第43話: 気づかれた献身
紙の匂いは、蝋の匂いより先に届いた。
古紙特有の、埃と乾いた木の香り。その奥に、書き足されたばかりの墨のにおいが薄く混じっている。
オリヴィアは執務室の卓に置かれた木箱を見つめたまま、しばらく手を伸ばせずにいた。
朝のうちに、宰相府へ使者が着いたと聞いた。
アルデニアの御用の間からの、正式な届け物だという。
執務室に呼ばれたとき、卓の上にはすでに黒っぽい蝋で封じられた木箱が置かれていた。
朱ではない。あの夜の書状とは、蝋の色からして違っている。
「アルヴィス殿下の私印ではない」ユリウスが箱の封を示した。「御用の間の触れ印だ」
「では、公のものですね」
「表向きは」ユリウスは頷いた。「中身までそうとは限らない」
箱を開けたのはユリウスだったが、中の紙に手を伸ばしたのはオリヴィア自身だった。
束になった書き付けの一番上に、一枚だけ薄い紙が添えられていた。
書役の筆跡らしい、几帳面な小さな文字が並んでいる。
「これは」オリヴィアは目を落とした。
差出人は名乗らず、ただ役目だけを記していた。御用の間、書役、とだけ。
文面は短かった。
殿下のご命令により、洗い場の綴じ帳および届け・願いの写しを謹んで整え申し上げる。写す途中、ある一葉の余白に、公の記載でない書き込みを見つけた。処分すべきか迷ったが、殿下のお言葉に「消させるな」とあったため、そのままお届けする。
文の終わりに、一行だけ付け足しがあった。
筆の主は、おそらく——と書きかけ、そこで一度墨がにじみ、書き直した跡があった。
典礼官ヴォルフ様であろうと存じます。近年の触れに残るお手蹟と見比べ、同じ癖の跳ねを見つけました。かつて御用の間に籍を置かれていたと、古参の者から聞き及んでおります。
オリヴィアは束を繰る手を止めた。
「ヴォルフ、様」
口の中で、その名を確かめた。
七年前、御用の間に籍を置いていた男。今は典礼と宮内を預かる、宮廷でも上位の徽章を持つ人物。
その男が、かつて自分に毒見役への復職を持ちかけたことがあった。
自分の指先を見て、何かを測り直したような目をしていたことも。
「覚えている顔か」ユリウスが尋ねた。
「はい」オリヴィアは頷いた。「わたしが城を発つ前、話をした方です」
束を繰る指が、目当ての一葉で止まった。
罫の引かれた古い形式の紙に、公の文字で「盆の番、日替わりに改めるべしとの届け出、これを受理す」とあった。
二年前の秋、日付が読めた。
その脇、余白に細く小さな文字が添えられていた。
公の記載とは明らかに筆の勢いが違う。急いで、誰にも見せるつもりのない字で書かれたものだった。
「盆の番、日替わりに改められし後、器を検める目が一つ減った。誰か気づいているのか」
声に出して読んだつもりはなかった。だが唇が動いていたのだと、遅れて気づいた。
その一文だけを、何度も目でなぞった。
「一つ減った、目」オリヴィアは呟いた。「これは——」
言葉が続かなかった。
盆の番が日替わりに改められた日から、器に触れる手は毎日入れ替わり、誰が何を見たのか誰にも辿れなくなった。
同じころ、五年勤めた盆番の一人が理由も告げられず暇を出されている。
「わたしは、長く経ってからようやく気づきました」オリヴィアは呟いた。「この方は、その時にもう気づいていたことになります」
「誰か気づいているのか、と」オリヴィアは繰り返した。「自分に問うていたのでしょうか」
「あるいは」ユリウスは彼女の手元をのぞき込んだ。「誰かに問いたかったが、問える相手がいなかったのかもしれない」
その見立てのほうが、字の勢いには合っている気がした。
書き殴られた線の震えは、迷いよりも、行き場のない苛立ちに近かった。
——あのとき、北棟の裏手で。
ヴォルフの声が、耳の奥で不意によみがえった。
柱の陰でない、ただの裏手だった。徽章の光が、日の陰った回廊で鈍く沈んでいた。
