第38話: 守られる側
差し出された林檎の蜜漬けから、金属の後味はしなかった。
舌の上で確かめる癖が先に立ち、オリヴィアは半分ほど飲み込んでから気づいた。
もう、確かめる必要はない。
国境の関所を越えるとき、木札を懐から出す手に迷いはなかった。
——初めてこの国境をくぐった日は、迷いしかなかった。
あの日は白い鳥の木札一枚だけを頼りに、知らない国の門をくぐった。今日は同じ道を、迎えを約束された身で渡る。
その違いに、まだ実感が追いついていなかった。
関所の番兵は木札を見るなり道を空けた。
誰何も、荷改めもなかった。
七年、誰かに検められる側でいたことなど数えるほどもない。今日は逆に、検められずに通り過ぎた。
馬車が宰相府の中庭に着いたのはその日の夕刻だった。
出迎えの侍女が果実の菓子を盆に載せて運んできた。
王都でなら、まず自分の役目だった。匙で毒を測り、器をすり替え、飲み下してから頷く。
ここでは、盆はただ差し出されるだけだった。
御者が荷を下ろす音の向こうから、足音が近づいた。
「オリヴィア」
名を呼ばれ顔を上げると、ユリウスが立っていた。供も連れず、上着の襟元も崩れたままだった。
目の下に、うっすらと隈があった。宰相の激務は、七年前と変わっていないらしい。
「閣下」オリヴィアは馬車を降りながら言った。「出迎えは、書記官の仕事のはずでは」
「今日は、私が代わった」ユリウスはそっけなく答えた。「不都合か」
「いいえ」
「顔色は、悪くない」ユリウスは彼女を検めるように見た。「道中は」
「問題ございません」
その一言に、七年分の癖が滲んでいる気がした。
何を聞かれても「問題ございません」と返す。王太子の器を検めていた頃と、同じ答え方だった。
ユリウスはそれに気づいたのか、ふと目を細めた。
「その返事は、聞き飽きた」ユリウスは言った。「本当のところを聞きたい」
「……疲れました。少しだけ」
「それでいい」ユリウスは頷いた。「今日は、休みなさい」
「薬草箱は」ユリウスは荷馬車に目をやった。「まだ、その大きさで足りているのか」
「足りております」
「足りていないなら、言え」ユリウスは彼女へ向き直った。「揃えるのは私の仕事だ」
軽口のようで、軽口ではない声だった。
案内されたのは、以前と同じ薬院の裏手の一室ではなく、宰相府本館の客間だった。
寝台に絹の上掛け、卓には切り花。
薬草の匂いのしない部屋に通されるのは、初めてのことだった。
「お荷物は、こちらで」侍女は道具袋へ手を伸ばしかけた。
「自分で、します」オリヴィアは袋を引き寄せた。「触れられたくない道具が、入っておりますので」
侍女は一礼し、それ以上は勧めなかった。
「お呼びの際は、卓の鈴を」侍女は言い添えた。「何なりと、お申し付けください」
「ありがとうございます」
灰塵の瓶と炭の粉。人に触れさせられないものが、まだ袋の底に眠っている。
全部を明け渡すには、もう少し時間がかかりそうだった。
侍女が茶器を運んできて、卓に並べた。
「長旅でお疲れでしょう」侍女は言った。「湯あみの支度もいたしましょうか」
「いえ、これだけで結構です」
「お毒味は、要りませんので」侍女はそう言って一礼し、下がっていった。
その一言に、手が止まった。
毒味は要らない。当たり前のことを、わざわざ告げられた。
湯気の立つ茶碗へ、手が伸びかけた。匙を探す仕草だった。
匙は、ない。
オリヴィアはその手を、卓の上でもう一度開いた。
ただ茶を飲むだけの動作に、こんなにも手間取るとは思わなかった。
一口含むと、渋みの奥にほのかな蜜の甘さがあった。
毒ではない。ただの茶葉の味だった。
それだけのことが、妙に落ち着かない。
窓の外はもう暗く、篝火の連なりが遠くまで続いていた。
