録官は肩をすくめた。「私どもの帳面の外でございます」
借りた紋を辿れば母方の家に行き着くはずが、その母方さえどの帳面にも影がなかった。辿ろうとするそばから、家柄そのものが煙のように指をすり抜けていく。
「お力添えに、感謝いたします」オリヴィアは頭を下げた。
「お役に立てば」記録官は台帳を棚へ戻した。
これ以上は、この部屋から引き出せない。オリヴィアは一礼し、記録の間を辞した。
日が落ちてから、控えの間の戸を叩く音がした。
燭台を提げた侍女頭が、細く開いた戸の陰に立っていた。
「オリヴィアさま」侍女頭は声をひそめた。「少しだけ、よろしいでしょうか」
「どうぞ」オリヴィアは戸を開いた。「人目につかぬうちに」
侍女頭は燭台を卓に置き、廊下の左右をもう一度確かめた。
それでもなお、柄を握る指がためらっていた。かつて宮廷を追われた自分に、この人だけは最後まで礼を尽くしてくれた——その負い目が、危うい夜の戸口へ彼女を運んできたのだろう。
「先ほど、記録の間へいらしたと」侍女頭は声を落とした。「セリカ様のことを、お調べになったと聞きました」
「御礼状の作法のためです」オリヴィアは表向きの理由を口にした。
「……それだけでは、ございませんね」侍女頭は目を伏せた。
図星を、あえて否まなかった。
「セリカ様が宮廷に上がられた頃を」オリヴィアは尋ねた。「覚えていらっしゃいますか」
「よく、覚えております」侍女頭は頷いた。「ある日突然、後見人様のお付きだけを連れておいでになりました」
「ご実家からの、お付き添いは」
「一人も」侍女頭は首を振った。「お荷物も、女官一人で運べるほどしか」
突然の到着、身一つに近い荷。
「後見人様が亡くなられてからは」
「喪服を仕立てるお家の方すら、どなたも」侍女頭は燭台の火へ目を落とした。「泣いて差し上げる身内が、あのお方には一人もいらっしゃらなかったのです」
台帳に残らぬ空白を、この人は肌で覚えていた。
「不思議には、思われませんでしたか」
侍女頭は少し間を置いた。
「思いました」侍女頭は睫毛を伏せた。「けれどセリカ様があまりにお優しくて、皆いつのまにか忘れてしまうのです」
優しさが、疑いを覆う蓋になっていた。
「あなたさまは毎朝、決まって仰っていました」侍女頭がふと表情を緩めた。「今朝も、問題はございませんでした」
忘れていたはずの一言が、耳の奥で不意に鳴った。
毎朝、器の底まで飲み干してから告げた台詞だった。舌に微かな苦みを残したまま、なんでもない顔で言ってのけた七年。あの言葉の重さを知る者は、あの部屋に一人もいなかった。
かつての口真似をする侍女頭の声が、遠い朝を連れてくる。
「あのお言葉ひとつで、殿下の一日が始まっておりました」侍女頭は続けた。「わたくしはいつしか、セリカ様のお声にも同じ響きを探しておりました」
侍女頭がすがるその響きが、確かめようのない出自の上に危うく立っているとは、この人はまだ知らずにいる。
「セリカ様に、お国訛りや口癖のようなものは」オリヴィアは尋ねた。
「特には」侍女頭は首をかしげた。「どちらのお生まれとも取れる、不思議な話し方をなさいます」
どちらとも取れる、それ自体が一つの拵えものに思えた。
「うかつに、口になさいませんように」侍女頭は燭台を持ち上げた。「セリカ様のお名を出すことすら、今は憚られます」
「心得ております」オリヴィアは頷いた。「まだ、確かめている段に過ぎません」
「疑うようで、気が咎めます」侍女頭は俯いた。「わたくしどもにまで、細やかにお心を配ってくださる方ですから」
「疑いたくて、疑うのではありません」オリヴィアは言った。「確かめぬままでは、殿下をお守りする術がないのです」
侍女頭は小さく頷き、燭台の柄をそっと握り直した。
火影を細く揺らして、彼女は廊下の奥へ遠ざかっていった。
翌朝、回廊でセリカと行き合った。
すれ違いざま、甘い花の香が鼻先をかすめる。
その甘さの奥に、覚えのある冷たい匂いが薄く差した。錆にも乾いた埃にも似た、名づけようのない気配だった。
気のせいだと、もう何度も自分に言い聞かせてきた匂いだった。
「あら、随員様」セリカが足を止めた。「殿下へのお届け物、ご苦労さまですこと」
「恐れ入ります」オリヴィアは礼をした。「お加減は、いかがでしょう」
「昨夜は、少しお眠りになれたご様子でしたわ」セリカは物憂げに視線を落としてみせた。「わたくしがついている限り、大事にはさせません」
言葉に継ぎ目がなかった。案じる声色までもが寸分の狂いなく整っていて、その隙のなさがかえって、念入りに用意された芝居のように映った。
これほど尽くす人を疑う自分のほうが、よほど歪んでいるのかもしれない。込み上げた迷いを、オリヴィアは唇の内を軽く噛んで抑えた。
「セリカ様は、北のお生まれと伺いました」オリヴィアは何気ない調子で尋ねた。
