第44話: 今朝も、問題はございません
今朝の茶には、蜂蜜の匂いしかしなかった。
オリヴィアは湯気の向こうに匙を差し入れ、それでもわずかに鼻を寄せる。
舌の奥に、もう何も引っかからない。ただの茶と、ただの蜂蜜だった。
薬院に籍を移してから、季節がひとつ巡っていた。
震えはこの数ヶ月でもう戻らなくなり、めまいも今はごくまれにしか来ない。
その動きに、卓の向かいでユリウスが顔を上げた。
「まだ、その癖が抜けないか」
「……申し訳ございません」オリヴィアは匙を置いた。「体が、先に動いてしまいます」
「謝ることじゃない」ユリウスは自分の茶器を持ち上げた。「七年分の癖だ。半年やそこらで消えるほうがおかしい」
宰相府本館の一室に、朝の光が斜めに差し込んでいた。窓の外では庭師が生垣を刈る音が規則正しく響いている。
パンの焦げた匂い、蜂蜜の甘さ、それに彼の飲む茶の渋み——どれも罪のない、ただの朝の匂いだった。
ハルダの言葉を借りれば「七年分にしては、上出来の治り方」だという。
「この指は」オリヴィアは荒れた指先を見た。「もう元には戻りませんが、薬草を扱う手にはむしろよく似合っております」
アルデニアからは、この数ヶ月で二度、便りが届いた。
一度目は典礼官ヴォルフから、季節の挨拶にことよせた短い文。二度目は差出人のない一行だけの走り書きで、静養先の地名だけが記されていた。
アルヴィスの名は、どちらにもなかった。返事を書く手は、以前ほど迷わなくなっていた。
毒見役の証だった銀の匙は、もう手元にない。城門で盆に返した、あの日限りだった。
今、彼女の指にあるのは、傾いた天秤を刻んだ指輪だけだ。
パンの皿に手を伸ばしかけて、彼女はふと止まった。指先が、皿の縁に触れる。
かつてこの指は、皿を自分の側へ引き寄せるためだけに動いた。誰にも気づかれないよう、器をすり替えるために。
今日、その指は逆へ動いた。皿を、ほんのわずか、ユリウスの側へ押し出す。
「こちらの焼き加減のほうが、よろしいかと存じます」
「見ただけで分かるのか」ユリウスは片眉を上げた。
「勘です」オリヴィアは目を伏せた。「昔取った、杵柄の」
ユリウスはその皿を受け取り、口の端をわずかに緩めた。
「悪くない勘だ」
「……」
同じ所作の、正反対の意味。誰も気づかない小さな違いだったが、彼女自身は、その違いをはっきりと知っていた。
「三日後だったな」ユリウスが言った。「支度は」
「ハルダ様が」オリヴィアは茶器を両手で包んだ。「薬草園の花を使うと譲りません」
「聞いている」ユリウスは苦笑した。「白い花を選んでいるらしい。あれは毒消しにも使う花だと、自慢げに言っていたそうだ」
「らしい方です」
「テオは」ユリウスは続けた。「カイを連れてくると言って聞かない。当日は静かに、と伝えても無駄だろうな」
「無駄でしょう」オリヴィアは小さく笑んだ。「あの子も、来たがっていますから」
薬院で救った少年は、この一月で見違えるほど声を張るようになった。廊下ですれ違うたび「先生」と呼ぶ声が、以前より高く弾む。
「身内は、これから作ればいいと」オリヴィアは呟いた。「以前、そう仰いました」
「覚えているか」
「忘れません」オリヴィアは茶器を置いた。「あの言葉を、ずっと考えておりました」
「三日、答えを出すには十分だったか」
「はい」オリヴィアは頷いた。「わたしの身内は、もう決まっております」
その言い方に、ユリウスは何も返さなかった。ただ、彼女の器へ目をやり、また彼女自身へ視線を戻しただけだった。
窓の外で、生垣を刈る音がまだ続いていた。
三日後、朝より少し遅い時刻。庭の泉のほとりに、四つの人影があった。
石の縁には、白い花が無造作に束ねて置かれている。棘のない小さな花で、香りは強くないが、鼻を寄せると奥にわずかな苦みが混じっていた。
ハルダの選んだ花だった。
「あんたの婚礼に、花くらい持ってこないでどうする」ハルダは束を示した。「これはね、傷を洗う時にも使う花だよ。祝いにも、洗いにも効く。ちょうどいいだろう」
「ちょうどいい、でしょうか」
「文句あるのかい」
「いいえ」オリヴィアは首を振った。「よく、似合います」
テオは小さな折り畳みの卓を運び入れ、その上に一枚の紙と、蝋の塊、蝋を溶かすための小さな燭台を並べた。
国の婚姻に儀礼らしい儀礼がないことは、以前ユリウスから聞いていた。証となるのは紙一枚と、二人の名だけだという。
