第8話: 気づく男
水の匂いが、先に届いた。
乾いた街道の埃の底から、湿った石と青苔の気配が細く立ちのぼってくる。
オリヴィアは足を止め、鼻先でその匂いをたどった。この先に水がある。喉より先に体がそう知った。
国境石を越えて四日になる。指を折って数えずとも、灰塵の残りが日を教えた。
メリディアの土はアルデニアより黒い。青草の湿りが濃く、埃の味にかすかな甘みが混じる。
同じ大陸の地続きの隣国だというのに、舌に触れる土の味がもう違う。
荷は軽くなっていた。路銀が尽きかけているぶん、肩は楽で腹は減った。
昨日から口にしたのは、井戸の水だけだ。
荷の底の小瓶を、指の背でそっと確かめる。薄めた灰塵——七年これを少しずつ身に容れ、盛られる毒に耐えてきた。琥珀色の液は、もう底のほうでわずかに揺れるだけだった。
「……もって、三日」
声に出して数えてみても、答えの落ちる先は同じだった。尽きたとき、体がどう傾くのか。祖母もまた、そこから先は教えてくれなかった。
指先が、また細かく震えた。七年ぶんの毒が、抜けきらぬまま体に居座っている。
その震えを、もう片方の手で握って止め、オリヴィアはまた歩き出した。
街道が緩く下り、木立の切れ目に、湧き水の場が開けていた。
石を組んだ古い泉で、旅人が幾組か馬に水をやり、革袋を満たしている。
オリヴィアは泉の縁に膝をつき、両手で水を掬った。
口へ運ぶ前に、指先が椀の縁を探るように止まる。
——癖だった。七年、そうしてきた。掬ったものに、まず異物がないかを確かめる。
水は澄んでいた。石灰の甘みと、鉄気のかすかな渋み。ただの山の水の味だ。
喉を鳴らして飲むと、乾いた体の隅々へ冷たさが染みていった。
隣で革袋を満たしていた老いた旅商人が、こちらを見て口を開く。
「北から来なさったか。ずいぶんと乾いた顔をしている」
「……はい。だいぶ歩きました」
「都まで行きなさるか。なら道中、せいぜい気張りなさい」旅商人は革袋の口を縛った。「近ごろは宮のあたりも、いささか物騒だと聞くでな」
それだけのやりとりで、オリヴィアは口を閉じた。素性を問われる前に、話を続ける気はなかった。
顔を上げて、初めて、泉の一角に気づいた。
ひときわ立派な一団が、木陰に憩っている。
磨かれた馬具。仕立ての良い外套。荷を検める従者たちの手つきに、無駄がない。
天幕の支柱に旗が一本、垂れていた。青地に、白い鳥。
——メリディア公国の紋だ。国境の塔で見た旗と、同じだった。
どこぞの貴顕の一行らしい。オリヴィアは目を伏せ、泉の端の、人のいない方へ寄った。
旅の女がひとり、身分ある一団に近づく謂れはない。水だけ汲んで、離れればいい。
泉の下手、流れの淀みに、ひとりの小姓が屈んでいた。
まだ年若い。摘んだ青菜を、水にさらしている。芹だ。昼餉に添えるつもりらしい。
その手元を、オリヴィアの目がひとりでに撫でた。
これも同じ性だった。膳の上のものを検め続けた目は、見るなと言っても勝手に検める。
芹の束のなかに、一本、葉の裏の白いものが混じっていた。
花の付き方が、わずかに違う。芹によく似て、芹ではない。
鼻を寄せずとも、分かった。青い芹の香の底に、饐えたような酸い匂いが差している。
小姓がその一本を口へ運ぼうとした。灰汁を確かめる幼い手つきで。
考えるより先に、オリヴィアの手が伸びていた。
その一本だけを、束から抜き取る。
「それは、口にできません」
小姓が、きょとんと顔を上げた。
「……これ、芹じゃ、ないんですか」
その声が、幼く揺れた。何を口にしかけたのか、まだ分かっていない顔だ。
「——何者だ」
鋭い声が飛んだ。護衛らしい男が柄に手をかけ、間へ割って入る。
「その手を離せ。何を盗った」
「盗ってなど、おりません」
オリヴィアは、抜き取った一本を掌の上に開いて見せた。
「これは芹ではありません。口にすれば、腹を下します。悪くすれば、それでは済みません」
「毒草だと。ただの青菜に見えるがな」
「見た目は芹とほとんど変わりません。だからこそ危のうございます」
護衛は手の中の草と女の顔を、交互に見た。判じかねている目だった。
「見せてくれ」
低く落ち着いた声が、一団の奥から来た。
人垣が、自然に割れた。
背の高い男が、こちらへ歩いてくる。黒に近い濃紺の短髪。装飾を削いだ、仕立ての良い礼装。