「ええ、寒い土地の育ちですの」セリカは微笑んだ。「霜の朝が、今も懐かしゅうございます」
「ご実家のお庭には、何かお好きな花でも」
「白い薔薇が、垣根いっぱいに咲いておりました」セリカは目を細めた。「あの香りだけは、今も忘れられませんの」
白い薔薇、それ自体はどこにでもある話だった。
薔薇、と胸のうちで繰り返したそのとき、視線がひとりでに、セリカの襟元へ吸い寄せられた。
小さな刺繍布が留められている。糸で起こされた、淡い黄の花弁が五枚。
息が、一拍だけ浅くなった。喉の奥がひとりでに渇き、鼓動が耳の裏で急く。
あれは薔薇ではない。父に教わった図譜の頁が、まぶたの裏で音もなくめくれる。南の暖かな土地でしか実をつけない、柑橘の花だ。
霜の降りる北の垣根に、あの花は根を張らない。
「素敵な刺繍ですこと」オリヴィアは布を指し、微笑んで見せた。「どちらのお柄でしょう」
「これは……亡くなった後見人様から、いただいたものですの」
答えは滑らかだった。幾度もそらんじたかのように、抑揚まで決まっていた。
礼を述べる仕草にまぎれ、オリヴィアの指先が布の端をかすめた。
解れた糸が一本、指の腹に絡んでくる。
七年のあいだ、毒の器を目の前ですり替えてきた指だった。人の視線の下で音もなく物を移すことに、この指はとうに慣れている。
それでも、回廊の先で衛兵の沓音が鳴った刹那、指先がわずかに強張った。すぐ間近には、セリカの琥珀の目がある。
深く腰を折るその一拍の裏で、オリヴィアは息を殺し、糸を手のひらへ滑り込ませた。
「大切になさっているのですね」オリヴィアは頷いた。「差し出がましいことを、伺いました」
「いいえ」セリカは柔らかく笑んだ。「殿下のためにも、随員様には長くいてほしいですわ」
言葉に、警戒の色は微塵もなかった。
ただ、こちらを見る琥珀の目の奥が、笑みより一拍遅れて動いた気がした。
オリヴィアは一礼し、そのまま歩みを進めた。
宛がわれた客間に入るなり、オリヴィアは掛け金を下ろした。
卓の上に、今日拾い集めた欠片を並べ直す。
忽然と現れた令嬢、半年で世を去った後見人、途絶えたままの実家、そして北を騙る南の花。指の腹で一つずつ数えていくうちに、掌の底がじわりと冷えていった。
どれも一つずつなら、取るに足らない綻びだった。
だが嘘というものは、繕うほどに形を変えて別のところへ皺を寄せる。
偽りは、人を欺くだけではない。その者が何者であったかまで、覆い隠してしまう。
——あの令嬢は、語られている通りの人ではないのかもしれない。
喉元まで上ってきたその言葉を、オリヴィアは飲み下した。
出自が怪しいことと、毒を盛る者であることは、まだ結び目を持たない。
疑いは疑いのまま、証にはまだ遠かった。
それでも、確かめずにはいられなかった。
道具袋から白い布を取り出し、指に絡めた糸をその上へ移す。
黄に染まった糸が一筋、灯りに透けて薄い影を落とした。
柑橘の花は、寒い北の土地では決して開かない。
語られた出自に、初めて確かな裂け目が覗いた瞬間だった。
記録官の声が、耳の奥で繰り返される。
——北方の、ヴェスパー男爵領。
名だけは、確かに台帳に残っていた。
ならばその土地へ問えば、二年より前の「セリカ・ヴェスパー」に行き着くはずだ。
もし、その土地にそんな令嬢が初めからいなかったとしたら。
その想像に、オリヴィアは指先の糸を握りしめた。
この城の記録に触れられるうちに、あの土地まで問いを届かせなければならない。
オリヴィアは糸を布に包み、口を一重に結んだ。器を持つ手の邪魔になるからと、十二の年に祖母が直させた結び方だった。
包みを旅装の奥へ深く仕舞い込む。指先に、まだあの黄の糸の感触が残っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、オリヴィアの調べの矛先が「毒の経路」から「セリカという人そのもの」へ移る回でした。古い台帳、侍女頭の記憶、本人との何気ない立ち話。どれ一つ取っても決め手にはならないのに、並べると小さな綻びばかりが浮かんでくる——そんな手触りを書きたい話でした。
北の生まれを語りながら、南でしか咲かない柑橘の花を胸に飾る。現実でも、大きな嘘より、話のすみっこの小さな食い違いのほうが、後からじわじわ効いてくる気がします。オリヴィアはまだ「怪しい」で踏みとどまっていて、その一歩手前の緊張を一緒に味わっていただけたら嬉しいです。
侍女頭が口真似する「今朝も、問題はございませんでした」は、オリヴィア自身が忘れかけていた言葉です。かつての信頼の証が、別の令嬢の献身と重ねて測られている。次は、その綻びの糸をたぐってヴェスパー男爵領へ向かいます。
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