この国に来てから、夜を怖がらずに眠れるようになった。
王都では、夜更けに廊下を歩く足音一つで身構えた。ここでは、足音がしても顔を上げるだけで済む。
だが今夜、眠れずにいるのは怖さのせいではなかった。
誰にも見張られず、誰の器も検めず、ただ休むためだけに与えられた夜。
その扱い方が、まだ分からずにいた。
鞄の底から、侍女頭に持たされた薬草の包みを取り出した。
道中は結局、一度も開かずにいた。
湯に浮かべると、乾いた葉から苦さの奥にかすかな甘さが立った。
同じ匂いを、この国でも一人で嗅ぐことになるとは思わなかった。
それでも、口に含むと強張っていた肩から力が抜けていった。
翌朝、オリヴィアは薬院の戸を叩いた。
道具袋の中身を並べる前に、ハルダに肩をつかまれた。
「今日はいい」ハルダは言った。「あんたは座ってな」
「作業台の棚卸しが、滞っていると聞きました」
「滞っていて構わないのさ」ハルダは眼鏡の奥で目を細めた。「三日やそこら、何がどうなるものでもない」
テオが奥から顔を出した。
「顧問殿がまた根を詰める顔してる」テオは笑った。「昨日着いたばかりだろう」
「働かないと、落ち着かないのです」
言ってから、それが理由になっていないことに気づいた。
「なら、大人しく従うんだな」テオは椅子を引いて寄越した。「たまには」
オリヴィアは椅子に腰を下ろした。
誰かに椅子を勧められて座るという動きに、まだ慣れていなかった。
七年間、椅子は自分から勧めるものだった。座らせる側に回ることは、記憶にほとんどなかった。
「顔に書いてある」ハルダは薬研を挽きながら言った。「暇の使い方を知らない、と」
図星だった。
「知らないなら、覚えるしかないさ」ハルダは続けた。「働きだけがあんたの値打ちじゃない。ここでは、な」
その一言は、薬研の音に紛れて優しかった。
それでも、ハルダは皿の上の乾燥根を指さした。
「これだけは、見てほしい」ハルダは声を落とした。「若いのが仕入れを間違えたらしくてね」
乾燥根の香りを確かめると、狙っていた鎮痛のものではなく、近縁の毒草だと分かった。
「毒草です」オリヴィアは即答した。「量を誤れば、心が止まります」
「やっぱりか」ハルダは苦く笑った。「あんたの鼻は、休ませておくには惜しいね」
「見ろよ」テオが横から口を挟んだ。「一日座ってろと言われた矢先に、これだ」
「頼まれれば、断れません」
「そこが、心配なんだよ」テオは肩をすくめた。
「前にも、似たようなやつがいてね」テオは言った。「根を詰めすぎて、倒れた」
「……どうなったのですか」
「今は元気にやってる」テオは言った。「ただし、周りが無理やり休ませてからだ」
「その方は、今どちらに」
「ここにいるよ」テオはハルダを顎で示した。「若い頃の話さ」
「あたしのことを、種にするんじゃないよ」ハルダが薬研の手を止めずに言った。
「本当のことだろう」テオは肩をすくめた。「休めと言われて、休める質じゃなかったって」
「あんたに言われたくないね」ハルダは顔も上げずに言い返した。「似た者同士だ」
働きを頼られることと、こき使われることの境目が、まだ自分でもうまく引けなかった。
結局その日は、棚卸しの代わりに乾燥棚の陰干しを言いつけられた。
力仕事でも判断仕事でもない、半端な作業だった。
それでも手のひらに草の匂いが染みるたび、少しずつ息がしやすくなっていくのが分かった。
戸口を出るとき、テオが片手を挙げた。
「明日も、来るなよ」テオはにやりとした。「せめて三日は休め」
「善処します」
善処という言葉が、七年間で一番よく使った逃げ口上だったと今更思い出した。
夕刻、庭の四阿でユリウスと落ち合った。
彼のほうから使いをよこして、呼ばれた形だった。
