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『毒見の女など用済みだ』と婚約破棄された私が伯爵家を去った翌朝、王太子は毎日吐血するようになった  作者: 藍田 算


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第41話: 人を癒やす毒

「先生、いてくれ!」


 声は戸を叩くよりも先に届いた。


 オリヴィアは薬研を置く手を止めた。


 診断から十日、薬院での日課にも慣れ始めていた。


 朝の光がまだ低く、書架の影が長く伸びていた。


 薬研の粉がまだ皿の上で山を作ったままだった。


 炭の粉を溶いた白湯はまだ半分残っていた。


 戸が乱暴に開き、恰幅のいい男が少年を抱えて転がり込んできた。


「バルトさん」ハルダが顔を上げた。「どうした」


「うちの下働きのカイが」バルトは息を切らせた。「畑の根を、茹でて食っちまって」


「そちらは」バルトはオリヴィアを見て言葉を切った。


「宮廷医仕込みの目利きだ」ハルダは即座に答えた。「今は、四の五の言ってる暇はないよ」


 バルトは頷き、少年を寝台へ委ねた。


 少年の唇は紫に変わり、喉が鳴っていた。


 テオが素早く寝台へ運び、脈を取った。


「速い。浅い」テオは告げた。


「根はどれだ」ハルダが問うと、バルトは布に包んだ根の残りを差し出した。


 オリヴィアはその根を受け取り、鼻を近づけた。


 土くさい匂いの奥に、獣の巣に似た酸っぱい臭みが混じっていた。


 人参に似た根だが、切り口の色が違う。


 白い断面に、ほんのわずかな黄みが差していた。


 書架の毒物図譜に、似た根が二つ載っていたのを思い出した。


 一方は眠りに落ちるだけで、喉までは重くならない。


 少年の喉の鳴りがもう一方だと教えていた。


「銀舌です」オリヴィアは言った。「食用の根に、紛れ込むことがある毒草です」


「効き目は」ハルダが問うた。


「唇と舌からしびれ、進めば喉の奥が重くなります」オリヴィアは答えた。


「食べてから、どれくらいですか」オリヴィアはバルトに聞いた。


「半刻も、経ってねえ」バルトは答えた。


「間に合います」オリヴィアは即断した。「吐かせて、それから乳を」


 テオが少年の口に指を入れ、塩水を含ませた。


 カイは激しく咳き込み、胃の中身を戻した。


 顔色がわずかに戻った。


 オリヴィアは温めた乳を椀に注いで差し出した。


「これで、足りますか」テオが聞いた。


「一杯で十分です」オリヴィアは答えた。「多く飲ませすぎると、また戻してしまいます」


「飲めるか」オリヴィアは少年の目を見た。


 カイはこくりと頷き、匙を口に含んだ。


 しびれの残る唇でうまく飲み込めず、むせた。


「ゆっくりでいい」オリヴィアは匙を持ち直した。「急がなくていい」


 少年の喉が動くたび、緊張がひとつずつ緩んでいった。


 半刻ほどで、カイの呼吸が落ち着いた。


 唇の色も紫から赤みを取り戻していた。


「先生」カイがかすれた声で呼んだ。「ありがとう」


「まだ、喋らなくていい」オリヴィアは彼の額に触れた。「休んで」


「峠は越えたね」ハルダが少年の手首を確かめた。


「越えた、じゃなくて」テオがオリヴィアを指した。「越えさせたんだよ、こいつが」


 バルトは何度も頭を下げた。


「なんてお礼を言えば」バルトは声を詰まらせた。


「お礼は坊やの顔色に免じて結構です」オリヴィアは言った。


「せめて、名前を」バルトは食い下がった。「うちの店に来た時ゃ、只でいい」


「オリヴィアと申します」


「オリヴィア先生」バルトはその名を噛みしめるように繰り返した。「覚えとくよ」


 カイの母親が遅れて薬院に駆け込んできた。


 息子の寝顔を確かめ、その場に崩れるように座り込んだ。


 母親は言葉もなく、オリヴィアの手を両手で包んだ。


 その手のひらは鍬だこで硬かった。


 毒を見分ける目を、これまで隠すために使ってきた。


 今日初めて、見分ける目をそのまま人に差し出した。


 その違いが存外に軽い実感として胸に残った。




 カイが眠りについたのを見届け、ハルダは帳面を取り出した。


「今日のことを書き残す」ハルダは筆を執った。「毒の名と、手当てを」


「それと」


「あんたの名だ」ハルダは顔を上げた。「鑑識をした者として、記す」


 筆先が白紙の上で止まっていた。


 これまで毒に関わる記録に自分の名が残ったことはなかった。


 王城にいた七年、毒の字は一度も帳面に書かれなかった。


 書けば犯人に勘づかれる恐れがあったからだ。


「今度は隠さず書くんだよ」ハルダは彼女を見た。「あんたが見つけて、あんたが治した。それが記録になる」


「わたしの名を書いても」オリヴィアは筆先を見つめた。「よろしいのですか」


「当たり前だろう」ハルダは笑った。「隠す理由が、どこにある」


「これからは」ハルダは続けた。「毒の疑いがある患者はまずあんたに診させる。ギルドにもそう届ける」


「長老たちが、渋るのでは」


「渋ったところで」ハルダは鼻を鳴らした。「今日のことを見せれば黙るさ」


「いつからですか」


「決まってるだろう」ハルダは帳面を叩いた。「今日からだよ」


「正式な役目としてですか」オリヴィアは問うた。


「顧問だ何だと堅苦しい話はよそでやってる」ハルダは筆を置いた。「あたしが決める。それで十分さ」


