第6話: 最後の敬語
鐘が、二つ鳴った。
乾いた音が、街道の先から流れてくる。オリヴィアは足を止め、音のした方角へ目をやった。
土埃が、渇いた舌にざらついた。ふと、あの晩の鉄の味が、また口の奥に兆した気がして、思わず唾を飲む。気のせいであってくれ、と願った。
石造りの塔が、丘の向こうに覗いている。塔の上には、見慣れない紋の旗が翻っていた。青地に、白い鳥。
メリディアの国境だ、と分かるまでに、少し間があった。
塔の手前には、荷馬車と徒歩の旅人が長い列をなしていた。土埃の向こうに、槍を携えた門番が二人、塔の脇に立っている。
先頭で、商人らしき男が声を荒らげている。
「関税が去年の倍とは、どういう了見だ」
「規則です」若い役人の声には、抑揚がなかった。「払わねば、荷は通せません」
「足元を見おって」
「規則ですので」役人は繰り返した。
「毎年こうやって、こっちの首を絞める気か」男は帳面を指で叩いた。「去年もそう言った」
「去年は、去年の規則です」
「せめて、理由くらい聞かせろ」
「王都で、悪い病が流行ったそうです」役人は帳面から目を離さなかった。「荷を通す先々で確かめよ、とのお達しです」
「病と関税と、何の関わりがある」
「さあ」役人は肩をすくめた。「上のお考えは、私には分かりかねます」
「病だか関税だか知らんが」男は財布を探りながら毒づいた。「こっちは商売あがったりだ」
「それも、規則の外のお話です」役人は受けた。
男は舌打ちし、渋々、財布の紐をゆるめた。列は、また少しずつ進みはじめる。
荷馬車の轍が、これまで歩いてきた道とは違う深さで、地面に刻まれていた。多くの荷が、この一本の道を越えていく証だった。
オリヴィアは荷を担ぎなおし、最後尾に並んだ。日はすでに高く、街道の土が白く乾いている。
旅籠を発ってから、幾日が過ぎたのか、正しくは数えていなかった。足の裏の熱だけが、日数の代わりだった。
列の後ろにも、じきに何組かの旅人が続いた。誰も、オリヴィアの様子には目を留めなかった。
それが、むしろ楽だった。城にいたころは、指先の震えひとつで誰かの目が動いた。ここでは、震える指も、ただの旅人の指だ。
列は、思ったより長く伸びていた。荷馬車の陰で、子どもが退屈そうに石を蹴っている。
前の方で、旅装の若者が老女の手を握っていた。母か、祖母か。背格好からは判じがたい。
「行っておいで」老女が言った。「達者でな」
「必ず、便りを書きます」若者は言った。「どうか、お元気で」
「便りより先に」老女は笑った。「まず、体が達者でおいで」
「分かっています」若者は苦笑した。「毎回、同じことを言いますね」
「毎回、言い足りないからだよ」老女は若者の背を軽く叩いた。
「向こうに着いたら、まず宿を決めるんだよ」老女は続けた。「歩き詰めで倒れちゃ、元も子もない」
「分かっていますって」若者は笑った。「子ども扱いしないでください」
「何歳になっても、子どもは子どもさ」老女は目を細めた。
「向こうで、うまくやれるでしょうか」若者がふと、声を落とした。
「やれるさ」老女は迷いなく言った。「お前は、やれる子だよ」
「……はい」
その一言が耳に触れた瞬間、息が一瞬、喉に閊えた。
——どうか、ご無事で。
自分の声で、同じ響きが蘇る。
若者は老女の手を離し、列の先へ歩いていった。老女は、姿が見えなくなるまで、その背を見送っていた。
誰かに向けて放たれた言葉を、誰かがちゃんと受け取っている。
それだけのことが、今のオリヴィアには、ひどく遠いことのように見えた。
もし今、同じ言葉を誰かに向けたなら。受け取る手は、もう、どこにもない。
——それは、謁見の間でのことだった。
「お前との婚約を、今日をもって解く」アルヴィスは言った。「毒見の女など、もう用済みだ」
