第42話: 贖罪の日々
喉の奥に、鉄の味が満ちた。
それを飲み下し、アルヴィスは顔を上げた。
オリヴィアがメリディアで新たな日々を刻み始めてから、幾日か過ぎたころのことだった。
謁見の間の石床は、片膝をついても冷たさを伝えてこない。もう幾日も、この体はそれを感じる力さえ鈍っていた。
正面の玉座で、陛下が沈黙していた。
沈黙の重さが、返答の代わりだった。
「父上」アルヴィスは声を絞った。「お願いがございます」
陛下は微かに顎を引いた。続けよ、という合図だった。
「立太子の儀を、辞退いたします」
言葉にすると、思いのほか軽く喉を通った。
拍子抜けするほどに。
これまで幾度も、口の中で組み立てては崩してきた一言だった。
玉座の周りに控える廷臣たちが、一斉に息を詰めたのが分かった。
誰も声を上げない。扇を握る老臣の指先が、白くなっていた。
それ自体が、この宮廷での自分の値打ちを物語っていた。
「本気か」陛下の声は低かった。
「本気にございます」アルヴィスは即答した。「私は、この国を継ぐ器ではございません」
「七年、気づかなかった男が」アルヴィスは続けた。声が掠れた。「今さら継いだところで、同じ過ちを別の形で犯すだけです」
陛下はしばらく彼を見据えていた。
その目に浮かんでいたのが失望か、あるいは安堵か、アルヴィスには測りかねた。
「詫びは、足りているつもりか」陛下は座り直し、低く問うた。
「足りません」アルヴィスは言い切った。「詫びで足りるものでは、そもそもございません」
「ならば、なぜ玉座を退く」陛下は指先をわずかに動かした。「贖いなら、玉座に留まって続ける道もあろう」
「玉座に留まれば」アルヴィスは目を伏せた。「贖いの形を借りて、また誰かに寄りかかるだけです」
「続けよ」陛下は目を細めた。
「玉座を語る資格もない男の言葉ですが」アルヴィスは続けた。「この国には、器を見る目を持つ者が要ります」
「二度と独りにさせてはなりません」アルヴィスは言葉を継いだ。「毒見の役を飾りに戻してはならないのです」
その一言だけは、迷わず言えた。
自分にできる最後の献言だと分かっていた。
「聞き届けた」陛下は短く言い、書役へ目配せをした。
「代わりは、傍系から立てる」陛下はやがて言った。「お前は」
「静養に専念いたします」アルヴィスは頭を下げた。「二度と、表には出ません」
言い終えると同時に、喉の奥に鈍い疼きが走った。
こらえる間もなく、口元に手をやった。
白い布に、赤い染みがひとつ増えた。
「殿下!」侍従が声を上げた。
左右から伸びた侍従の腕に支えられ、アルヴィスは膝を崩した。
視界の端で、陛下がわずかに目を伏せるのが見えた。
それが何の感情だったのか、確かめる術はもうなかった。
その夜、彼は自室で筆を執った。
燭台の灯が、震える手元を頼りなく照らしていた。
「せめて、清書だけでも私が」侍従が申し出た。
アルヴィスは首を振った。
「これだけは」アルヴィスは言った。「己の手で書く」
「殿下の御身には、障りが」侍従はなお心配げに言った。
「障りなら、とうに出ている」アルヴィスは筆を執り直した。「今さら一つ増えたところで、変わりはしない」
ペン先を墨に浸すと、鼻先に墨の匂いが立った。
——その匂いに、ある朝の記憶が重なった。
城門の脇、柱の陰。供も連れず、正装でもない自分が、そこに立っていた朝のことだった。
目が合った彼女に、深く頭を下げた。
言葉を探し、見つかったのは名前ひとつだけだった。
「オリヴィア」
それだけしか言えなかった自分に、彼女は「どうか、良くなってください。今度は、殿下ご自身のために」とだけ返した。
小さく頷くのが精一杯だった。
あの朝、続きの言葉はついに見つからなかった。
——墨の匂いが、記憶から今の卓上へ戻ってきた。
あの日見つけられなかった続きを、今度こそ、この手で書かねばならない。
最初の一枚は、詫びの言葉ばかりで埋まった。
書き終えて読み返し、丸めて脇へ置いた。
「これでは、言い訳だ」低く声に出した。
詫びなら、もう言った、と自分に言い聞かせた。重ねれば、それは詫びでなく言い訳になる。
二枚目は、戻ってきてほしいという願いで始まった。
書きかけの途中で、ペンを止めた。
