第7話: 翌朝、彼は血を吐いた
パンの匂いが、今朝はやけに甘く香った。
誰にも見られていない食卓は、こんなにも軽いものだったか。
アルヴィスは、その軽さの意味を深く考えなかった。
卓の向かいには、いつもの陰気な影がない。あの女が座っていた場所には、今朝から誰も座らない。
あれを追い出したのが、昨日のこと。まだ一日と経ってはいなかった。
空いた椅子へ目をやり、アルヴィスは鼻を鳴らした。
「飾りが一つ減っただけだ」
誰に言うともなく呟いて、匙を取る。焼き林檎に蜜をかけたものが、今朝も湯気を立てていた。
「殿下」
侍従が銀盆を捧げて進み出た。恭しく、しかしどこか手つきが硬い。
「毒見の儀は……いかがいたしましょう」
「もう要らんと言ったはずだ」
アルヴィスは匙を振って、盆を下がらせる仕草をした。
「あの女は、ただ飾りに座らせていただけだ。毒見などという役目に、大した意味はない」
「はっ」
侍従は下がったが、その足取りはどこか名残惜しそうだった。
長年の習わしを崩すことに、体が慣れていないだけだろう。
アルヴィスはそう解釈して、それ以上気に留めなかった。
扉が開き、蜂蜜色の巻き毛が朝の光を弾いて揺れた。
「おはようございます、殿下」
セリカが軽やかに歩み寄り、隣の椅子へ腰を下ろす。花の香りが、彼女の動きに合わせて甘く漂った。すみれの匂いの底に、ごくかすかな金気が差した気もしたが、アルヴィスはそれを香水の一種と思って気に留めなかった。
「よく眠れましたか」アルヴィスは頬杖をついた。
「殿下がお隣にいらっしゃると思うだけで、ぐっすりですわ」
セリカは睫毛を伏せて微笑んだ。その仕草に、アルヴィスは満足げに口の端を上げる。
「今朝の食卓は、いつもより華やかだ」
「まあ、うれしいことを仰るのね」
「あの陰気な目に見張られなくて済む。それだけで、飯がうまい」
パンをちぎり、口へ運ぶ。確かに、味がいつもより濃く感じられた。誰にも観察されていないというだけで、これほど食事が違うものかと、アルヴィスは内心で軽く驚いていた。
「殿下」セリカが小首を傾げた。「本当に、もう毒見はよろしいのですか」
「今さら何を聞く」アルヴィスは笑った。「七年、一度も毒など出たことがない。飾りの役目を、いつまでも置いておく理由がどこにある」
「そう、ですわね」
セリカの声が、ほんの一拍遅れた。
その一拍のあいだ、彼女の視線が、空いたままの向かいの椅子へ、すっと流れた。だがすぐに戻り、いつもの甘い笑みに溶ける。
アルヴィスは気にせず茶を含んだ。湯気の向こうで微笑むセリカを見ていれば、それだけで十分だった。
「毒見役の女なぞ、しょせん飾りだったのだ」アルヴィスは器を取り、蜜のかかった林檎を口へ運んだ。「私はいつも無事だ。そう言ったろう」
答えを待たず、匙を口に運ぶ。甘さが舌に広がり、それから――
喉の奥に、ちりっと焼けるような感触が走った。
アルヴィスは匙を止めた。気のせいだと思おうとしたが、焼ける感覚は喉から胃へと降りていく。
「……殿下?」
セリカの声が遠くに聞こえた。アルヴィスは咳払いをしようとして、代わりに咳が止まらなくなった。
「な……」
声にならなかった。胃の底から、何かが逆流してくる感覚があった。
抗う間もなく、口を押さえた手の下から赤いものがあふれた。
「殿下!」
セリカの椅子が倒れる音がした。アルヴィスは卓に手をつき、体を折った。
喉の奥に鉄気が満ち、それが止まらない。
「誰か……誰か来て!」
セリカの叫びが響き渡った。侍従が駆け込み、盆を取り落とす金属音が広間に反響した。
「殿下! しっかりなさいませ――」
誰かの手が背に添えられる。アルヴィスはそれを振り払う力もなく、卓の上に赤い染みを広げ続けた。
