第36話: 戻らない
三日前に受け取った書状はまだ蝋の匂いを残していた。
指に挟むと、古い金属に似た匂いがかすかに立つ。
舌に伝えていた頃なら、匂いの奥にある毒の有無まで読み分けられたはずだった。
今は匂いだけで、それ以上は分からない。
オリヴィアはその紙を、着替えの前にもう一度だけ開いた。三日前と同じ、日と刻限だけの短い文字列だった。
北棟の狭い部屋で、オリヴィアは持っている中で一番仕立ての良い濃紺の服に袖を通した。
装飾のない生地は七年前に城で纏っていたものよりずっと地味だった。
「髪は、結い直しましょう」侍女頭が言った。「御前ですもの」
「このままで結構です」オリヴィアは答えた。「飾る意味が、もうございません」
侍女頭はそれ以上勧めず、襟の折れだけを指でそっと直した。
「用向きは、本当に何もお聞きになっていないのですか」
「何も」オリヴィアは言った。「日と刻限だけの紙でした」
「良いお話であれば良いのですが」
「三日、考える時間はございました」侍女頭は言った。「怖くはございませんか」
「怖い、というより」オリヴィアは言った。「何を怖がればいいのかが、まだ分かりません」
「良い話ほど、理由を先に書かないものかもしれません」オリヴィアは三日前と同じ言葉を、もう一度自分に言い聞かせるように口にした。
鏡はない部屋だった。オリヴィアは襟を自分の指先で確かめ、部屋を出た。
王城の大扉が開く音は七年前と変わらなかった。
蝶番の軋みも、床石を踏む音の反響も。
変わったのは、その音を聞いている自分の側だった。
「洗い場の方」ヴォルフが控えの間で待っていた。「お見えになりましたか」
毒見役の座も、伯爵令嬢の名も持たない今の自分には、それがいちばん正しい呼び方だった。
「はい」
「陛下は、すでにお座りです」ヴォルフは言った。「先にお伝えしておきます。今日、殿下も御前に控えておいでです」
オリヴィアはその名を聞いて、指先の力を一度だけ確かめた。乱れてはいなかった。
「かしこまりました」
「何を仰るかは、私にも分かりません」ヴォルフは言い添えた。「私は、扉を開ける役目までです」
扉が開いた。
謁見の間は七年前より広く見えた。
人が少ないせいだった。居並ぶはずの重臣の列は半分ほどしか埋まっておらず、空いた場所が壁際の影のように目についた。
南の縁組みが立ち消えた一派も、体調を理由に今日は欠けているという。
焚かれた香の匂いが、いつもより濃い。誰かが緊張を隠すために焚かせたのだと、オリヴィアは思った。
玉座の陛下は思っていたより小さく見えた。年のせいか、この数日の重さのせいかは分からない。
その脇に、アルヴィスが控えていた。
頬骨の影がさらに深くなり、正装の襟が首に対して緩んで見えた。目はオリヴィアに向いたが、すぐに床へ落ちた。
「面を上げよ」陛下が言った。「レイヴンズクロフトの娘」
オリヴィアは顔を上げた。
「七年、息子の膳を見ていたそうだな」陛下は続けた。「誰にも知らせず」
「務めにございました」
「務め、と申すには重すぎる」陛下は言った。「毒を、身をもって受けていたと聞いた」
その一言に、居並ぶ者の間からどよめきが起きた。何人かは隣の者と顔を見合わせ、知らされていなかったことを言葉なく確かめ合っていた。
「本当のことでございます」オリヴィアは言った。「それ以上でも、以下でもございません」
「余は、それを知らずに七年を過ごした」陛下は言った。「知らずに、お前を飾りと呼ばせていた」
陛下の声には、重臣に向けるものとは違う低さがあった。
「詫びを言うにも、遅すぎることは分かっている」陛下は続けた。「だが、詫びだけで終わらせるつもりはない」
「典礼官より聞いた。務めそのものは、体ゆえに受けられぬと」陛下は言った。「ならば、務めでない形で報いよう」
陛下は一度、居並ぶ者を見渡した。
「レイヴンズクロフトの娘オリヴィアに、男爵位を授ける」陛下は続けた。「毒見の座ではなく、毒を知る者としてこの城の上位に立つがいい。若い毒見役に知恵を授ける役目を、新たに設ける」
間があった。誰も声を上げなかった。
「体を張る役目ではない」陛下は言い添えた。「お前の耐えた七年を、この国が誤って軽んじたことへの詫びだ」
オリヴィアは陛下の言葉を、黙って受け止めた。
「ありがたきお言葉にございます」オリヴィアは言った。「ですが」
「まだ、続きがある」陛下はオリヴィアの言葉を遮った。
陛下の視線が、脇のアルヴィスへ動いた。
「アルヴィスとの婚約を、改めて結び直す。それが、余の望みだ」
息を呑む音が、どこかの列から聞こえた。
末席近くで、若い伯爵家の令息が身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を正した。先日の食堂で「毒見なしで、お出しするのですか」と真っ先に声を上げた、あの主だった。
アルヴィスの肩が、目に見えて強張った。
「殿下は立太子を保留されている。宮廷は揺れ、南のご縁組みも立ち消えた」陛下は続けた。「お前が戻れば、揺れは収まる。息子の隣は、七年支えた者が座るのが最も筋が通る」
「陛下」アルヴィスが口を開いた。「それは——」
陛下が軽く手を上げた。それだけで、アルヴィスの声は止まった。
「お前の口を挟む話ではない」陛下は返した。「これは国の話だ」
アルヴィスはそれ以上続けず、床へ視線を落とした。
肩の線が、以前よりずっと薄く見えた。
——七年前、初めて城に上がった日のことが、一瞬だけ重なった。幼い王太子が「つまらない役目だ」と鼻を鳴らした日。
