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『毒見の女など用済みだ』と婚約破棄された私が伯爵家を去った翌朝、王太子は毎日吐血するようになった  作者: 藍田 算


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第39話: 寄りかかる

 薬研を挽く手を、道具ごと取り落としたことなど、これまで一度もなかった。


 乾燥根の欠片が、指の間からこぼれた。


 拾おうと屈んだ拍子に、砕けた根の苦い匂いが鼻先をかすめた。


 オリヴィアは膝をつき、床に散った欠片を指先で集めた。


 指が、かすかに震えていた。


「どうした」ハルダが眼鏡の奥から見下ろした。「らしくもない」


「手が滑っただけです」


「その手だ」ハルダは彼女の指先を顎で示した。「震えてる」


 言われて初めて、自分でも気づいた。


「疲れが、抜けきっていないのだと思います」


「三日休めと言ったのは、テオだよ」ハルダは薬研を引き取った。「聞く気があったのかい」


「意地でも動いていないと、落ち着かないのです」


「意地って言葉を、そんなに嬉しそうに使うんじゃないよ」ハルダは息を吐いた。「体は、意地じゃ治らない」


 返す言葉がなかった。


 奥の戸口からテオが顔を出した。


「また拾い物か」テオは笑った。「昨日も同じ根をこぼしてただろう」


「昨日は、こぼしておりません」


「じゃあ、今日が初めてか」テオは肩をすくめた。「めでたいな」


 軽口には、まだ慣れなかった。


 ハルダが乾いた布を差し出した。


「これで拭きな」ハルダは言った。「指が荒れてる分、根の粉が沁みるだろう」


 言われるまま、布を受け取った。


 働くこと以外で誰かに手を貸されるのは、まだ落ち着かない感触だった。


 戸口に、宰相府の使いの少年が立った。


「オリヴィア様に、閣下からのお言伝です」少年は折り紙を差し出した。「日が沈んだら、庭の泉へ来てほしいと」


 受け取った紙には、それだけが記されていた。


 差出人の署名すらなかった。


 誰の手か、確かめるまでもなかった。


「泉、ねえ」テオがのぞき込んだ。「四阿じゃなく」


「存じません」


「知らないって顔じゃないね、それ」ハルダが横から言った。


 顔に出た自覚はなかった。


「聞かないでやるのが、優しさってもんだろう」テオがハルダの背をつついた。


「誰に物を教えてるんだい」ハルダは眼鏡を押し上げた。「さっさと戸を閉めときな」


 それでも二人とも、それ以上は聞かなかった。




 客間に戻り、鏡の前に立った。


 鏡を覗く習慣も、この国に来てから初めて持った。


 王都では身なりを整えるのは務めの一部で、自分のためではなかった。


 髪を結い直す手が、また一度震えた。


 震えを見られたくない、という思いが先に立った。


 誰に見られたくないのか、自分でもすぐには分からなかった。


 衣装棚には、侍女が整えたドレスが並んでいた。


 華美なものを選ぶ理由はなかった。


 それでも一番飾りの少ない一着に伸ばしかけた手が、途中で止まった。


 選ぶ基準が、務めのためか、自分のためか分からなかった。


 結局、いつもと同じ濃紺の一着を選んだ。


 変わらないことだけが、今の自分には安心だった。


 袖口を伸ばして指先を隠し、部屋を出た。




 庭の小径を進むと、覚えのない甘い香りが鼻先をかすめた。


 毒の匂いではない。ただの花の香りだと、鼻がすぐに判じた。


 夜に咲く花だろうか、探しても姿は見当たらなかった。


 香りの先に、灯りが一つだけ揺れていた。


 庭の奥、泉のほとりだった。


 水面に星が映り、風が渡るたびに崩れては戻った。


 ユリウスは石の縁に腰掛け、水面を見ていた。


「閣下」


「ここでいい」ユリウスは水面から目を上げた。「今日は、役職で呼ばれたくない」


「……ユリウス様」


 言い直すと、彼はわずかに頷いた。


「この泉は」ユリウスは水面に指を落とした。「国境の湧き水に似せて、庭師に作らせた」


「似せて、とは」


「初めて君に会った場所だ」ユリウスは言った。「小姓が毒草を口にしかけて、君が止めた」


 覚えていた。


 あの日、迷いなく手を伸ばした自分を、彼はずっと見ていたということだった。


「覚えておいでとは、思いませんでした」


「忘れる理由がない」


 短い答えだった。


 それだけで、七年分の何かを見透かされている気がした。


「なぜ、今日まで待たれたのですか」


 尋ねてから、踏み込みすぎたと思った。


「怖かった」ユリウスは即答した。「見誤って、有能な人間をまた一人潰すことが」


「わたしは」


「君は道具ではない」ユリウスは遮った。「その考えを、まず私が捨てる必要があった」


 彼の合理主義が、彼女を測る物差しをどれだけ持て余していたか、初めて知った。


「その指」ユリウスは彼女の手元に目を落とした。「今日、ハルダから聞いた」


 隠したはずの震えを、また見つけられていた。


「疲れが、抜けきっていないだけです」


「その台詞も、聞き飽きたと言ったはずだ」


 言葉に詰まった。


「隠すな、とは言わない」ユリウスは続けた。「隠す癖ごと、長い年月をかけて作られたものだろう」