「先生」カイが花の陰から顔を出した。手には、庭のどこかで摘んできたらしい小さな野の花が握られていた。「これも、置いていい」
「もちろんです」
少年は白い花の束の隣に、その一輪をそっと添えた。不揃いな花が、束の端で少しだけ傾いだ。
「誓いの言葉は」ユリウスが紙の前に立ち、皆を見渡した。「この国にはない。代わりに、証を立てる」
「証、ですか」オリヴィアは尋ねた。
「働きを見た者が、それを言葉にする」ユリウスは答えた。「血筋でも、家格でもない。それが、この国のやり方だ」
彼は先にハルダを見た。
「あんたに言われるまでもなく」ハルダは腕を組んだ。「ここへ来てからずっと、あたしはこの目で見てきた。倒れかけても薬院の戸をくぐる女を。名も出さず毒を見分けてきた女を。姿の見えないところで働く者を、あたしはこの歳まで何人も見てきたが」
ハルダは一拍、言葉を切った。
「ここでは、それを見逃さない」
オリヴィアは、その一言に息を止めた。
——あれは、まだアルデニアにいた朝のこと。
王太子の器から灰塵の後味を拾い、誰にも告げず匙を置いた、幾百とある朝のひとつ。誰も彼女の手元を見なかった。見る必要すら、感じていなかった。
見逃さない、という言葉が七年間欲しくて、けれど求めることさえ許されなかったものだと遅れて分かった。
あの朝の静けさが、今この泉の水音に重なって、ようやく退いていった。
「テオ」ユリウスが次を促した。
「俺は、そんな立派なことは言えないっすけど」テオは頭をかいた。「あの日、震えてても止まらなかった先生の手を俺は覚えてます。あれは、誰にでもできることじゃない」
テオは少し照れたように鼻の下をこすった。
「先生って呼ばれる度に、まんざらでもなさそうな顔するんすよ。俺、あれ見るの結構好きでした」
「そのような顔は」オリヴィアは目を伏せた。「していないと思います」
「してた」テオとハルダが同時に言った。
オリヴィアは口をつぐんだ。反論する余地がなかった。
「僕は」カイが小さく手を挙げた。「先生がいなかったら、死んでました。それだけです」
その一言に、大人たちが皆、わずかに黙った。
子供の言葉は飾りがない分、まっすぐに届く。オリヴィアは目を伏せ、瞬きを一度だけ多くした。
「気づいてほしくて、やってきたわけではありませんでした」オリヴィアは静かに言った。「ただ、そう言っていただけると——」
言葉の続きが、見つからなかった。
見つからないまま、それでよかった。全部を言い切る必要は、もうなかった。
「証は、立った」ユリウスが言った。「あとは、名だ」
彼は紙にペンを走らせ、次に彼女へペンを渡した。
オリヴィアは紙の上に、自分の名を綴った。
「オリヴィア・レイヴンズクロフト」
書きながら、口の中でも一度なぞる。名を書く手は、荒れた指先のまま、震えなかった。
ユリウスは蝋を垂らし、懐から取り出した印を押しつけた。彼女の指輪と対にして新しく作らせた、もう一つの証だという。傾いた天秤の意匠が、紙の上に淡く浮かぶ。
「均衡じゃない」ユリウスは印を見つめた。「二人でどちらへ傾くかを決めた、という証だ」
「傾いた先が」オリヴィアは紙を見下ろした。「同じ方角で、ようございました」
「同じでなければ」ユリウスは彼女を見た。「私が合わせるだけだ」
その返し方が、いかにも彼らしかった。
「終わったのかい」ハルダが卓の上を覗き込んだ。「じゃあ、飯にしよう。花より団子だよ、こういうのは」
「花もいただいたのに」オリヴィアは苦笑した。
「花は目、飯は腹だ」ハルダは笑い飛ばした。「両方要る」
薬草園の陰に用意されていたのは、質素な卓だった。焼いたパンと、干し肉と、薬院で使う茶葉を混ぜた甘い飲み物。
式にしては、あまりに簡素だったが、誰もそれを物足りないとは言わなかった。
「先生、これからも薬院にいますか」カイがパンを頬張りながら尋ねた。
「います」オリヴィアは頷いた。「今までと、変わりません」
「よかった」カイは心底ほっとした顔をした。「じゃあ、また倒れそうになったら呼ぶから」
「呼ばれない体でいたいものです」
「無理な話だね」ハルダが横から口を挟んだ。「あたしも若い頃、根を詰めすぎて倒れたクチさ。あんたを叱れる立場じゃない」
「三月、寝台から起きられなかったと、伺いました」オリヴィアは言った。
「よく覚えてるね」ハルダは鼻を鳴らした。「働き者は皆、似たようなしくじりをする。だから、倒れる前に周りが止めるんだよ。あんたには、それができる連中がもういる」