目の前が、白く滲んでいく。
運ばれた寝室で、アルヴィスは荒い息をついていた。
白髪の医師が枕元に膝をつき、脈を取っている。乾いた指の感触だけが、やけにはっきりと分かった。
「脈は、乱れておいでですが……」医師は眉を寄せた。「命に関わるほどではございません」
「それだけか」アルヴィスは掠れた声で言った。「私は今、血を吐いたのだぞ」
「はっ。それは重々……」医師は言葉を濁した。「ただ、原因がすぐには」
「分からんのか」
「お許しを」医師は頭を垂れた。「このような症状は、私も長く見ておりません」
「食い物か」アルヴィスは吐き捨てた。「今朝の膳に、何か混じっていたのではないのか」
「厨房には、すでに人をやっております」医師は答えた。「今のところ、他に体調を崩した者はおりません」
「私だけがか」
「はい……殿下おひとりだけが」
その一言に、アルヴィスは口をつぐんだ。
「腹に何か、重いものでも」医師は診察を続けた。「近ごろ、食欲は」
「変わらん」アルヴィスは即座に答えた。「いつも通りだ」
「お疲れは」
「王太子に、疲れなど許されるものか」
医師はそれ以上踏み込まず、脈から手を離した。
「今日のところは、お休みを。粥と煎じ薬をお運びいたします」
「原因も分からぬまま、休めというのか」
「申し訳ございません」医師は再び頭を下げた。「今しばらく、お時間を」
医師が下がると、寝室にはセリカだけが残った。彼女は寝台の脇に腰かけ、水に浸した布をアルヴィスの額に当てた。
「怖かったですわ」セリカの声が震えていた。「殿下が急に……」
「大げさだ」アルヴィスは目を閉じたまま答えた。「すぐに治まる」
「本当に、大丈夫なのですか」
「私は王太子だぞ」
言った端から、その声に力がないことに、アルヴィス自身が気づいていた。
「セリカ」
「はい」
「お前の目にも、変わったことはなかったか。今朝の膳に」
一拍、間があった。ほんのわずかな間だった。
「……いいえ」セリカは布を絞りなおした。「わたくしも、同じものをいただきましたもの」
「そうか」
アルヴィスはそれ以上問わなかった。セリカの膝の上で、布を絞る手が、いつもよりわずかに強張って見えた気がしたが、体の重さがその印象をすぐに押し流した。
その夕刻、侍従長が老いた料理人を、寝室の前の廊下まで連れてきた。
王太子の膳を焼き林檎に仕立てた男が、開いた扉の向こうで床に膝をついている。
震える両手を、固く握り合わせていた。
アルヴィスは寝台に半身を起こし、その姿を見ていた。
「お前が調えたのだな」侍従長が詰問した。「殿下の膳を」
「へ、へえ……いつもと同じ手順にございます」
「証はあるのか」
「証などと言われましても……三十年、この城の厨房で」
「三十年粗相のなかった者が、なぜ今日に限って」
「わ、私には分かりません」料理人は額を廊下の石にこすりつけた。「どうか、どうか信じてくださいませ」
アルヴィスは、その様子を黙って見ていた。怒りをぶつける先が欲しかった。
「その者を、獄へ落とせ」
「殿下……」侍従長が寝室のほうへ向き直り、言葉を選んだ。「まだ、確たる証は」
「確たる証がなければ、私は原因不明のまま寝ていろというのか」
言い放ってから、アルヴィスは自分の声の荒さに、わずかに戸惑った。
「……もう良い。獄には落とすな。だが、二度と厨房に立たせるな」
「かしこまりました」
その裁きに、誰も異を唱えなかった。誰も、正しいとも言わなかった。
料理人が引き立てられ、足音が廊下の奥へ遠のいてから、アルヴィスは天井を見上げた。
あの料理人の顔に、覚えはあった。
三十年、変わらぬ味を出し続けてきた男だ。その男を疑うほかに、今の自分には何もできない。
