第37話: わたしの居場所
厩の匂いが朝風に乗って、北棟の窓辺まで届いていた。
馬をつなぐ音と、革帯を締め直す音。
この城で七年、朝にこんな音を聞いたことはなかった。
荷物の紐を結び終えた指先を、オリヴィアは開いた掌の上でもう一度だけ確かめた。
薬草の包みと着替えが数枚、それに使い慣れた道具袋。荷はそれだけだった。
卓の上には、灰塵の見分け方を記した紙束を置いてきた。
銀の匙はもう自分のものではない。だが知恵は誰にでも渡せる。
次に器を覗く者が誰にも気づかれないまま終わらずに済むように。
十二の春、この城に上がった日も、荷は今より少し重いだけの一つの箱だった。
あの日は誰かに手を引かれて門をくぐった。今日は自分の足で門を出る。
今日、陛下が最後の答えを聞くと仰った日だった。
扉が叩かれた。
「お支度は」ヴォルフの声が扉越しに聞こえた。「お済みでしたら、陛下がお待ちです」
「すぐに参ります」
オリヴィアは荷を寝台の脇に置き、扉を開けた。
ヴォルフは廊下に立っていた。相変わらず背筋を伸ばし、表情を崩さない男だった。
「今日で最後になります」ヴォルフは言った。「先に、申し上げておきます」
「はい」
「陛下は、お一人でお待ちです」ヴォルフは続けた。「今日は、他に誰もおりません」
オリヴィアはその言葉の意味を、すぐに理解した。
七年前の謁見とも、三日前の御前とも違う。今日は儀式ではないということだった。
通されたのは、謁見の間ではなくその奥の小部屋だった。
円卓が一つと、椅子が二脚。玉座はなかった。
陛下は窓を背にした椅子に一人で座っていた。
「座るがいい」陛下は言った。「今日は、そのつもりで呼んだ」
「お言葉に甘えます」
オリヴィアは勧められた椅子に浅く腰掛けた。
「発つ日を決めたか」陛下は尋ねた。
「はい」
「いつだ」
「今日にございます」
「今日か」
陛下は小さく笑った。それはこれまで見せたことのない笑い方だった。
「早いな」陛下は言い添えた。「三日、思い直す猶予をやったつもりだったが」
「意味はなかったようだな」陛下は続けた。
「はい」
「詫びの中身を、言おう」陛下は言った。「爵位も役も婚約も、すべて退けると申すのだな」
「はい」オリヴィアは答えた。「すべて、辞退いたします」
「理由を聞くのは、もうよそう」陛下は言った。「三日前に聞いた」
窓の外で、馬の嘶きが一度だけ響いた。
「一つだけ、余の詫びを言わせてくれ」陛下は続けた。「あの子を、育て損ねた」
オリヴィアはその言葉には答えなかった。答える立場にないと思った。
「息子は今朝、門まで見送りに出ることも許されていない」陛下は言った。「代わりに、余がその役目を負おう」
「もったいのうございます」
「もったいなくはない」陛下は返した。「これは詫びであって、恩ではない」
「メリディアの宰相のことは、余の耳にも届いている。かつてそなたが仕えたという、あの男か」陛下は言った。「行く先に、既に心を定めているのだろう」
オリヴィアはそれを否定しなかった。
「働きを飾りと呼ばない人だと、聞いております」
「それは重畳だ」陛下は言った。「この城が、お前にできなかったことだ」
「ならば、最後に一つだけ聞きたい」陛下は静かに問うた。「お前自身の望みは、どちらにある」
三日前と同じ問いだった。
だが今日は迷わなかった。
膝の上で指を組む仕草は必要なかった。
「わたしの居場所は、もう、ここではありません」
小部屋に、その一言だけが残った。
陛下は椅子の背に体を預け、動かなかった。
「そうか」陛下は言った。それだけだった。
「これより、お前に城の借りは何一つない」陛下は言い切った。「行くがいい」
「かしこまりました」
オリヴィアは深く頭を下げた。
顔を上げたとき、陛下はもう目を閉じていた。
扉を出るとき、背中に何かを見送られているような重みを感じた。それが憐れみでないことだけははっきりと分かった。
北棟の部屋に戻ると、侍女頭が卓の前で待っていた。
「お顔を見れば分かります」侍女頭は言った。「決まったのですね」
「はい」
「良い、悪いは申しません」侍女頭は続けた。「決まったのなら、それだけで結構です」
侍女頭は懐から小さな布包みを取り出し、卓に置いた。
「乾かした薬草です」侍女頭は言った。「道中、眠れない夜に煎じてお飲みください」
包みからは乾いた葉の匂いがした。
苦さの中に、かすかな甘さの残る匂いだった。
——同じ匂いを、昔にも嗅いだことがあった。
十三の秋、廊下で倒れかけた夜のことだった。
侍女頭は白湯にこの葉を浮かべ、何も聞かずに飲ませてくれた。
「毒見のあとはいつもこう」と偽った嘘を、彼女はそのとき本当は見抜いていたのかもしれない。
その夜以来、この葉の匂いを嗅ぐたび、誰かに見られている気がしていた。
——幾年ぶりか、同じ葉の匂いが戻ってきた。
「ありがとうございます」オリヴィアは包みを両手で受け取った。「大切にいたします」
「大切にしなくても結構です」侍女頭は言った。「飲んでしまえば、それで役目は終わりです」