「……はい」


「だからこそ、話しておきたいことがある」


 彼はそこで初めて、視線を水面から彼女へ移した。


「オリヴィア」


「はい」


「私は、君の働きに気づいて拾った。それは事実だ」ユリウスは言った。「だが今日、言いたいのはそれとは別のことだ」


 彼の手が、膝の上でこぶしを作った。


 解け、また結ばれた。


「回りくどいのは、性に合わない」ユリウスは続けた。「だから、単刀直入に言う」


 彼は水面から視線を外さず、言葉だけを彼女へ向けた。


「君が欲しい」ユリウスは言った。「宰相府の駒としてでなく、私のそばにいる一人の人としてだ」


 水音が止まったように感じた。


 実際には、風は変わらず水面を揺らしていた。


 止まったのは、自分の息だけだった。


「……閣下」


「その呼び方も」ユリウスは彼女を見た。「もう、やめてもらえないか」


 言葉が出なかった。


 求められることには慣れていた。望まれることには、慣れていなかった。


「返事は急がない」ユリウスは続けた。「ただ、これだけは言っておく」


 彼は彼女の手を見た。


 震えの残る指先を。


「自分を差し出す才は、もう十分に見た」ユリウスは言った。「今度は、自分のために使いなさい」


 立ち上がろうとした拍子に、視界が揺れた。


 足元の石畳が、傾いだように感じた。


 膝から力が抜けかけたところを、腕をつかまれた。


「オリヴィア」


 声に、初めて余裕のない響きがあった。


 支えられた腕の重みに、体が素直に傾いていった。


 抗おうとした力が、途中で消えた。


 誰かに体を預けるということを、知らずに生きてきた。


「大丈夫、です」オリヴィアは体を起こそうとした。


「無理をするな」ユリウスは腕を離さなかった。「今日ぐらいは、頼っていい」


 支えを外そうとする力を、もう持たないまま、そこに立っていた。


 夜風が首筋を撫でた。


 肩が震えたのは、寒さのせいだけではなかった。


 ユリウスは自分の上着を脱ぎ、彼女の肩へかけた。


「閣下の上着では」オリヴィアは肩に触れた布地を見た。「わたしには、分不相応です」


「そういう計算は、今はしなくていい」


 上着には、彼の体温がまだ残っていた。


 包まれるという感覚を、うまく言葉にできなかった。


「……分かりません」オリヴィアは俯いた。「どう、お応えすればいいのか」


「今すぐでなくていい」ユリウスは言った。「答えは、逃げない」


「わたしは、ずっと誰かのために生きてきました」


「誰かに望まれた次の日、忘れられるのが怖いのです」オリヴィアは続けた。「七年前も、そうでした」


「私は、忘れない」


 短すぎる答えだったのに、迷いのかけらもなかった。


「知っている」ユリウスは言い添えた。


「自分のために、と言われても」オリヴィアは声を落とした。「その使い方を、まだ知りません」


「なら、覚えればいい」ユリウスは彼女を見た。「一人で覚える必要もない」


 その一言に、喉の奥が熱くなった。


 泣くことすら、久しく忘れていた仕草だった。


 涙をこらえる代わりに、オリヴィアは上着の襟を握った。


 握った指の震えが、少しずつ収まっていくのが分かった。


「……もう少しだけ」オリヴィアは言った。「このままで、いさせてください」


 返事の代わりに、彼の腕に力がこもった。


 拒む理由も、応える言葉も、見つからないままだった。


 それでも、この一瞬だけは寄りかかっていいのだと、初めて思えた。




 客間に戻っても、震えは完全には収まっていなかった。


 寝台に腰掛け、指先を握り込んだ。


 握るたび、指の先まで痺れが走った。


 ハルダに見せれば、休めと言われる数が増えるだけだった。


 誰にも言わずにいようと決めた。


 肩には、上着が掛かったままだった。


 彼の匂いが、うっすらと残っていた。


 薬草でも毒でもない、ただ人の匂いだった。


 その匂いを確かめるように、オリヴィアは襟に顔を寄せた。


 この選択がどこへ続くのか、まだ分からない。


 祖母の声が、ふいによみがえった。


 ——痛みを引き受けた手だけが、誰かを守れる。


 守るためでなく、守られるために差し出す手を、祖母は教えてくれなかった。


 その先は、自分で見つけるしかなさそうだった。


 震える指を握り込んだまま、オリヴィアは彼の匂いだけを胸に吸い込んだ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今回は「求められることと望まれることの違い」を書きたくて書きました。オリヴィアは七年間、誰かに必要とされることには慣れていても、誰かに望まれるという感覚を知りませんでした。ユリウスの不器用な言葉が、そこに初めて触れる瞬間を書けたかなと思います。


 象徴の小道具は今回、匙でも道具袋でもなく、彼の上着にしました。これまで彼女はずっと与える側でしたから、今度は受け取る側の描写にしたかったんです。


 オリヴィアはまだ「はい」とは言いません。次話では、彼女の体に残った七年分の代償にも向き合うことになります。少しずつ、というところで今回は締めくくりました。


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