深い灰青の目が、まっすぐにオリヴィアの手元へ落ちた。
男はオリヴィアの掌から、その一本をつまみ上げた。
葉を裏返し、茎の切り口を指の腹でたどる。それから鼻先へ寄せた。
「なるほど。確かに、芹ではないな」
「よく似ている。香りの底の酸いところで、見分けたか」
「……はい」
「もし、この子が口にしていたら」男は草を目の高さに掲げた。「そちらなら、どうする」
試されている。値踏みではなく、見定める問いだった。
「まず、吐かせます」オリヴィアは答えた。「そのあとで、炭の粉を水に溶いて飲ませます」
「炭の粉」
「焼いた炭を細かに挽いたものが、腹の毒を吸います」
「乳や卵白があれば、なお良うございます。ただ、いずれも早いほど効きます」
「炭も乳もない道中では、どうする」
「塩を溶いた湯で、幾度も吐かせます。効きは鈍うございますが、何もせぬよりは」
「毒に当たった者を、幾人も見てきたような口ぶりだな」
「……育った土地に、薬師の代わりがおりませんでしたので」
「その草の名は」
「毒芹かと存じます。芹に紛れて生えるもので、根も葉も口にできません」
「根も、か」
「はい。むしろ根のほうが強うございます」
男は、しばらく黙っていた。
草を検めるためではない、別の間だった。答えを頭の中で照らしているような。
「万に一つの、備えの答えだな」男は言った。「そういう答えは、机の上では出てこない」
「……いくども、使う場がございましたので」
言ってすぐ、オリヴィアは口を噤んだ。言わでものことだった。
「そうだろうな」男は咎めなかった。「隠すのは、そなたの勝手だ」
男の視線が、草からオリヴィアの手へ移った。
抜き取った拍子に開いたままの、その指先へ。
あかぎれと、洗っても落ちきらぬ染みの残る指。細かに震える、その手へ。
オリヴィアは、とっさに手を引こうとした。だが、遅かった。
「その指先は」男が言った。「薬草と、毒を扱う者の手だ」
声に驚きはなく、ただ答え合わせのような響きだけがあった。
「誰にも言えぬ仕事を、長く続けてきた手だ」
図星を指されて、なお声は乱れなかった。乱れないことだけは、七年で体に染みついていた。
「買いかぶりにございます」オリヴィアは答えた。「旅の常備薬を、少しばかり」
「常備薬を持つ旅人は多い」男は草をオリヴィアの掌へ戻した。「だが他人の膳から、毒草を一本だけ抜く者は多くない」
オリヴィアは、答えを持たなかった。持っていても、口にする気はなかった。
「言いたくないなら、それでいい」男は静かに言った。「腕は、言葉より正直だ」
「名は」男が問うた。
「オリヴィアと申します」
「生国は」
一拍、迷った。国境の役人にも同じことを問われた。国名まではあのとき告げた。その先だけを飲みこんだ。
「アルデニアの出にございます」オリヴィアは答えた。「……その先は、申せません」
男は、それ以上は問わなかった。国境の役人が、そうしたように。
ただ、この沈黙は役人のそれとは違った。どうでもいいのではなく、あえて問わずにいる。
「閣下」護衛が、気遣わしげに声をかけた。「そろそろ、先を」
——閣下。
その一語で、オリヴィアはようやく目の前の男の正体を察した。
青地に白い鳥。装飾を削いだ礼装。人垣の割れ方。
メリディアの、宰相その人だ。
オリヴィアは、半歩下がって頭を垂れた。
「宰相閣下と、存じ上げず。ご無礼を」
「無礼ではない」宰相は言った。「私の小姓の腹を救ったのは、そちらだ」
「……ありがとう、ございます」
小姓が消え入りそうな声で頭を下げた。オリヴィアはどう応じてよいか分からず、ただ小さく首を振った。
宰相は、小姓の手から芹の束を取り、毒草の抜けたそれを検め直した。
抜くべき一本だけが、正しく抜かれていた。
「メリディアは」宰相は、束を小姓へ返しながら言った。「身分でなく、働きで人を用いる国だ」
「そちらの目は、確かな腕だ。証書も家名も要らぬ、まっすぐな腕だ」
その言葉が、胸の奥の古い場所に触れた。
褒められることのない仕事だからこそ、人を生かせるのだと、祖母は言った。その仕事を、七年、誰も見なかった。
「君の働きは」宰相は言った。「これまで誰にも見られなかったのだろう」
「だが、私は見た。それだけのことだ」
七年、誰にも気づかれぬことを是としてきた。気づかれてはならないと、自分に課してきた。