その一言が、広間の高い天井によく響いた。オリヴィアは頭を垂れ、それを受けた。
広間の隅で、扇の陰の声がひとつ、低く笑った。
「毒見の女が、とうとう」
「潮時だったのでしょう。七年も、よく続いたこと」
「殿下は本当にお優しいわ」セリカが笑った。「七年もよく我慢なさったこと。わたくしなら、とても続きませんわ」
「我慢とは、思っておりません」オリヴィアは答えた。「役目、と」
「ねえ、最後にひとつだけ教えて」セリカが一歩、間を詰めた。「あなたはこの七年、殿下の器のなかに何を探していらしたの」
「探しものなど、ございません」オリヴィアは答えた。「毒見役の目は、ただ膳を見るだけにございます」
「ふふ、そう」セリカは睫毛を伏せた。「見るだけ。それなら、もう見なくていいのね」
「はい」オリヴィアは答えた。「もう、見る役目はございません」
「話は済んだな」アルヴィスが退屈そうに言った。「下がってよい」
「かしこまりました」
礼をして下がろうとした、そのときだった。
喉の奥が一度、つまった。指先が帯をきつく握っていた。七年こらえてきた何かが、意志より先にほどけた。
「……どうか、ご無事で」
敬語の指のあいだから、素の願いがひとつだけこぼれ落ちた。
「無事も何も」アルヴィスは笑った。子どものように屈託のない笑みだった。
「毒など出ぬのだから、私はいつも無事だ」
その言葉に、オリヴィアは何も返さなかった。もう一度だけ礼をして、上段に背を向けた。
「お元気でね」セリカの声が、背に届いた。「あなたのぶんまで、殿下をお守りするわ」
守るということが、どれほどの苦さを飲み下すことか。あの令嬢は、たぶん知らない。
あれが、最後だった。
七年間、かぶり続けてきた役目の声——凪いだ敬語。
あの朝、それを最後に使い切った。誰の器の毒も見なくなった今、あの声を差し出す相手は、もうどこにもいない。
「……もう、敬うべき方がいない」
声にすると、思いのほか小さかった。列に並ぶ誰も、その呟きに気づかなかった。
鐘の音が、また一度鳴った。列が短くなっていく合図らしい。
オリヴィアは、荷の紐を握りなおした。
ここまでの道すがら、役目の声は幾度も勝手に喉から出かけた。
安宿の女将に。行商人に。宿の主人に。道を尋ねた見ず知らずの誰かに。
丁寧な物言いは、体に染みついた癖だった。「かしこまりました」「お気遣いには及びません」——七年、殿下ひとりに向けて磨いてきた言葉が、今は見知らぬ誰にでも垂れ流される。
昨夜の宿の主人にも、そう答えた。「……ご忠告として、うかがっておきます」
幾日か前の宿の女将には、「もう何者でもありません」とだけ答えた。
癖が出るたび、オリヴィアはそれを、少しだけ気味悪く思った。
仕える相手のいない敬語は、もはや誰のためのものでもない。ただの、抜け殻の言葉だ。
それでも、口をついて出てしまう。七年は、そう簡単には剥がれてくれない。
指先には、まだ薬草と毒に荒れた跡が残っている。役目は消えても、体は消えてくれなかった。
列の少し先で、幼い子どもがオリヴィアの荷を珍しそうに覗きこんでいた。
「ねえ、その瓶なあに」
「……お薬にございます」
言ってから、オリヴィアは自分の言葉に驚いた。
「ふうん」子どもは興味を失ったように、母親の背に隠れた。
「すみませんね」母親が子を抱き寄せた。「詮索が過ぎて」
「いいえ」オリヴィアは首を振った。「気に、なさらず」
誰にでもかしこまる。それは礼儀ではなく、抜けきらない癖だった。
列がまた進んだ。前に並んでいた家族連れが、書類を差し出した。
「四人か」役人が言った。
「はい。子どもが三人と」父親が答えた。
「通れ」
簡単な問答だけで、一家は木戸を抜けていった。