「わたしで務まりますか」


「務まるも何も」ハルダは眼鏡を押し上げた。「今しがた務めを果たしたばかりだろうが」


「書架の隅に、あんたの机を置く」ハルダは付け加えた。「これからは、そこがあんたの持ち場だ」


 持ち場という言葉が、すとんと胸へ落ちた。


 その通りだった。


 言い返す言葉が見つからなかった。


 祖母の声が遠くから蘇った。


 ——毒は少しずつ身の内に容れて耐性を作る。痛みを引き受けた手だけが誰かを守れる。


 あの言葉を、これまでは誰にも見せない痛みの理由だと思ってきた。


 今日初めて、守るための手を人前で使った。


 誰にも気づかれないまま消えていくことを、ずっと恐れてきた。


 帳面の上の名はその恐れへのささやかな返事だった。


「先生って呼ばれてたな」テオがにやりとした。「板についてきたじゃないか」


「まだ慣れません」オリヴィアは目を伏せた。


「そのうち慣れるさ」ハルダは薬缶を戻した。「呼ばれてるうちにね」


「先生」と呼ばれるたび、テオは少しだけ得意げな顔をした。


 まるで自分が名付け親であるかのような顔だった。


「あんたのおかげだよ」ハルダは帳面を閉じた。「言っとくが、礼はいらないからね」


「言うつもりも、ございません」




 夕刻、薬草園の四阿にオリヴィアはいた。


 カイの寝顔を見届けたあと、一人になれる時間だった。


 薬草の匂いに混じって、乾いた土の匂いが立っていた。


 足音が四阿の前で止まった。


「聞いた」ユリウスが言った。「今日、子供を救けたと」


「大げさな話です」オリヴィアは顔を上げた。


「大げさかどうかは」ユリウスは静かに続けた。「ハルダに聞け」


「ハルダ様は」オリヴィアは目を伏せた。「大げさに仰る方です」


「帳面に名を記したとも、聞いた」ユリウスは続けた。「隠さず、書けたか」


「はい」オリヴィアは頷いた。「今日は、憚る理由がありませんでした」


「私は見ると言った」ユリウスは口の端を上げた。「ギルドの帳面も、同じことをしただけだ」


 耳の早さに、思わず苦笑がこぼれた。


「閣下」オリヴィアは言いかけて止まった。


「その呼び方は」ユリウスは目を細めた。「もう、やめてもらう約束だったはずだが」


「……ユリウス様」オリヴィアは言い直した。


「お返事が遅くなりました」オリヴィアは膝の上で手を重ねた。


「急かしてはいない」ユリウスは彼女を見た。「今も」


 急かさない、というその言葉こそ七年間誰も掛けてくれなかったものだと気づいた。


 その言葉に、かえって心が定まった。


 言葉を選ぶ余地はもう要らなかった。


「——そばにいたい」オリヴィアは顔を上げた。「駒としてでなく、あなたのそばにいたいと思いました」


 敬語が途中で剥がれ落ちていた。


 それに自分でも遅れて気づいた。


 ユリウスはしばらく何も言わなかった。


 やがて、彼の手が伸びて彼女の手に重なった。


「それで十分だ」ユリウスは低く言った。


「十分、ですか」


「多くを望むと、また君は自分を後回しにする」ユリウスは彼女の手を握った。「今日はそれだけでいい」


「薬院の役目は、続けていい」ユリウスは言い添えた。「私のそばにいることと、それは矛盾しない」


「存じております」オリヴィアは小さく笑んだ。「あなたが、そういう方だと」


 その手のひらの温もりに、少しだけ体の力が抜けた。


 いつもなら、先に体を離すのは自分の役目だった。


 今日はその手を離さずにいた。


 わずかな図々しさが、思いのほか心地よかった。


 薬草園に、夜の虫の声が混じり始めていた。


 ユリウスの手からは書類の墨よりも薬草の匂いが濃く香った。


 今日一日、この匂いの中で過ごしていたのかもしれないと思った。


 頼ることの練習はまだ始まったばかりだった。


「今夜は、ここに」ユリウスは彼女の手を離さないまま言った。「もう少しだけ」


「もう少しだけ、ですか」


「それ以上は、私も欲張らない」ユリウスは短く笑った。


 四阿の外で足音が近づいた。


 宰相府の使者が一通の書状を手に立っていた。


「閣下」使者は膝をついた。「アルデニアより、火急の書状が」


 差し出された書状には、見慣れた王家の紋の封蝋が押されていた。


 だが縁に走る細い二重線は、火急の御用にのみ使われる特別な意匠だった。


 七年、毎朝目にしてきた紋章だった。


 胸の奥で、何かが冷たく引き締まった。


 差出人の名はどこにも記されていなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は「隠すために使ってきた力を、そのまま差し出す話」を書きたくて書きました。オリヴィアの毒物鑑識は、七年間ずっと誰にも気づかれないための道具でした。それが今回、少年の命を救うためにまっすぐ使われ、しかも記録に名前まで残ります。同じ力なのに、使う場所が変わるだけでこんなに違って見えるんだなと、書きながら自分でも新鮮でした。


 もう一つの軸は、ユリウスへの返事です。饒舌な愛の言葉にはせず、いつもの敬語が一瞬だけ剥がれる形で答えを出させました。オリヴィアらしい距離感を最後まで崩したくなかったので、そこは何度か書き直しました。


 次話からは舞台が少し変わります。積み上げてきたものを胸に、また別の場所の後始末に向き合う話になりそうです。


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