その言い方がいかにも侍女頭らしかった。
「七年、お世話になりました」
オリヴィアは頭を下げた。
「世話などしておりません」侍女頭は答えた。「ただ、隣にいただけです」
「隣にいるということが、わたしにはずっと分かりませんでした」オリヴィアは言った。「教えていただいた気がいたします」
「教えたつもりもございません」侍女頭は言った。「気づいたのは、あなたです」
その一言で、七年分の意味が変わった気がした。
荷を背に、オリヴィアは北棟を出た。
廊下の先で、ヴォルフが待っていた。
「お見送りは、私までです」ヴォルフは言った。「門から先は、衛兵の役目になります」
二人は無言のまま、しばし並んで歩いた。
「先日、御用の間の棚を覗きました」ヴォルフは言い添えた。「あなたが命がけで残した洗い場の綴じ帳の控えは、まだそこにあります」
「そうですか」
「新しい書役は、あなたの名を知りません」ヴォルフは続けた。「知らないまま、数字だけを引き継いでいます」
「それで、よいのです」オリヴィアは言った。「知らなくても、残っていれば」
「城は、忘れることに慣れた場所です」ヴォルフは言った。「忘れないものが一つでもあれば、御の字でしょう」
「三十年、この城で扉を開けてきました」ヴォルフは言い添えた。「あなたのために開ける扉は、今日で最後になります」
「長く、お世話になりました」
「それは買い被りです」ヴォルフは答えた。「扉を開けて、閉めた。それだけの男です」
その素っ気なさが侍女頭とはまた違う優しさに聞こえた。
回廊の窓から、朝の光が石床に長く伸びていた。
中庭を横切るとき、朝の掃除をしていた侍女たちが手を止めた。
誰も声をかけてはこなかった。
その代わり、箒を持ったまま深く腰を折る娘が一人いた。
オリヴィアは会釈だけを返し、歩みを止めなかった。
名も知らない誰かに膝を折られたのは七年で初めてのことだった。
城門の手前、回廊の柱の陰にアルヴィスが立っていた。
供も連れず、正装でもない。着崩れた外套の襟から、痩せた首筋がのぞいていた。
朝の光の下で見ると、頬の落ち窪みがなおのこと深く見えた。
ヴォルフが一礼し、先に門の方へ歩いていった。
オリヴィアは足を止めた。
アルヴィスは何も言わなかった。
目が合うと、彼はただ頭を下げただけだった。
王太子が誰かに頭を下げるところを、オリヴィアは初めて見た。
顔を上げたアルヴィスの口が一度だけ動いた。
「オリヴィア」
それだけだった。
続きの言葉は今度も見つからないままだった。
七年前、彼はいつも先に言葉を持っていた。棘のある言葉も、屈託のない言葉も、迷わず口にできる人だった。
今、目の前にいるのは名前一つを口にするのに全部を使い切ったような男だった。
「どうか、良くなってください」オリヴィアは言った。「今度は、殿下ご自身のために」
アルヴィスは頷いた。
それ以上、何も続けなかった。
オリヴィアは一礼し、ヴォルフの後を追って門へ向かった。
城門をくぐると、外の空気が変わった。
馬車の車輪が石畳の上で鈍い音を立てていた。
御者が荷を積み終え、待っていた。
オリヴィアは一度だけ振り返った。
城壁は朝の光の中で、ただの石の壁に見えた。七年見上げてきた壁がこんなに低く見えるのは初めてだった。
風には青草と土の匂いが混じっていた。
七年、器の底の金属臭ばかりを嗅いできた鼻に、それはひどく頼りない匂いだった。
頼りないが、体に毒はなかった。
オリヴィアは馬車に乗り込み、御者に発つよう告げた。
大通りを抜けるあいだ、パン屋の窯の匂いと市場の呼び声が窓の外を流れていった。
七年前、この道を馬車で通ったときは隣に付き添いの侍女がいた。
今は誰もいない。だが寂しさより先に、軽さがあった。
馬車の車輪が石畳から土の道へと音を変えていく。
風に混じる青草の匂いが次第に強くなっていく。
その先に、メリディアへ続く道があった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ずっと温めていた一言を、ようやく形にできた回でした。「わたしの居場所は、もう、ここではありません」——この台詞のためだけに、オリヴィアの七年と、EP36の陛下の問いを置いてきたようなところがあります。答えを引っ張るだけ引っ張って、ようやく出す。書いていて自分でも息を止めていました。
今回いちばん悩んだのはアルヴィスの扱いです。EP36で言葉を失った彼を、また喋らせたい誘惑はずっとありました。でも今の彼に必要なのは弁解ではなく、名前を呼ぶことだけだと思い直しました。頭を下げる、名前を呼ぶ、それ以上は続けない。少ない言葉のほうが、彼の変化を強く伝えられる気がしています。
次話からは舞台がメリディアに移ります。誰にも気づかれない献身の話から、誰かに守られる話へ。オリヴィアにとってはこちらのほうがずっと難しい変化かもしれません。
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