あのときの傲りは、今この人のどこにも残っていない。
——重なった記憶は、すぐに今の玉座の前へ戻ってきた。
「爵位も役も婚約も」陛下は言った。「三つ揃えて、お前に用意する。これ以上の詫びを、余は思いつかない」
謁見の間に、燭の匂いだけが漂っていた。
蝋の匂いは三日前の書状と同じ質を持っていた。
「爵位と役、身に余るお話にございます」オリヴィアは答えた。「ですが、お受けすることはできません」
「理由を聞こう」
オリヴィアは、膝の上で指を一度組み直した。
「体が、足りません」オリヴィアは言った。「若い毒見役に教えるにも、舌はもう毒を測れません。教えられるのは知恵だけです。知恵だけでは、役の名に見合いません」
陛下は肘掛けに置いた指を、動かさなかった。
「では、婚約の話はどうだ」陛下は尋ねた。「体の話ではない」
オリヴィアはその問いに、すぐには答えなかった。
答える前に、陛下の言葉のどこが自分の内側に触れたのかを確かめる必要があった。
隣国の宰相は、働きを飾りとは呼ばない人だった。随員として仕えた日々に、幾度となく確かめてきたことだ。
それでも、その記憶だけが今、陛下の重ねる言葉より確かに思えた。
「これまで」オリヴィアは告げた。「わたしは誰かの都合でしか望まれたことがございません」
その一言で、敬語の形が一瞬だけ薄くなった。
「城が揺れているから、わたしが要る。殿下の隣が空いているから、わたしが要る」オリヴィアは続けた。「望まれる理由は、いつもわたし以外のところにございました」
「今度だけは」オリヴィアは返した。「わたし自身の望みで、決めとうございます」
謁見の間が、静まった。
陛下はそれでも即座には引かなかった。
「お前自身の望みは、どちらにある」
オリヴィアはその問いにだけは正直に答えた。
「まだ、ここではございません」
陛下はしばらく、玉座の肘掛けを指で軽く叩いていた。
「発つ日は、決めているのか」
「まだ、決めておりません」
「では、発つ日に聞こう」陛下は返した。「今日の答えを、最後のものとはしない」
それは許しではなく、猶予だった。オリヴィアにはそう聞こえた。
「畏れながら」オリヴィアは答えた。「発つ日になっても、お答えは変わらぬかと存じます」
「変わらぬなら、それを発つ日に聞けばよい」陛下は言い添えた。「今日、余の前で言わせるつもりはない」
その言い方には、王としての意地よりも、老いた父親のような未練の方が濃く滲んでいた。
オリヴィアは深く頭を下げ、それ以上は何も言わなかった。
顔を上げたとき、アルヴィスと目が合った。
アルヴィスの唇が、何か言おうとしてわずかに動いた。だが言葉にはならず、視線だけがオリヴィアの手のあたりに落ちた。
荒れた指先を、見ているようだった。
控えの間を出ると、ヴォルフが扉の脇で待っていた。
「聞こえておりました」ヴォルフは言った。「扉越しに、少しだけ」
「お聞かせするつもりはございませんでした」
「聞こえるように作られた扉なのでしょう」ヴォルフは言った。「この城は、そういう建て方をする」
オリヴィアはその言葉に、答えなかった。
「発つ日は」ヴォルフが尋ねた。「もう、お決まりで」
「まだ」オリヴィアは言った。「ですが、遠くはないと思います」
廊下の窓から、昼の光が差し込んでいた。
七年前、同じ窓から見た光はもっと眩しかった気がする。
北棟に戻ると、侍女頭が卓の前で待っていた。
「陛下は、何と」侍女頭は尋ねた。
「爵位と、新しい役目を」オリヴィアは言った。「それから、殿下との婚約を結び直したいとも」
侍女頭は息を止めた。
「お受けに」
「いいえ」オリヴィアは首を振った。「今日はまだ、お答えしておりません」
「まだ、とは」
「発つ日に聞く、と陛下は仰いました」オリヴィアは言った。
侍女頭はそれ以上、何も尋ねなかった。
爵位も、役も、婚約も、この城が差し出せる中で最も重いものだったはずだ。
だが今、オリヴィアの中に残っていたのは、そのどれでもなかった。
言葉にならないまま止まった、アルヴィスの唇の動きだけだった。
七年間、彼はいつも先に言葉を持っていた男だった。今日、初めて何も持っていなかった。
発つ日は、思っているよりずっと近い。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
今回は「引き止め」を正面から描いた話でした。爵位、新設の役職、そして婚約の立て直し——この国が差し出せる最も重いものを三つ並べて、オリヴィアに突きつける。それでも彼女の答えが揺らがないのは、意地でも我慢でもなく、「望まれる理由がいつも自分以外にあった」ことへの静かな異議申し立てなのだと思います。
書いていて一番緊張したのは、陛下がアルヴィスの口を手ひとつで止める場面でした。かつて誰よりも強く「毒見の女など用済みだ」と言い放った彼が、今は何を言おうとしても遮られてしまう。権威も言葉も、もう彼の側には残っていません。そこにEP34の「頼む資格が、私にはない」の続きが、静かに響いていればいいなと思います。
陛下は最後まで「今日の答えを最後のものとしない」と粘りますが、オリヴィアの中ではもう決着はついています。ただ、それを口にする相手はまだこの場にはいない——次話で、その言葉がようやく形になります。
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