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『毒見の女など用済みだ』と婚約破棄された私が伯爵家を去った翌朝、王太子は毎日吐血するようになった  作者: 藍田 算


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第26話: 偽りの令嬢

 茶を含んだ舌の裏に、鉄気の味が薄く残った。


 王城の井戸は深い石組みの底から水を汲み上げる。その水はいつも古釘に似た後味を舌の奥へ置いていく。七年前と何ひとつ変わらない味だった。


 オリヴィアは椀を置いた。この味こそがいちばん厄介なのだと、朝ごとに思い出す。錆に似た後味は灰塵の後味とよく似ていて、慣れた者ですら一瞬迷う。


 メリディアの使節に随員として加わり、王都へ入って五日目の朝だった。七年を毒見役として過ごした城に、いまは隣国の客として起居している。


 卓の上には、昨夜のうちに書きつけた覚えが一枚ある。


 書き並べた綻びは五つ。どれも単独では、噂話と見分けがつかないものばかりだった。


 昨日も、記録の間の戸を叩いた。出てきた記録官は、台帳を開きもしなかった。


「同じお名でしたら、お調べするまでもございません」


 その一言で、城の帳面は閉じた。紋章院は城の外にあり、随員の身では門をくぐる名目が立たない。


 残る道は一つきりだった。北方ヴェスパー男爵領を、その土地を踏んだ者の口から確かめるほかない。


 薬種は国境を越えて動く。寒い土地でしか採れぬ根や皮を、季節ごとに王都の市へ運んでくる者たちがいる。


 城に上がるより前、薬師の家の娘として育った十二年のあいだに、オリヴィアはその道筋を覚えていた。


「随員殿」戸口から侍従の声がした。「本日のご予定を、伺うよう申しつかっております」


「市の薬種商のもとへ参ります」オリヴィアは覚えを袖に収めた。「本国へ持ち帰る薬種を選ばねばなりません」


「承知いたしました」侍従は帳面に筆を走らせた。「ご出入りは、すべて書きとめよと命じられております」


「何を書きとめられるのでしょう」


「刻限と行き先、それにお連れの方のお名を」侍従は筆を止めなかった。「戻られた刻も、あとで伺います」


「参りました頃は、そうではありませんでした」


「昨日からでございます」侍従は帳面の端をそろえた。「どなたのご指示かは、私には分かりません」


 増えていくのは決まりのほうだった。城の帳面が閉じていくのと、同じ速さで。


「どなたのご指示か、伺うことはできませんか」


 侍従の筆が、はじめて止まった。


「わたくしは、書きとめる役でございます」


「読む方が、どこかにおられます」


「本日のご予定を、もう一度伺わせてください」侍従は帳面へ目を戻した。「市の薬種商のもとへ、と」


「そのように」


 答えないという答えだった。この城で、それがいちばん多く聞く返事になっていた。


「それから」侍従は声の調子をわずかに変えた。「セリカ様がお呼びでございます」


 袖のなかで、指先が覚えの紙をかすめた。


「すぐに参ります」オリヴィアは立ち上がった。




 通されたのは、王太子の寝所に近い小さな間だった。


 戸が開いた途端、甘い香が鼻を塞いだ。


 花と蜜を煮つめたような、度を越して濃い香だった。喉の奥がざらつき、唾を飲み下しても口の中から退かない。


 蜜の重さの底を、細い冷たさが一本通っていた。花にも蜜にも属さない匂いで、七年かけて覚えたものと同じだった。ただここでは香が濃すぎる。近づこうとするほど、その一本が紛れて見失われていく。