その戒めが、たった一言で、内側からほどけかけた。
喉の奥がふいに詰まった。息を継ごうとして、それが上手くいかない。握った拳の中で指の震えが強くなる。
オリヴィアは奥歯を噛み、こみ上げたものを飲み下した。
舌に触れたそれは塩辛く、七年、器の底で飲み下してきた毒の後味と、不思議とよく似ていた。
飲み下すのは、得意だった。
「……もったいない、お言葉にございます」
宰相は、懐から何かを取り出した。
木の札だった。小指ほどの、薄い板。表に、白い鳥の紋が焼き印されている。
「メリディアの都に、宮付きの薬院がある」宰相は、その札をオリヴィアへ差し出した。「腕のある薬師を探している」
「これを門で見せるといい」
「私はユリウス」宰相は名乗った。「メリディアの宰相を務めている。都で行き迷ったら、その名を出せばいい」
「埋もれた腕を探して歩くのが、私の仕事のようなものでな」宰相は続けた。「立派な椅子より、そういう手のほうがよほど国を生かす」
オリヴィアは、その札をすぐには受け取らなかった。
受け取れば、また誰かのために生きることになる。ふと、そんな気がした。
だが——
「近ごろ都の宮で、良からぬ噂がある」宰相は、声をわずかに落とした。「膳をめぐる、良からぬ噂が」
「膳の草一本をそれだけ正しく読む目は、都でこそ要る」
「膳をめぐる噂、とは」
問うた——のではなかった。膳、というその一語に、舌の奥が先に応えた。城で七年、器の底に嗅ぎ分けてきた、覚えのある金気が、かすかに立ち上がる。
「詳しくは言えぬ」宰相は目だけで笑った。「だが、そなたの目ならじきに分かる」
この国の宮の膳にも、底に沈むものがあるのか。
確かめる術は、今の自分にはない。それでも、舌の奥に立った金気は、容易には消えなかった。
オリヴィアは、震える指を、そっと開いた。
毒草を抜いたばかりの、その掌へ。
宰相が、木の札を置いた。
軽い板きれのはずが、思いのほか確かな重みで掌に沈んだ。
白い鳥の紋が、指の隙間からこちらを見上げていた。
証書も家名も要らぬと、この人は言った。国境の役人も、同じことを言った。
噂に聞いた、働きだけを問う国。その入り口が、今、掌の上にあった。
あてどない望みだと、分かっていた。
それでも、国境の木戸で点った小さな灯が、掌の中でもう一度だけ、明るさを増した気がした。
——長らく、お世話に。
舌が、いつものように敬語の形をなぞりかけた。
だが今度は、それを飲み下さなかった。
「……行ってみます」
役目の声ではない、素の一言だった。
宰相は答えの代わりに、ひとつ頷いた。深く問わず、ただ見て取る、あの目のままで。
一行が、街道を都の方へ動きはじめる。
オリヴィアは掌の木札を、荷の奥へ——灰塵の瓶のすぐ隣へ、そっと沈めた。
尽きかけた毒の瓶と、白い鳥の札。
その二つを抱えて、オリヴィアはまだ見ぬ都の膳へ足を向けた。
舌の奥で、乾いた旅の埃と青い水の匂いが混じり合っていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
これで第一アーク「追放編」が完結です。七年、誰にも気づかれずに毒を飲み下してきたオリヴィアが、たった一本の草を抜いたことで、初めて「見られる」——この一点を書きたくて、ずっと走ってきました。彼女の献身は、これまで気づかれないことが是でした。その堰が、ユリウスの「私は見た」の一言でゆるみかける瞬間に、七年ぶんの重さを込めたつもりです。
ユリウスは、王太子アルヴィスとちょうど裏返しの男として置きました。器の底を七年見ていた女に「何を見ている」と一度も問わなかったアルヴィスと、草一本から彼女の来し方を読み取ってしまうユリウス。気づかない男と、気づく男。この対比が、これから先の物語の背骨になります。
尽きかけた灰塵の瓶と、白い鳥の木札。毒と希望を並べて掌に抱えたところで、追放編を閉じます。次アーク「隣国編」では、いよいよメリディアの都へ。宮の膳をめぐる不穏な噂と、オリヴィアの毒を読む目が、静かに交わりはじめます。
☆評価・ブックマーク・感想が、続きを書く大きな励みになります。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。