その事実が、苦かった。
その日から、宮廷は落ち着きを失った。
医師が入れ替わり立ち替わり呼ばれ、脈を取り、舌を検め、薬湯を処方しては首をかしげて帰っていった。
誰ひとり、はっきりした答えを持ち帰る者はいなかった。
「悪い水を飲まれたのでは」
「気鬱の病かと」
「南方より流行りの熱病が」
噂だけが、廊下を勝手に歩き回った。誰の説も、次の日には否定された。アルヴィスの容体は、良くなるでもなく、決定的に悪くなるでもなく、ただ不気味に凪いだまま数日を刻んだ。
国王には、まだ詳しい病状は伏せられていた。世継ぎの不調が城外に漏れれば、宮廷はいっそう浮き足立つ——侍従長がそう囁くのを、アルヴィスは黙って聞いた。
父の耳に入る前に、自分の足で立ってみせねばならない。
その一心だけが、今の彼を寝台に縛りつけていた。
二日目、年配の顧問官が見舞いに訪れ、声をひそめて進言した。
「殿下。畏れながら申し上げます。これは……毒では」
「馬鹿を言うな」アルヴィスは即座に遮った。「私の食卓に、毒など出たことは一度もない」
「ですが、症状が」
「七年だぞ」アルヴィスは声を張った。「七年、私は毒見役に守られてきた。だが毒など、一度たりとも出なかった。それが答えだ」
「では、何が殿下を」
「知らん」アルヴィスは顔を背けた。「だが毒ではない。それだけは確かだ」
「せめて、新たな毒見役をお置きください」顧問官は食い下がった。「念のためにございます」
「要らん」アルヴィスは即座に撥ねつけた。「毒でないものに、毒見など無用だ」
顧問官は、それ以上何も言わずに退がった。だが去り際の一瞥に、疑いの色が残っていたのを、アルヴィスは見なかったふりをした。
三日目の夜、アルヴィスは夜半に目を覚まし、また舌の奥に、あの錆びた味を覚えた。
今度は血こそ出なかったが、寝台の帳をつかんだ指先から力が抜けなくなった。
「そういえば」
闇に向かって、誰にともなく呟いた。
「あの女がいた頃は、こんなことは一度もなかった」
言った瞬間、自分でもその言葉に驚いた。
毒見の女。陰気な目で、いつも器の底を見ていた女。あれが何を見ていたのか、アルヴィスは一度も尋ねたことがなかった。
飾りだと思っていたからだ。
「……くだらん」
アルヴィスは首を振り、その考えを追い払った。あの女がいようがいまいが、関わりのあるはずがない。
飾りの役目に、そこまでの意味を持たせてなるものか。
そう思おうとするほど、その錆びた味が、しつこく舌の裏に残り続けた。
四日目、新たに呼ばれた薬師が、粉薬の包みを卓に並べながら言った。
「胃の腑が、何かに絶えず苛まれているようなお脈です」薬師は帳面に何か書きつけた。「急に湧いた病というより……長のあいだ体の奥に少しずつ溜まっていたものが、何かの拍子に堰を切った。そんなふうにも見えます」
「溜まっていた、だと」
「あくまで、脈からの見立てにございます」薬師は慎重に言い添えた。「ここしばらくで、お住まいに変わったことは」
「変わったこと、か」アルヴィスは天井を見つめた。「特には」
「食事の作り手や、給仕の顔ぶれは」
「……変わった」
言ってから、アルヴィスは自分の答えに一拍遅れて気づいた。
「毒見の女が、下がった」
「ほう」薬師は帳面から顔を上げた。「その者は、いつから」
「私が、下がらせた」
その一言を口にする声が、思いのほか小さかった。
「毒見役が下がられた時期と、ご不調の始まりが近いのですね」
「関わりがあると言いたいのか」アルヴィスは語気を強めた。「毒見役など、膳をひと口食うだけの飾りだ。それ以上の何ができる」
「いえ、そこまでは」薬師は慌てて頭を下げた。「ただ、時期をうかがったまでで」