 狭い間だった。調度は長椅子と香炉の卓きりで、高い窓から差す光が床の一角だけを白く切り取っている。


 セリカはその窓際にいた。膝の上に刺繍枠を置き、蜂蜜色の巻き毛を肩に流している。


「随員様」セリカは針を止めて顔を上げた。「お呼び立てして、ごめんなさいね」


「恐れ入ります」オリヴィアは礼をした。「ご用向きを伺います」


「殿下のお薬のことですの」セリカは枠を膝に伏せた。「隣国のお薬は、この国のものと合わせて差し支えないのかしら」


「同じ効きのものを重ねぬよう、宮廷医の方々と分けて調えております」


「まあ、ご丁寧なこと」セリカは睫毛を上げた。「安心いたしましたわ」


 案じる言葉のはずだった。それなのに、聞き終えたあとに何も残らない。人の情がこもった声は、たいてい後味を置いていく。


「このお香も、殿下のお召し上がりものと同じ部屋に」オリヴィアは言った。「量を控えられたほうが、お薬は効きやすくなります」


「あら」セリカは指先で布の目を押さえた。「お香が、お薬の邪魔をいたしますの」


「濃い匂いは、舌と鼻を鈍らせます」


「まあ、こわい」セリカは笑い、また針を動かした。「では、侍女に伝えておきますわ」


「随員様は、記録の間へ二度も足を運ばれたそうですわね」


 香炉の煙が、二人のあいだをゆるく渡っていった。


 朝の帳面を思った。書きとめよと命じたのは、誰だったのか。


「御礼状の作法を確かめておりました」オリヴィアは答えた。「お家名の書き違えは、非礼になりますので」


「熱心なお方」セリカは針に糸を通した。「殿下も、そういう方をお側に置いておけばよかったのかしら」


 糸が布を抜ける音が、二度、三度と続いた。


 オリヴィアは黙って次の言葉を待った。呼ばれた理由が薬でないことは、部屋に入った時から分かっていた。


「ねえ、随員様」セリカは布から目を上げずに言った。「わたくし、ずっと不思議に思っていたことがあるの」


「何でしょう」


「七年、毎朝ご覧になっていて……一度も『毒がある』と仰らなかったのね」


 香の甘さが、喉の奥でぴたりと止まった。


 オリヴィアは口を開かなかった。


 開けなかった、というほうが正しい。七年のあいだ、どんな問いにも返す言葉があった。作法にございます。異常はございません。かしこまりました。指を伸ばせばいつでも取り出せる場所に、役目の声はきちんと畳んで置かれていた。