「七年、その体を削って務めたと聞きました。城は気づかず、あなたを追い出した。今さら重いと呼んでも、体は戻らない。分かります」
話は早いと返した自分に、彼はかすかに首を振った。
「早くはありません。分かったところで、私に埋められる穴ではない」
あの一言を、あのときは単なる詫びの言葉だと聞き流していた。
埋められる穴ではない、という言い方に、これほどの重みがあったとは思っていなかった。
——回廊の日陰から、執務室の卓上へ、視線が戻ってきた。
あの言葉の裏に、二年越しの後悔が眠っていたのだと、今になって分かった。
「気づいて、いたのですね」オリヴィアは紙を見つめたまま言った。「誰も、気づいていないと思っていました」
「一人だけ、いたということだ」ユリウスは目を伏せた。
その一人は、何もしなかった。
できなかったのか、しなかったのか、今となっては確かめようがない。
告発すれば手口を変えられる、と自分に言い聞かせて沈黙を選んだ、あの十二歳の自分と同じ理屈が、この余白のどこかにも潜んでいる気がした。
「腹立たしく、思われますか」ユリウスが尋ねた。
「分かりません」オリヴィアは正直に答えた。「嬉しい、というのとも違います」
喉の奥が、古紙の乾いた匂いでちりついた。
「気づいていながら何も言わなかった人が、一人いた」オリヴィアは続けた。「それだけで七年が軽くなるわけではありません」
「だが」
「でも」オリヴィアはユリウスを見た。「一人もいなかったよりは、いてくれたほうが——」
言葉の途中で、続きが見つからなくなった。
完全な慰めでもなく、完全な虚しさでもない場所に、その感情は落ち着こうとしていた。
「その辺りで、いいと思う」ユリウスが言った。「無理に名前をつけなくていい」
名前をつける必要はない、という一言が、思いのほか胸に馴染んだ。
「殿下は」オリヴィアは書役の文を指でなぞった。「この方の名を、あえて伏せずに書かせたのでしょうか」
「その気配はある」ユリウスは頷いた。「消させるなという命令一つで、書役はここまで律儀に応えた」
「律儀、ですか」
「怯えている律儀さだ」ユリウスは口の端をわずかに上げた。「殿下のご命令の重みが、まだ効いている証拠だろう」
その皮肉げな言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
「ヴォルフ様に、お礼を申し上げるべきでしょうか」オリヴィアは尋ねた。
「気持ちがあるなら、書けばいい」ユリウスは言った。「無理に感謝を差し出す必要はないが」
「何を書けばいいのか、まだ分かりません」
「今日、決めなくていい」ユリウスは書き付けの束を箱へ戻し始めた。「時間はある」
彼の手が箱の蓋を閉じる音が、思いのほか静かに響いた。
「一つだけ」オリヴィアは箱を見つめたまま言った。「確かなことがございます」
「何だ」
「気づかぬふりをする人と、気づいて動けなかった人は違います」オリヴィアは言った。「わたしはずっと、その違いを考える機会すらありませんでした」
考える機会がなかった、というのは、七年の間ずっと自分一人がその重さを抱えていたからだった。
抱える相手が、実はもう一人いたと知ったところで、荷は今さら軽くならない。
それでも、抱えていたのが自分だけではなかったという事実は、確かにそこにあった。
「顔色が、戻ってきたな」ユリウスが言った。
「そう見えますか」
「先ほどより、いくらか」
窓の外で、夕刻を告げる鐘が鳴り始めていた。
その音に紛れて、宰相府の使いが戸口に姿を見せた。
「閣下」使いは膝をついた。「本日の御用は以上でございます。あとは——」
「分かっている」ユリウスは短く答えた。「あとは、私が決める」
使いが退がると、部屋には二人だけが残った。
「今夜」ユリウスは立ち上がりながら言った。「日が沈んだら、庭の泉へ来てもらえないか」
「また、あの場所ですか」オリヴィアは顔を上げた。