四阿には灯りが一つだけ点っていた。
卓には書類でなく茶器だけが並んでいる。
執務の続きでないと分かっただけで、肩の強張りが緩んだ。
「陰干しの棚は、片付いたか」ユリウスは尋ねた。
「はい」
「顔つきが、朝より和らいだ」ユリウスは彼女を見た。「薬院が、合っているのか」
「分かりません」
「ハルダに聞いた。今日は一日、大人しくしていたと」
「大人しくしていたわけでは」オリヴィアは言葉を選んだ。「ただ、言われた通りにしただけです」
「それを、大人しいと言う」
言い返せなかった。
ユリウスは卓の上の茶器を引き寄せ、自分の手で茶を注いだ。
「閣下」オリヴィアは腰を浮かせかけた。「わたしが」
「座っていろ」ユリウスは目だけで制した。「今日ぐらいは、私が注ぐ」
茶碗が差し出された。
注がれた茶を受け取る手が、行き場を失ったように宙で止まった。
七年、誰かに何かを注いでもらう場面を、うまく思い出せなかった。
「その顔だ」ユリウスは彼女を見た。「慣れないという顔」
「否定は、できません」
「慣れなくていい」ユリウスは言った。「慣れるまで、私が続ける」
「閣下こそ、休まれているのですか」オリヴィアは尋ねた。「目の下の隈が、消えておりません」
「私のことは、いい」ユリウスは短く答えた。「今は、お前の話だ」
気遣いを、そのまま押し返された。慣れない感触だった。
その一言に、拒む理由が見つからなかった。
風が四阿の外を抜けていった。
ユリウスは茶碗に目を落としたまま、次の言葉を探すように黙っていた。
「オリヴィア」
「はい」
「話したいことが、ある」ユリウスは続けた。「今日でなくていい」
「かしこまりました」
「近いうちに、時間をもらえるか」
「……はい、閣下」
「そう、緊張しなくていい」ユリウスは彼女を見た。「悪い話ではない」
ユリウスはそれ以上、続けなかった。
言いかけた何かが、宙に浮いたまま夜の庭に溶けていった。
オリヴィアは茶碗を両手で包んだ。
湯気の向こうに、ユリウスの横顔があった。
何を話すつもりなのか、聞く勇気はまだなかった。
ただ、断る理由も見つからなかった。
四阿を辞し、客間へ戻る道すがら、夜風が頬を撫でた。
王都でこの時刻に外を歩くことなど、なかった。毒見の後は自室に籠もり、翌朝に備えて眠るだけの生活だった。
今はただ歩くためだけに歩いている。
寝台に横になっても、目は冴えたままだった。
話したいことがある、とユリウスは言った。
その一言だけが、頭の中に居座って離れなかった。
次に何を言われるのか、まだ分からない。
寝台の上で、手のひらをもう一度開いた。
匙も、道具袋も、そこにはなかった。ただ、空いた手のひらだけがあった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回のテーマは「守られることの気まずさ」でした。オリヴィアは七年間、誰かのために動くことでしか自分の輪郭を保てなかった人です。だから毒味をしなくていい、椅子を勧められる、お茶を注いでもらう、そんな小さな出来事のひとつひとつに、彼女はいちいち戸惑います。書いていて、幸せなはずの場面をこんなに落ち着かなく書くのは変な感覚でした。
ハルダとテオを再登場させたのは、ユリウスと二人だけの空気だと、彼女の戸惑いが「恋の初々しさ」に回収されて薄まってしまう気がしたからです。仕事仲間に「暇の使い方を知らない」と笑われるくらいのほうが、彼女の不器用さがちゃんと伝わる気がしました。
次話ではユリウスがついに言葉を継ぎます。今回の「話したいことがある」を、どう受け止めてもらえるか楽しみにしています。
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