 その置き場所が、いま空になっていた。


 舌が動かない。声を作る手前で、息だけが胸に留まっている。


 言えば、器の手口は変わる。——十二の春に、同じことを考えた。


 凪いだまま返す。それだけを七年してきたのに、今このときだけ、返すべき凪が見つからなかった。


 セリカは顔を上げなかった。


 答えを待つ気配すらなく、針は同じ調子で布を抜けていく。


「……いえ、なんでもありませんの」セリカは糸を軽く引いた。「昔のことですものね」


 それきり、その話は終わった。


 セリカは刺繍枠を脇へ置き、香炉のほうへ立った。匙で香をひとつ足すと、匂いがさらに重たく膨れ上がる。


「殿下はこの香をお好みですの」セリカは蓋を戻した。「お眠りが浅い夜も、これを焚けば落ち着かれますわ」


「……ご配慮に、頭が下がります」


 声が、ようやく出た。


「随員様も、お体を大切にね」セリカは微笑んだ。「あなたのような方に倒れられては、殿下がお困りになりますもの」


 オリヴィアは一礼し、戸口へ向かった。


 背に、糸を通す音が一つ聞こえた。




 回廊に出ると、冷えた石の匂いが鼻を通った。


 甘い香が髪と袖に染みついている。歩くたびに、それが自分の後を追ってきた。


 柱の陰で足を止め、オリヴィアは短く息を吐いた。


 言い返す言葉なら、いくらでもあったはずだ。作法の話にすり替えることも、話題を薬へ戻すこともできた。七年、そうやって切り抜けてきた。


 それができなかった。


 返す言葉を、わたしは持っていなかった。


 あの人が問うたことは、間違っていない。毒見役の役目は、毒があると告げることだ。告げなかった者を役目を果たした者とは呼ばない。


 誰にも言われなかったから、七年、自分でも数え直さずに済んでいただけだった。


 オリヴィアは袖の内の覚えを指で押さえ、歩き出した。


「オリヴィアさま」


 回廊の先から、侍女頭が足早に来た。昼の光の下で見る顔は、目の下の陰が、あの夜より濃い。


「お顔の色が、よろしくありません」侍女頭は眉を寄せた。「どこかで少しお休みになっては」


「大事ありません」オリヴィアは答えた。「香の強い部屋に、長くおりましたので」


 言葉はなめらかに出た。


 この舌は、こうして動く。動かなくなったのは、あの一問の前でだけだった。


「あのお部屋は」侍女頭は言いかけて、口を閉じた。「……いえ。お気をつけくださいませ」


「何にでしょう」


「昨日から、廊下に人が増えました」侍女頭は目だけを左右へ動かした。「わたくしのような者にまで、どなたとお話しになったかをお尋ねになります」


「あなたも、お尋ねを受けたのですか」


「二度」侍女頭は袖の内で手を握った。「一度目は名を書き取られただけでした。二度目は、控えの間まで呼ばれました」


「何を訊かれました」


「オリヴィアさまと、何をお話しになったかを」侍女頭は視線を落とした。「作法のことでございますと申し上げました」


 嘘をつかせた。七年のあいだ、この人は一度も自分に嘘をつかなかった。


「わたくしは、随員殿と口をきいてはならぬと」侍女頭は息を呑んで続きを飲みこんだ。「……申しつけられております」


「では、なぜ」


「七年のあいだ、あなたさまだけがわたくしどもに礼をなさいました」


「ご迷惑をおかけします」


「そんなことは」侍女頭はかぶりを振り、そのまま行き過ぎた。


 小走りに遠ざかる背は、途中で一度も振り返らなかった。


 城の水の味と同じだ。慣れたものほど、迷いを連れてくる。




 乾いた根と樹皮の匂いが、幕の内にこもっていた。


 王都の市の外れ、薬種を扱う商人たちの並びである。麻袋の口から覗く干した根、束ねた皮、砕いた鉱物の粉。土と苦みの混じった空気を吸い込むと、舌の奥がわずかに縮んだ。


 昼過ぎの市は人で埋まっていた。値を張る声と荷車の軋みが幕の外を行き交い、隣国の随員の装いなど誰も見ていない。


 どの匂いも、レイヴンズクロフトの薬棚に並んでいたものだった。


「北の薬種を扱われるのは、どちらでしょう」オリヴィアは幕の内へ声をかけた。


「北なら、あちらの店でございます」若い男が奥を指した。


 示された幕をくぐると、白い顎鬚の老商人が、帳面から顔を上げた。


「隣国のお使いの方と伺いました」老商人は頭を下げた。「北の根なら、当店より良いものは王都にございません」


「ヴェスパー男爵領のものを見せていただけますか」オリヴィアは言った。「霜のあとに掘る根を探しております」


「よくご存じで」老商人は麻袋を引き寄せた。「あの土地の根は、霜を三度越さぬと薬になりません」


 差し出された根を手に取り、爪の先で削いで舌に載せた。


 えぐみが遅れて立ち上がり、そのあとに冷えた甘さが残る。北の土の味だった。


「良い品です」オリヴィアは頷いた。「あの土地には、長く通っておいでですか」


「三十年になります」老商人は目尻を緩めた。「先代の男爵様の頃から、館の裏手まで荷を運んでおりました」


 荷を運ぶ者は館の内を見る。台所も、庭も、人の顔も。


「では、お館の様子もご存じで」


「今はもう、館とは呼べません」老商人は声を落とした。「先代の代で傾きまして、今は代官がお一人残っておられるだけで」


 傾いた家。名を騙るのに、これほど都合のよい家もない。確かめようとしても、辿る先がもう残っていない。


「お家には、ご令嬢がいらしたと聞きました」オリヴィアは根を布に戻しながら言った。


「お二人おいででした」老商人は指を二本立てた。「上のお方は西の商家へ、下のお方は近くの騎士のお家へ嫁がれました」


「お名は」


「エルシェ様と、マリカ様」老商人は迷いなく答えた。「幼い頃から存じ上げております」


 二つの名は、袖の内の覚えのどこにも重ならなかった。


「セリカ様という方は」


 声が乱れなかったのは、七年ぶんの癖のおかげだった。


「セリカ、様」老商人は鬚をつまんで考え込んだ。「……いいえ。あのお家に、そのお名の方はおいでになりません」


「お忘れということは」


「三十年通った家でございます」老商人は首を振った。「表沙汰にならぬお子の話はどの家にもございますが——お披露目までされたご令嬢のお名を、私が知らぬはずはございません」