「身勝手が過ぎる」自分の書いた文字を見て呟いた。
その資格が自分にないことは、誰よりも自分が知っていた。
願えば願うほど、それは彼女の重荷になる。
三枚目は、白紙のまま長く見つめた。
「これでいい」やがて、己に言い聞かせるように呟いた。
短い言葉だけを選んで綴った。
「気づかず、済まなかった」という一行から始め、その先に多くを書き足さなかった。
立太子を辞したこと。
静養に専念し、二度と表舞台には立たないこと。
戻れとは言わないこと。
七年、生かしてくれたことへの礼も、忘れずに記した。
書き終えると、指先の震えが増していた。
「殿下、お手を」侍従が控えめに支えを差し出した。
だが、書き損じはなかった。
退く先は、母方に伝わる北の別邸と決まっていた。
幼い日、まだ健在だった母に一度だけ連れられた土地だった。雪解けの水が石垣を伝う音だけが、記憶に残っている。
「あの水音は」アルヴィスは呟いた。「まだ、聞こえるだろうか」
「供は最小限にございます」侍従が付け加えた。「政の場からは、完全に切り離された地です」
華やかな王都からは幾日もかかる、鄙びた土地だと聞いていた。
それでいい、と胸の内で繰り返した。誰にも見られず、重荷にもならず、ただ過ちの重さを数え直す場所が要る。
罰ではなく、けじめとして選んだ場所だった。
便箋を封じるとき、いつもの触れに使う蝋ではなく、朱に近い赤の蝋を選んだ。
「血の色に、似ている」アルヴィスは選んだ蝋を見つめた。
力の入らない指先が、いつもより不器用にそれを扱った。
「不格好でも」アルヴィスは封の歪みを見つめた。「届きさえすればいい」
王族が己の手で封じる、火急のみに許された意匠だった。
御用の間を通す触れは、名も知れぬ手によって握り潰されることがあると、身をもって知っていた。
この蝋だけは、書役の目を通らない。
名は、記さなかった。
「殿下」侍従が控えめに言った。「差出人を」
「要らない」アルヴィスは答えた。「読めば、分かる」
「ですが、宛先の方が戸惑われては」侍従はなお食い下がった。
「戸惑わせて構わない」アルヴィスは筆を置いて言った。「戸惑いも含めて、受け取ってもらうしかない。肩書きでなくこの手で書いた文字に、託したい」
その一言に、迷いはなかった。
「それと」アルヴィスは付け加えた。「御用の間に、命じておいた」
「彼女の七年の勤めを記した、御用の間の記録帳を誰にも消させるなと」
「かしこまりました」侍従は短く頭を下げた。それ以上、何も問わなかった。
「これが、自分にできる最後の詫びだ」アルヴィスは誰にともなく呟いた。
「発ったか」アルヴィスは窓辺に寄り、尋ねた。
「はい、たった今」侍従は答えた。
早馬が継ぎ立ての支度を整え、城門を抜けていく音が遠くに聞こえた。
喉の奥に、また鉄の味がにじんだ。
今度は飲み下さず、そのままにしておいた。
この味が消える日が来るのかどうか、アルヴィスにはまだ分からなかった。
蝋の匂いが、指先に移った。
封を割ると、赤茶けた欠片が卓上に散った。
差し出したのはユリウスだったが、開いたのはオリヴィア自身の手だった。
「ここで、よろしいですか」オリヴィアは執務室の椅子に目をやった。
「好きに座るといい」ユリウスは椅子を引いた。「読みたいときに、読めばいい」
四阿から場所を移し、宰相府の執務室で、二人は書状に向き合っていた。
燭台の灯が、便箋の上で揺れていた。
崩れながらも角ばった筆跡に、見覚えがあった。
毒見の朝、献立の脇に添えられた検分の署名。七年、幾度となく目にしてきた文字だった。
差出人の名はどこにもなかったが、確かめる必要もなかった。
「殿下の」オリヴィアは呟いた。
「読むか」ユリウスは尋ねた。「無理にとは言わない」
「読みます」オリヴィアは便箋を持ち直した。「読まずに置いておく方が、重うございます」
オリヴィアは声に出して、一行ずつ読み上げた。
「気づかず、済まなかった」
「立太子の儀は辞した。そなたが七年守った国を継ぐ器ではないと、ようやく分かった」
「これより静養に専念し、二度と表には出ない」
「戻れとは言わない。その資格が、私にないことは分かっている」