「時期など、たまたまだ」
アルヴィスは寝台に背を預け、それきり口を閉ざした。
薬師は帳面を閉じ、それ以上は問わずに退室した。
部屋にひとり残されて、アルヴィスは自分の言葉を頭の中で繰り返した。
――たまたまだ。
繰り返すほどに、その言葉は薄くなっていく気がした。
あの女を追い出してから、五日。吐血が始まって、五日。数えるともなく数えていた自分に気づいて、アルヴィスは舌打ちした。
五日目の朝、アルヴィスは寝台から半身を起こし、侍従に着替えを命じた。
「殿下、まだお休みを」
「いつまでも寝ていられるか」アルヴィスは苛立った声で遮った。「私を、病人扱いするな」
「ですが」
「俺は王太子だぞ」
思わず口をついて出た荒い一人称に、侍従は口をつぐんだ。
アルヴィス自身も、その響きにわずかに苛立ちを覚えた。
着替えを整え、広間へ降りると、居並ぶ臣下たちの視線が一斉に集まった。
心配というより、値踏みするような色を帯びた視線だった。
「殿下、ご無理を」侍従長が進み出た。「昨日のご容体を思えば」
「案じられるほど、やわではない」
その言葉を口にした瞬間、耳の奥で、別の日の自分の声が蘇った。
――毒など出ぬのだから、私はいつも無事だ。
あの謁見の間で、去っていく女の背に向けて放った言葉だった。
今、それがどうしようもなく空々しく響いた。
アルヴィスは首を振り、その記憶を振り払った。
「膳を運べ」
「殿下……」
「私は、いつも通りだと示す必要がある」アルヴィスは席についた。「臣下の前で、いつまでも寝間着でいられるものか」
セリカが隣に腰を下ろした。頬に、いつもより注意深い笑みが浮かんでいる。
「殿下、無理をなさらないで」
「無理などしていない」アルヴィスは匙を取った。「見ての通り、私は元気だ」
広間に集まった者たちへ、聞こえるように声を張った。
「毒見の女がいなくなったくらいで、私がどうにかなるとでも思ったか」
誰も、答えなかった。ただ、視線だけが交わされた。
匙を器に沈める。焼き林檎の甘い匂いが、今朝も立ちのぼっていた。
「見ろ。何ともない」
匙を口へ運びながら、アルヴィスは笑おうとした。
その笑みが、途中で凍りついた。
今度は、前触れもなかった。臓腑の奥がぐらりと傾き、匙を持つ手から力が抜ける。
膝が、椅子の上で崩れた。視界の端が、外側から白く食まれていく。
「殿下?」
セリカの声が、水の底から届くように遠い。
「な……」
卓の縁をつかもうとした手が、空を切った。アルヴィスの体は、そのまま前のめりに崩れ落ちた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回、初めて視点をアルヴィスに移しました。地の文が彼の認知だけに縛られることで、読者は真相を知りながら、彼だけが何も知らないまま倒れていく落差を味わえたのではと思います。「毒など出ぬのだから、私はいつも無事だ」――自分の言葉が自分に返ってくる瞬間を、改心にも気づきにもせず、ただの不気味な既視感として処理させることにこだわりました。傲慢はまだ罅割れただけで、砕けるのはずっと先です。
無実の料理人を疑ってしまう場面も、今回あえて書きました。原因が分からない恐怖は、人を優しくはしません。セリカの一拍の間、絞る手の強張り。アルヴィスにはただの心配にしか見えないその仕草に、何かを感じ取っていただけたら嬉しいです。
次話では舞台が再びオリヴィアの旅路に戻り、隣国メリディアの宰相ユリウスが登場します。彼女の毒に荒れた指先に気づく男が、隣国編の扉を開きます。
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