テオが噴き出し、ハルダも肩を揺らした。ユリウスだけが、静かに茶器を傾けている。
その笑い声の輪の中に、自分がいることが、まだ少し不思議だった。
「不思議です」オリヴィアは呟いた。「誰にも気づかれずに務めた七年前の朝と今この笑い声の中にいる自分の間に、道筋があったのだと思うと」
「あったんだよ」ハルダが茶器を掲げた。「その道の途中に、あたしらがいただけさ」
その翌朝、光の差し方は昨日までと変わらなかった。
オリヴィアは寝台から起き上がり、指の付け根に触れた。冷たい金属の感触に、指輪はまだ馴染みきっていなかった。
それでも、外そうとは思わなかった。
朝の卓には、いつもと同じ茶とパンが並んでいた。
「今朝は」ユリウスが向かいの席に着いた。「変わりないか」
王太子が七年間、毎朝同じ言葉を投げてきたことを思い出す。
あの声には退屈と、わずかな棘があった。目の前の声には、それがない。
「変わりない、と申しますと」オリヴィアは匙を手に取った。
「食事の話でも」ユリウスは彼女を見た。「それ以外の話でも」
オリヴィアは匙を茶に沈め、香りを確かめた。蜂蜜と、茶葉の渋みだけが立ちのぼる。舌の奥に、もう何も潜んでいない。
かつて七年、彼女はこの問いに嘘で応えてきた。
器の底に何が沈んでいるかを知りながら、平らかな声で異常なしと告げてきた。
今、器の底には何もない。答えるべき嘘も、隠すべき事実もなかった。
「今朝も」オリヴィアは顔を上げ、ユリウスを見た。「問題はございませんでした」
声は、乱れなかった。だが、その凪ぎ方は、七年前とは違う凪ぎ方だった。
あの頃の凪ぎは、何かを押し殺すための凪ぎだった。今の凪ぎは、何も押し殺すもののない、ただの朝の声だった。
「そうか」ユリウスは短く答え、パンに手を伸ばした。
「今日は」オリヴィアは尋ねた。「薬院に出ても、よろしいでしょうか」
「もちろんだ」ユリウスは頷いた。「昨日、休んだ分だけだろう」
「休んだ分、ですか」
「休ませたのは私だ」ユリウスは平然と答えた。「文句は受け付けない」
「文句は」オリヴィアは笑いをこぼした。「ございません」
窓の外、庭の薔薇が朝日を受けて咲いていた。庭師が枝を整えながら、蕾のひとつを大事そうに支えている。
切り落とされる枝も、萎れていく花もなかった。
オリヴィアは茶をひと口飲み、匙を置いた。
誰にも気づかれない朝が、七年続いた。
そして今、誰かが必ず気づいてくれる朝が、これから始まろうとしていた。
その違いだけで、十分だった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この44話をもって『毒見の女など用済みだ』と婚約破棄された私が伯爵家を去った翌朝、王太子は毎日吐血するようになった、完結です。
この作品は、最初「気づかれない献身」というテーマ一つから生まれました。誰にも見えないところで人を守り続けた女の子が、その努力を一切語らないまま切り捨てられる。そこから始めて、彼女がもう一度「気づいてもらえる場所」を見つけるまでを書きたいと思っていました。だから最終話は、最初から「今朝も、問題はございませんでした」で終わると決めていました。1話と同じ台詞を、今度は誰も隠すもののない朝に言わせる。そのために43話分を積み上げてきたようなものです。
もう一つ、書きながらずっと大事にしていたのは「気づく男と気づかない男」の対比でした。アルヴィスは最後まで完全な悪人にはしませんでしたし、逆にユリウスも万能の王子様にはしませんでした。ただ「見ようとしたか、しなかったか」、その一点だけで二人を分けたつもりです。最終話でハルダやテオ、カイに彼女の七年を言葉にしてもらったのも、誰か一人の愛情だけでなく、周りの人間の目によっても献身は肯定されるものだと書きたかったからです。
オリヴィアという主人公は、最後まで大声で泣かせず、大げさに喜ばせず、凪いだ敬語のまま歩かせました。それが彼女らしさだと思っていたので、そこは意識して最後まで崩しませんでした。
全44話、長い連載でしたが、ここまでお付き合いいただき本当にありがとうございました。評価やブックマーク、感想の一つひとつが、この物語を最後まで書き切る力になりました。次の作品でまたお会いできたら嬉しいです。
オリヴィアとユリウスの物語は、ここで終わります。