「七年間、生かしてくれたことにだけ礼を言いたかった」
「御用の間には、そなたの七年の勤めを記した記録帳を誰にも消させぬよう命じておいた」
「どうか、達者で」
声が、そこで途切れた。
文の最後に、名はなかった。
読み終えて、しばらく文字から目を離せなかった。
「憎しみ、ではありません」オリヴィアは呟いた。「安堵とも、違います」
舌の上に、覚えのある味が広がった。
毒でも薬でもない、ただ苦いだけの味だった。
「顔色が」ユリウスが手を伸ばしかけた。「大丈夫か」
「大丈夫です」オリヴィアは首を振った。「後味には、名前をつけたことがありませんでした。——今のも、名前がつきません」
名づけようのない味を、そのまま飲み下すことにした。
「殿下は」オリヴィアは便箋を見つめたまま言った。「変わられたのでしょうか」
「分からない」ユリウスは正直に答えた。「だが、変わろうとはしたのだろう」
「許す、というのとは違います」オリヴィアは便箋をそっと畳んだ。「ただ——七年の帳尻が、これで少しだけ合った気がいたします」
ユリウスは何も言わず、彼女の隣に立ち続けた。
急かさない、というその在り方に、また助けられていることに気づいた。
「御用の間の帳面、というのが気にかかる」ユリウスは呟いた。「あちらの記録は、握り潰されやすいと聞いていた」
「ええ」オリヴィアは頷いた。「殿下も、それをご存じのはずです」
「それでも、命じた」ユリウスは便箋の端に目をやった。「今度は、消させぬようにと」
「守れるとお思いですか」オリヴィアは尋ねた。「王家の紋があっても」
「分からない」ユリウスは目を伏せた。「だが、命じずにはいられなかったに違いない」
「わたしのために、というより」オリヴィアは便箋の端を指でなぞった。「ご自分への、けじめだったのかもしれません」
「それでいい」ユリウスは言った。「けじめは、けじめとして受け取ればいい。君が背負う理由はない」
「では」オリヴィアは彼を見た。「あなたは、何を背負っておいでですか」
「今、ここにいる理由の全部だ」ユリウスは言い切った。「重くはない」
その一言に、肩の力がふっと抜けた。
「あなたは」オリヴィアはふとユリウスを見上げた。「けじめを、誰かに背負わせたことは」
「ある」ユリウスは即座に答えた。「今、目の前で背負わせている」
その返しに、思わず笑いが漏れた。
「意地の悪い、お言葉です」
「事実だ」ユリウスは彼女の手を軽く握った。「だが、一人では背負わせない。それだけは違う。昔、それで一人失敗している」
便箋の紙の冷たさから移った指先に、彼の掌の熱がじわりと重なった。
「温かい、ですね」オリヴィアはぽつりと言った。「同じ紋を見ても、もう縮みません」
オリヴィアは便箋を胸元にしまった。
「戻ろうか」ユリウスが手を差し伸べた。
「はい」オリヴィアは頷いた。
これで、七年の因縁が終わったわけではない。
ただ、扉がひとつ、音もなく閉じた気配があった。
——そして、遠く離れたその帳面の中で、まだ誰も知らない一文が、静かに息をひそめていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回はアルヴィスの話でした。ずっと受け身だった彼に、初めて自分から動く場面を書きたくて、この一話をまるまる彼の決断のために使いました。立太子を辞める、静養に退く、手紙は自分の手で書く——どれも誰かに強制されたのではなく、彼自身が選んだことです。かといって、これで彼を許された人にはしたくなかったので、悔いは悔いのまま、血を吐く体もそのまま残しました。すっきり救われる話にはしていません。
オリヴィア側は、あえて感動的な号泣シーンにしませんでした。彼女はずっとそういう人ではなかったので、最後まで「許す、許さない」を明言させず、ただ淡々と受け止めさせています。憎しみでも未練でもない、名前のつけにくい感情のまま終わらせるのが、この二人にはふさわしい気がしました。
最後に出てきた「帳面の中の一文」は、次の話に繋がる伏線です。少しだけ、楽しみにしていてもらえると嬉しいです。
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