商隊の一団が、荷の中身を役人に開けて見せていた。役人は帳面に何か書きつけ、印を押した。
「これで全部か」役人が言った。
「全部だ」商人頭が答えた。「余さず見せた」
「奥の樽は」
「薬酒だ。売り物じゃない」
「開けろ」役人は言った。「規則だ」
商人頭は舌打ちしながらも、樽の蓋を外した。役人は中を覗き、帳面に何か記した。
「これで最後か」役人は樽を覗いたまま言った。
「あと二つ、荷車に積んでいる」商人頭は言った。
「それも、開けろ」
「毎度、律儀なことだ」商人頭はぼやいた。
無駄口はひとつもない。淡々と、決められた手順だけが進んでいく。
列の後ろで、若い荷運びの男が仲間にぼやいていた。
「向こうじゃ、腕さえ見せりゃ通るって話だったのに」
「見せる前に、まず関税だろうよ」仲間が肩をすくめた。
「そりゃそうだ」若い男は笑った。「タダで通してくれる国なんぞ、聞いたことがない」
「それでも、行くんだろ」仲間が言った。
「行くさ」若い男は荷を担ぎなおした。「ここにいたって、どうにもならん」
その言葉に、オリヴィアは何も言わなかった。ここにいたって、どうにもならない——その一言だけが、なぜか胸の奥にも、小さく響いた。
やがて、オリヴィアの番になった。
「名を」役人は目も上げずに言った。
「オリヴィアと申します」
「連れは」
「おりません」
「目的は」
「メリディアで、働き口を探します」
役人は筆を止め、初めて顔を上げた。値踏みするような目ではなかった。ただ、書きつける事実を確かめる目だった。
「職は」
一拍、迷った。伯爵家の娘とも、元毒見役とも、もう名乗れない。
「薬師です」
「証は」
「持ちません」正直に答えた。
「生まれは」役人は帳面を繰った。
「アルデニアです」
「その先は」
「……申せません」
役人は一瞬、筆を止めた。だが、それ以上は問わなかった。
「まあいい」役人は帳面に何か書きつけた。「なら、通行税だ。セン銅貨で、三十」
オリヴィアは懐から巾着を取り出し、数えて渡した。手の中に残った銅貨は、もう片手で足りるほどだった。
役人は銅貨を受け取り、帳面の重しの下に収めた。顔色にも、声のかすれにも、一瞥もくれなかった。
「ずいぶん、切り詰めているな」役人は帳面から目を上げずに言った。
「……道は、長うございますので」
「食う物は、足りているのか」役人は帳面をめくった。
「……いえ」オリヴィアは正直に答えた。「ですが、じきに働きます」
「そうか」役人は頷いた。「なら、いい」
「荷を開けろ」役人は言った。「その瓶は」
「旅の常備薬です」
「開けて見せろ」
オリヴィアは栓を抜き、瓶の口を役人へ向けた。
「薬湯にしては、量が心もとないな」役人は鼻を鳴らした。
「じきに、切れます」
「切れたら、どうする」
「……探します。こちらで」
役人は興味なさげに頷き、瓶を返した。「なら、急ぐことだ」
「……はい」
「メリディアで薬師を探すなら」役人は次の帳面を引き寄せた。「宮の薬院が、人を募っていると聞いた。腕があるなら、行ってみることだ」
「……ご親切に」
「親切じゃない」役人は顔も上げなかった。「事実を言ったまでだ」
「次」
ただ、それきりだった。案じる言葉も、労いの一言もない。ただ、通していいかどうかの判断だけがある。
その素っ気なさに、オリヴィアは、なぜか少しだけ息がしやすくなった。
木戸をくぐる手前で、足を止めた。
荷の底の硝子瓶を、指で軽く振ってみる。薄めた灰塵は、あと七日分あるかどうか。
尽きたとき、何が起きるのか。祖母もまた、そこから先は語らなかった。
瓶を荷の奥へ沈めた。答えのない問いを抱えたまま、進むしかなかった。
証もない、家名も名乗れない女を、役人はそれでも通した。職は何か、それだけを問うて。