「話しておきたいことが、もう一つある」ユリウスは言った。「今度は、私からの合図だ」
その口ぶりに、いつもと違う何かが混じっていた。
問い返す間もなく、ユリウスは書き付けの箱を抱えて先に部屋を出ていった。
庭の小径に、夜咲きの花の香りが漂っていた。
あの日と同じ香りだった。
香りの先、泉のほとりに一つだけ灯りが揺れている。
石の縁に、ユリウスが立っていた。座らずに立っているのは、初めてのことだった。
「ユリウス様」
「今夜は」ユリウスは振り返った。「役目の話ではない」
水面に星が映り、風が渡るたびに崩れては戻っていた。
「この国には」ユリウスは水面から目を上げた。「婚姻に、儀礼らしい儀礼がない」
「存じております」オリヴィアは頷いた。「実力主義の国だと、伺いました」
「血筋も、後ろ盾も要らない」ユリウスは続けた。「要るのは、二人がそう決めることだけだ」
彼が懐から取り出したのは、小さな布に包まれた品だった。
布を開くと、細い指輪が現れた。
装飾は最小限で、台座に小さな印が刻まれている。
「これは」オリヴィアは目を落とした。
「私個人の印だ」ユリウスは答えた。「宰相としてでなく、一人の人間として書状に使う」
印の意匠は、天秤の一本の腕を思わせる、簡素な線だった。
「父も、これは持たなかった」ユリウスは続けた。「生まれで受け継ぐ紋ではない。自分で選んだ意匠だ」
彼の合理主義が、人を測る物差しであることを、以前どこかで思い知らされた覚えがあった。
この印は、その物差しそのものを形にしたものらしかった。
「働きで人を測る、という意味だ」ユリウスは言い添えた。「身分でなく」
「殿下の紋には」オリヴィアは呟いた。「そういう意味は、ございませんでした」
「知っている」ユリウスは短く答えた。「だから、私は別のものを選んだ」
彼はその指輪を、両手で捧げるように差し出した。
「オリヴィア・レイヴンズクロフト」
初めて、姓ごと呼ばれた。
「私と、夫婦になってほしい」ユリウスは言った。「駒としてでも、顧問としてでもない。今度は、名の全部を君のものにしたい」
水音が止まったように感じた。
実際には、風は変わらず水面を揺らしていた。
止まったのは、また自分の息だけだった。
王家の紋であれば、この場に幾人もの証人と、幾枚もの書付が要っただろう。
ここには、灯り一つと、指輪一つしかなかった。
「お答えする前に」オリヴィアはようやく口を開いた。「一つ、確かめてもよろしいですか」
「何なりと」
「これは」オリヴィアは指輪を見つめた。「毒ではない、と」
一拍置いて、ユリウスの眉がわずかに上がった。
「毒見の作法で、確かめても」オリヴィアは続けた。「よろしいでしょうか」
彼の口元が、ゆっくりと緩んだ。
「好きにするといい」ユリウスは言った。「ただし、舐めるのはやめてくれ」
「舐めるつもりは、ございません」オリヴィアは指輪を指先で持ち上げた。「見るだけです」
灯りにかざすと、印の線が影を落とした。
天秤の腕はわずかに傾いている。均衡ではなく、どちらかへ傾いた形を選んでいるようだった。
「傾いておりますね」オリヴィアは指摘した。「天秤にしては」
「気づいたか」ユリウスは頷いた。「釣り合いだけを求める印には、したくなかった」
「では、何を」
「決めた者の重みだ」ユリウスは言った。「均衡は、誰にでも作れる。傾けるには、選んだ理由が要る」
その答えに、また少し息が詰まった。
七年、彼女は誰かの命の均衡を保つためだけに生きてきた。
自分の側へ天秤を傾けるという発想を、これまで一度も持ったことがなかった。
「毒見の作法では」オリヴィアは指輪を灯りにかざしたまま言った。「異常がなければ、器をお返しするのが習いです」
「なら」ユリウスは彼女の反応を待った。
「今回は」オリヴィアは指輪をそっと自分の手のひらに包んだ。「お返しいたしません」
その一言が、答えの代わりだった。
だが言葉にせずには、まだ終われなかった。
