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『毒見の女など用済みだ』と婚約破棄された私が伯爵家を去った翌朝、王太子は毎日吐血するようになった  作者: 藍田 算


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第40話: 七年の代償

 鉄さびに似た味が、口の中に広がった。


 覚えのある後味ではなかった。


 薬研の前で乾燥根を計っていただけで、口には何も入れていない。


 朝の薬院には、乾いた葉と蜜蝋の匂いが満ちていた。


 窓から差す光の筋に、細かな塵がゆっくり回っている。


 いつもならその静けさが、体の緩む合図だった。


 今日は違った。


 立ち上がった拍子に、床が斜めに傾いた。


 卓の縁を掴んで、どうにか堪えた。


 視界の端で、白い光がちかちかと弾けた。


「座りな」ハルダの声が、思いのほか近くで聞こえた。


 肩を押され、椅子に腰を落とした。


「立ちくらみです」オリヴィアは息を整えた。「もう、治まりました」


「治まった顔じゃないね」ハルダは眼鏡を押し上げた。「頬が紙の色だ」


 言われて、自分の頬が冷たいことに気づいた。


「脈を診るよ」ハルダは彼女の手首を取った。「座ってな」


 節くれ立った指が、脈の上でしばらく止まった。


「速い。間も乱れてる」ハルダは眉を寄せた。「舌を出しな」


 命じられるまま、舌を見せた。


「奥が白い」ハルダは覗き込んで言った。「疲れの色じゃないよ、これは」


「では、何の色ですか」


「灰塵の色さ」ハルダは即答した。「あんたが一番よく知ってる毒の」


 言葉が続かなかった。


「震えは、痺れから始まったろう」ハルダは彼女の指先に触れた。「そのあとで、めまいだ」


 その通りだった。


「銀舌の痺れが先、灰塵の重さが後」ハルダは頷いた。「銀舌はとうに退いてる。居座ってるのは、灰塵だけさ」


「一昨年から、量を増やして体に入れてきました」オリヴィアは言った。「殿下の毒に、耐えるためです」


「その分だけ、根が深いってことだよ」ハルダは腕を組んだ。「もっとも、その鼻と舌は他の患者にも役に立つ。毒を見分ける力は、治す力にも化けるからね」


 その言葉の意味を、まだ深くは考えられなかった。


「毒見の間は、器ごと飲み下して押さえつけてきたんだろう」ハルダは彼女の手を離した。「今は、押さえるものを止めた」


「止めた、と言われましても」オリヴィアは眉を寄せた。「灰塵は、もう口にしておりません」


「口にしなくなったから、溜まった分が行き場を探してるのさ」ハルダは薬研を脇へ寄せた。「膿と同じだよ。蓋をしていた間は見えなくても、蓋を外せば出てくる」


 王太子の吐血と、同じ仕組みだと分かった。


 彼女がすり替えを止めた翌朝、彼の体は七年分の毒を一気に受け止めた。


 自分の体も、同じ道理で応えていた。


 抑える手を止めれば、抑えられていたものが表に出る。


 ずっと他人の体で見てきた仕組みが、自分の指先で起きていた。


「わたしが、殿下に起きたことを」オリヴィアは自分の手を見た。「自分の体でも、繰り返していた」


「気づくのが、遅いんだよ」ハルダは薬缶を火にかけた。「もっとも、あんたにしちゃ早いほうか」


 治療のために誰かの手を借りるとなれば、また誰かの負担になる。


 その考えが、真っ先に頭をよぎった。


「休めば、皆様の手を煩わせます」オリヴィアは声を落とした。


「煩わせて、何が悪い」ハルダは薬缶の湯気を見ながら言った。「薬院は、そのためにあるんだよ」


「わたしは」


「あんたはこれまで、人の分まで背負ってきたんだろう」ハルダは彼女を見た。「一度くらい、預けたらいいのさ」


「治すのに、近道はないよ」ハルダは茶碗を用意しながら言った。「炭の粉と、時間だけだ」


「時間は、どれくらい」


「聞くだけ無駄さ」ハルダは肩をすくめた。「あんたの溜め込んだ分は、七年分だ」


 七年、という一言が、胸の奥に重く落ちた。


「偉そうに言ってるけどね」ハルダは苦く笑った。「あたしも、同じ道を通ったよ」


「テオ様から、少しだけ伺いました」


「根を詰めすぎて、倒れたのさ」ハルダは茶碗に湯を注いだ。「毒草の見分けに夢中になってね。三月の間、寝台から起き上がれなかった」


「三月、ですか」


「起き上がれるようになっても、震えは半年残った」ハルダは湯気の向こうで目を細めた。「筆も、まともに持てなかった」


 処方箋の一文字目を書きかけて、震える指がインク壺を倒した日があったのだと、ハルダは付け加えた。師匠は叱らず、ただ布で拭いただけだったという。


 寝台の脇で薬を差し出す若い弟子たちの手が、想像できる気がした。


 その手を、素直に受け取れるまでにどれほどかかったのだろうと思った。


「それでも、薬師を続けておいでです」


「続けられたのは、あたし一人の力じゃないよ」ハルダは彼女に茶碗を差し出した。「師匠に、毎日ここへ座らされてね。何もせず、ただ座って治るのを待つ稽古をさせられた」


「稽古、ですか」


「働き者には、一番の苦行さ」ハルダは笑った。「あんたにも、覚えがあるだろう」


 図星だった。


「今日から、あんたにも同じことをしてもらう」ハルダは言った。「朝に炭の粉を溶いた湯を飲む。昼は横になる。夜、また飲む。それを、当分続ける」