伯爵家の娘であるかどうかを、誰も尋ねなかった。毒見の女、とも呼ばれなかった。
そのことが、オリヴィアの胸に、小さな灯りのように点った。根拠のない希望だった。それでも、灯りは灯りだった。
木戸の内側、街道の敷石の中央に、一つの石が埋まっていた。片側は白く、片側は灰色に磨り減っている。
国境石だ、と気づいた。左右で、土の色さえ違って見えた。
隣で、誰かが荷を担ぎなおす気配がした。振り向くと、さきほどの若者が、同じように石の前に立っていた。
「あなたも、メリディアへ」若者が言った。
「はい」
「国境を越えたら、道はどちらへ」若者が尋ねた。
「まだ、決めておりません」
「私は南の町へ。叔父の鍛冶を、継ぐことになっていて」若者は少し誇らしげに言った。「五年、修業してきました。ようやく一人前と、認めてもらえたんです」
「……おめでとうございます」
「あなたは、何をしに」
「薬を、少し扱います」
「へえ」若者は目を輝かせた。「なら、道中で誰か倒れても安心だ」
「……買いかぶりです」
「そうかな」若者は笑った。「では、お気をつけて」
そう言うと、先に石を踏み越えていった。
「……お気をつけて」
自分の声で返した、その短い言葉が、思いのほか軽く出た。役目の声ではなかった。
役人は次の旅人へ目を移していた。もう、こちらを見てはいなかった。
舌の先で、いつもの言葉が形を取りかけた。
——長らく、お世話になりました。
だが、それは声にならなかった。相手は見ず知らずの役人で、七年仕えた誰かではない。
言う必要のない敬語を、オリヴィアは初めて、飲みこんだ。
飲みくだした言葉は、喉のなかばで一度ひっかかり、それから、すっと下へ落ちていった。七年ぶんの重さのわりに、あっけないほど軽かった。
頭を垂れる癖さえ、今は、ついてこなかった。
右足を、石の上に乗せる。左足も、続いた。
境界石を踏み越えた瞬間、背後で鐘が一度だけ鳴った。開くときの二つとは、違う音だった。
振り返らずに、オリヴィアは歩き出した。土の色が、足の下でわずかに変わっている。
踏み込んだ先の土は、これまでと違う匂いがした。乾いた埃に、かすかな青草の湿りが混じっている。舌の奥に居座っていた旅の乾きが、その匂いに触れて、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
凪いだ敬語も、匙も、盆に置いてきた。今この足が向かう先に、まだ何が待っているかは分からない。
街道はまだ、遠くまで延びていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は、EP2で一度だけ漏れた「どうか、ご無事で」を、旅の途中で振り返る話にしました。オリヴィアにとってあの一言は、七年かぶり続けた役目の敬語を、最後に誰かへ差し出した瞬間だったのだと思います。役目を失った今、その声を向ける相手はもういません。それでも体は忘れてくれない——宿の主人にも、道行く役人にも、つい丁寧な言葉が出てしまう。その癖の気味悪さを、今回はできるだけ正直に書きました。
関所の役人をあえて事務的な人物にしたのは、オリヴィアの体調や身の上を誰も気にかけない場所を作りたかったからです。証も家名もいらない、できることだけを問われる関所を抜けたとき、彼女が最後に敬語を飲みこんで沈黙を選ぶ場面が、今回いちばん書きたかった一行でした。
次話では舞台が城側に移り、王太子アルヴィスの吐血が始まります。オリヴィアが去った代償が、ようやく誰の目にも見える形で表れます。
☆評価・ブックマーク・感想が、続きを書く大きな励みになります。ここまでお付き合いくださって、本当にありがとうございました。