 幕の外を荷車が通り、木の軋みが幕を震わせた。


 オリヴィアは膝の上で指を組んだ。北の土の味は、もう舌から消えていた。


「あの土地に、柑橘は実りますか」


「柑橘」老商人は笑った。「あの霜では、苗のうちに枯れます。花のひとつも咲きません」


 もう、気のせいでは済まなくなった。


「もう一つ、伺っても」オリヴィアは袋の口へ目を落とした。「あの土地のことをお尋ねになる方は、ほかにもおいでですか」


「北の根をお探しの方は、まあ大勢おいでですよ」老商人は首をかしげた。「お家のことまでとなりますと……そういえば」


「そういえば」


「一年ばかり前に、お一人」老商人は天井の梁を見上げた。「ご令嬢のお名を、やはりお尋ねになりました」


「どのような方でしたか」


「お顔は覚えておりません」老商人は袋を閉じた。「ただ、根はひと束もお買いになりませんでした」


 薬種の幕をくぐって、薬種を買わずに帰る者。


「無理を伺いました」オリヴィアは頭を下げた。「根を、五束いただきます」


「ありがとうございます」老商人は袋を広げた。「北のお話が好きなお方に、久しぶりにお会いしました」


「よく話してくださいました」オリヴィアは包みを受け取った。「見ず知らずの者に」


「あの土地の話を聞きたがる方が、もうおられませんので」老商人は幕の隙間へ目を向けた。「館が傾いてからは、注文もぱたりと止みました」


「それでも通っておいでなのは」


「根がよいからでございます」老商人は肩の力を抜いた。「人ではなく、土に通っております」


「お館のことをご存じの方は、ほかに」


「代官どのが、お一人」老商人は袋の紐を結んだ。「あとは、もう」


 包まれた根を受け取り、オリヴィアは幕をくぐった。


 外の風が、髪に染みた香をようやく薄くしていった。


 包みを抱え直す。城の門には、刻限を書きとめる筆が待っている。




 灯りを引き寄せ、オリヴィアは買った根の包みを卓の隅へ寄せた。


 空いた場所に覚えを広げ、上から順に指でなぞる。


 突然の登場。急死した後見人。二年の音信不通。登録のない紋。北を騙る南の花。


 その下に、新しい一行を書き足した。


 ——北方ヴェスパー男爵領に、セリカという令嬢は存在しない。


 紙の上でその一行を読み返すうちに、これまでの綻びが一つずつ向きを揃えていった。


 紋が辿れないのではない。辿るべき家がない。実家から文が来ないのではない。文を書く実家がない。


 黄の糸は、うっかりの取り違えではなかった。北を装う者が、育った土地の花を捨てきれなかった痕だった。


 あの令嬢は、セリカ・ヴェスパーではない。


 喉元でつかえていたものが、ようやく形になった。


 だが、確かになったのはそこまでだった。


 偽りの名を名乗る者は、宮廷にいくらでもいる。没落した家名を借り、生まれを飾り、寵を得ようとする令嬢を、七年のあいだに何人も見た。


 名を偽る者が、器に毒を入れる者とは限らない。二つを結ぶ糸は、まだ手の中にない。


 名を偽ってまで王太子の傍に居続ける理由が、どうしても像を結ばなかった。


 オリヴィアは筆から手を離した。目を閉じると、あの部屋の香がまた戻ってきた。


 ——七年、毎朝ご覧になっていて。


 あの言葉を、そのまま置いてみる。


 あれは、毒があった前提の物言いだった。


 毒見役が毒を告げなかったと責めるなら、まず毒がなかったことを疑うのが筋だ。あの人は疑わなかった。器に毒があったものとして、告げなかったことだけを咎めた。


 オリヴィアは指を組み直した。


 言葉のあやかもしれない。噂を鵜呑みにしただけかもしれない。殿下の急な病を見て、後から辻褄を合わせただけかもしれない。


 この城に来てから、そう言い聞かせる回数が増えていた。


 窓の外はもう暗く、中庭の松明が石畳を薄く照らしている。


 オリヴィアは旅装を引き寄せ、奥へ手を差し入れた。


 白い布の包み——昨日、セリカの刺繍布から指に絡めとった、あの黄の糸だった。仕舞った場所に、そのままある。


 取り出して灯りにかざす。布の重なりの奥で、あの黄がまだ色を失っていない。


 指が止まった。


 結び目が、二重になっている。


 息を吸うのを忘れていた。指の腹が、結び目の硬い山をなぞって止まる。


 自分は、一重にしか結ばない。


 誰かが解き、糸を確かめ、そして元通りに見えるよう結び直していった。


 卓の上の覚えを、オリヴィアは急いで裏返した。


 白い布は灯りの下に置かれたまま、きつく結ばれた二重の結び目が、細い影を卓の板へ落としていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 この話でどうしても書きたかったのは、オリヴィアが言い返せない一瞬でした。七年どんな問いにも用意の答えがあった人が、たった一度だけ言葉の置き場所を空にする。しかも突いてきたのは相手のほうで、しかもその言い分は正しい。毒があると告げるのが毒見役の役目なのに、彼女は告げなかった。誰にも問われなかったから、彼女自身も数え直さずに済んでいただけです。


 沈黙は美徳ではありません。十二歳の彼女が選んだのは、告発すれば手口を変えられるという計算でした。同じ計算を、香の焚かれた部屋でもう一度している。七年前と同じ判断をしている人だから、彼女は今も黙るしかない。


 もう一つの軸は、北の根の味です。三十年その土地に通った商人の口から出た二つの名前が、綻びの向きをいっせいに揃えます。ただ、素性の偽りと器の毒はまだ繋がりません。次話、隣国で見たものと王都で見たものが重なり始めます。


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