「当分とは」


「あたしが、もういいと言うまでだよ」ハルダは茶碗を押し付けた。「意地は、挟ませない」


 受け取った茶碗から、土に似た匂いが立った。


 一口含むと、舌の奥にざらつきが残った。灰塵を検めてきた七年で覚えた後味と、よく似ていた。


 戸口から、テオが顔を出した。


「顔色、戻ってきたな」テオは笑った。「さっきは死人みたいだったぞ」


「大げさです」


「大げさなもんか」テオは肩をすくめた。「運び込まれてきた時のハルダも、そんな顔してた」


「余計なことを言うんじゃないよ」ハルダが睨んだ。


「本当のことだろう」テオはひるまず言った。「あの時も、こうやって茶碗を押し付けてただろうが」


「うるさいのが二人がかりだと」オリヴィアは茶碗を両手で包んだ。「休むのも、骨が折れそうです」


「それでいいのさ」ハルダは肩をすくめた。「一人でこもられるより、よっぽどましだ」


 二人のやり取りに、笑いがこぼれかけた。


 久しく忘れていた感触だった。


 昼を過ぎても、炭の粉の椀は減っていった。


 横になれと言われた時間は、天井の木目を数えるだけで過ぎた。


 働かずに過ごす一日が、こんなに長いとは知らなかった。




 夕刻、ユリウスが薬院の戸口に立った。


 窓の外はすでに藍色に沈み、灯りの周りだけが明るかった。


 供も連れず、書類の束も持たずに来たのは初めてだった。


「聞いた」ユリウスは前置きなく言った。「今朝、倒れかけたと」


「大事には至っておりません」


「その言い方は」ユリウスは彼女を見据えた。「もう聞かないと決めていたはずだが」


 癖で出た一言だと、自分でも分かった。


 いつものように取り繕うことも、できたはずだった。


 それでも、口が勝手に本当のことを選んだ。


「灰塵が、体に残っていると診断されました」オリヴィアは言い直した。「七年、毎晩体に入れ続けた分です」


 初めて、隠さずに言えた気がした。


「治療には、時間がかかると聞いた」ユリウスは静かに言った。「どれくらいだ」


「ハルダ様にも、まだ分からないそうです」


「分からないなら」ユリウスは頷いた。「分かるまで、休めばいい」


「宰相府の御用は」


「私が、都合をつける」ユリウスは答えた。「薬師ギルドにも、あらためて話を通す」


「そこまでしていただく理由が」


「理由なら、いくらでもある」ユリウスは彼女の手を見た。「その手は、七年かけて誰かを守ってきた手だ。今度は、私たちが引き受ける番だ」


「ギルドの手を、借りるのですか」


「ハルダ一人に任せる話ではない」ユリウスは続けた。「週に一度、ギルドの長老たちにも診させる。あんたの体は、あんた一人のものじゃなくなった」


 七年前に感じた重さとは、違う物言いだと分かった。


 あの頃は誰かの命の道具として体を差し出していた。


 今は体そのものを気にかけられている。


「わたしは」オリヴィアは声を落とした。「頼ることに、慣れておりません」


「知っている」ユリウスは言い添えた。「だから、練習が要る」


 ハルダの言った稽古という言葉と、同じ響きだった。


 卓の上に、ハルダから渡された炭の粉の包みが残っていた。


 湯を注ぎ、匙で溶いた。


 ユリウスの前で薬を飲むのは、初めてのことだった。


 王都では、誰にも見せずに済ませてきた儀式だった。


 ユリウスは急かさず、椅子に腰を下ろして待っていた。


「見ていなくても、よろしいのに」オリヴィアは匙を持つ手を止めた。


「見ていたいだけだ」ユリウスは短く答えた。「理由は、それでいいだろう」


 一息に飲み干すと、朝と同じ苦さが舌の奥に広がった。


 顔をしかめた自分を、ユリウスは黙って見ていた。


「隠さず、飲めたな」ユリウスは言った。


「隠す理由が、今は見当たりませんでした」


 誰かに気づかれず耐えることを、これまでずっと美徳だと思ってきた。


 その考え方ごと、置いていく時が来たのかもしれない。


 七年分の代償は、一晩では消えない。


 それでも、明日も同じ椀を手に取ると決めた。


 引き受けるという言葉の意味を、今日初めて体で覚えた気がした。


 それでも、引き受けられていないものが一つ残っていた。


 ——君が欲しい。


 泉で告げられた、あの一言への返事だった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は「頑張って治すのではなく、時間をかけて治すことを受け入れる話」を書きたくて書きました。オリヴィアはこれまで、痛みも震えも「意地」で乗り切ろうとしてきた人です。でも本当の回復って、根性でなく、毎日同じことを地道に続けるだけの地味な作業だったりしますよね。書いていて自分自身にも刺さる話でした。


 ハルダの過去を掘り下げたのは、EP38でちらっと出した「若い頃に倒れた」の伏線をちゃんと使いたかったからです。治した経験のある人だからこそ、上から言うのでなく並んで付き合える。そんな薬師像を書けたらいいなと思いました。


 次話では、オリヴィアの毒の知識が「人を害するもの」から「人を癒やすもの」へと向き始めます。少しずつ、彼女の七年が違う形で報われていく過程を書いていきたいです。


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