「ずっと」オリヴィアは声を落とした。「誰かのために、自分の名を隠して生きてきました」
「知っている」
「今日、消させるなと命じられた帳面にわたしの名がございました」オリヴィアは指輪を握った手を胸元へ寄せた。「あれは、初めて誰かが残そうとしてくれた名でした」
「あの帳面が、始まりだったのかもしれない」
「今、あなたが差し出したのは」オリヴィアは彼を見上げた。「わたしがこれから使う名です」
その違いが、思いのほか大きなものに感じられた。
「使ってほしい」ユリウスは頷いた。「隠すためでなく」
指先の震えが、いつの間にか止まっていた。
寒さのせいでも、体の疲れのせいでもなかった。
「ユリウス様」オリヴィアは指輪を胸に抱いたまま言った。「お受けいたします」
声が、少しだけ掠れた。
だがそれ以上、言葉に迷いはなかった。
「聞き届けた」ユリウスは短く答えた。
その一言に、笑いがこぼれた。
「宰相府の触れのような、仰り方ですね」
「性分だ」ユリウスは苦笑した。「他に、良い言葉が思いつかなかった」
軽口だった。彼の軽口を聞くのは、数えるほどしかなかった。
水面が、また風に崩れて戻った。
オリヴィアは差し出された指輪を、自分の指へ通した。
冷たかった金属が、指の熱ですぐに馴染んでいった。
「傾いた天秤は」オリヴィアは指輪を灯りにかざした。「重うございますか」
「いや」ユリウスは彼女の手を取った。「軽くなった」
その手のひらの熱が、便箋越しに触れたあの夜より、確かに近かった。
「これから、忙しくなる」ユリウスは言った。「祝いの触れ、身内への使い、支度」
「支度、ですか」オリヴィアは尋ねた。「わたしに、身内は」
「私が、それでいいと言っている」ユリウスは彼女の手を離さなかった。「必要な身内は、これから作ればいい」
その言い方に、また胸の奥が温かくなった。
「明日から」オリヴィアは呟いた。「何をすればよろしいでしょうか」
「今夜くらいは」ユリウスは彼女を見た。「何もしなくていい」
夜風が、髪を撫でて過ぎた。
薬草の匂いも、墨の匂いもない、ただ夜そのものの匂いだった。
「もう少し、ここに」オリヴィアは水面を見つめたまま言った。「よろしいですか」
「望むところだ」
二人はしばらく、灯り一つの下に立ち続けた。
水面に映る星が、崩れては戻り、また崩れた。
その繰り返しを、いつまでも見ていられる気がした。
——遠くの帳面に眠っていた一文が、今日、確かに彼女の胸へ届いた。
そして明日の朝、彼女は初めて、誰の毒見でもない朝を、自分のために迎えることになる。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は二本立てで書きました。前半は、七年間「誰にも気づかれなかった」というオリヴィアの孤独に、実は一人だけひびを入れていた人がいた、という話です。ただ、この話をあえて感動の号泣シーンにはしませんでした。気づいていながら動けなかった人がいた、という事実は救いでもあり、同時にどこか苦いものでもあると思ったからです。オリヴィア自身にも「嬉しい、というのとも違う」と言わせたのは、そのためです。
後半は、いよいよユリウスからの正式な求婚です。EP39の「君が欲しい」、EP41の「そばにいたい」ときて、今回は肩書きも家柄も関係ない、この国らしい求婚にしたいと思いました。指輪に刻んだ印を「天秤」でなく「傾いた天秤」にしたのは、彼が最初からずっと「均衡」でなく「選ぶこと」を大事にする人だったからです。オリヴィアが最後に見せた「毒見の作法で確かめる」というくだりは、彼女らしい照れ隠しとして書きました。
次はいよいよ最終話です。ここまで積み上げてきたものを、静かに、けれど幸福な形で閉じたいと思っています。
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