第35話: 凋落の宮廷
鐘の音が、いつもより低かった。
朝の礼拝を告げる音のはずが、今日は間延びして、途中で一度だけ掠れた。
鳴らす手が、いつもと違うのかもしれない。
オリヴィアは洗い場の戸口に立ったまま、その音を数えるともなく聞いていた。
北棟の水は朝のうちが一番冷たい。
布を沈めると、指先より先に手首のあたりが冷えを拾った。
舌はもう温度の違いを教えてくれない。
代わりに、皮膚の面積の広いところが少しずつ役目を引き継いでいる。
「昨日の御前は、長うございましたね」侍女頭が隣で布を絞りながら言った。
「存じております」オリヴィアは言った。「殿下がお答えになる番だと、伺っておりました」
「終わったのは、夜半を過ぎてからだったそうです」侍女頭は言った。「陛下のお言葉は、まだこちらには届いておりません」
「何も」
「触れも、まだ」侍女頭は言った。「御用の間が、今日は朝から静かだと聞きました」
静かというのは、書役たちが忙しくないという意味ではない。
誰も何を書けばいいか分からずにいるという意味だと、オリヴィアは思った。
布を絞る手を止め、竿へかける。
指先の力が足りず、端がひとところ垂れたままになった。今日も直せなかった。
昼前、渡り廊下に人が増えていた。
扇の陰で貴婦人が三人、声を潜めている。
潜めているつもりで、声は潜められていない。
「立太子の儀は、延びるそうよ」
「延びる、ではなく」一人が声をさらに落とした。「取りやめ、という話も聞きましたわ」
「まさか」
「陛下は、殿下の御裁量をしばらく預かるおつもりだとか。宮内の再編は、重臣の合議で進めると」
「南のご縁組みの話も、立ち消えたと聞きましたわ」別の一人が言った。「毒の噂が、隣国まで届いていたということでしょう」
誰も、こちらを見ていない。オリヴィアはその隙間を静かに抜けた。
七年前、この廊下で交わされていた囁きは王太子の慢心を称える響きだったはずだ。今日の響きは、その裏返しだった。
食堂の前を通りかかったとき、いつもと違う気配に足が止まった。
卓に、人が少ない。
朝餉の間、七年間ずっと埋まっていた席のいくつかが今日は空いていた。
給仕の者たちが、空いた席の前で立ち尽くしている。
「——毒見なしで、お出しするのですか」
声を上げたのは、若い伯爵家の令息だった。皿を前に、手を止めたまま動かない。
「毒見役は、置かぬことになっております」給仕頭が言った。「先の触れの通りで」
「置かぬことになった、その先のことを聞いている」令息は言った。「セリカ嬢の一件のあとで、誰が確かめるのだ」
その場に、水を打ったような間があった。
誰かの椅子が床を擦る音を立てた。
それが合図になったように、二人、三人と席を立つ者が続いた。
皿の料理には誰も手を付けないままだった。
オリヴィアはその光景を戸口から見つめ続けた。
湯気の匂いを、オリヴィアはもう追えなかった。七年、香りだけで毒を見分けてきた鼻が、今は誰よりも「分からない」側に立っている。
七年、この卓に毒が盛られていたことを、当時ここに座っていた誰も知らなかった。
今、毒がないことを誰も信じられずにいる。
恐れの形が入れ替わっただけで、卓の上には結局、同じ静けさが降りている。
午後、北棟の裏手で呼び止められた。
「洗い場の方、ですね」
振り返ると、見覚えのない壮年の男が立っていた。襟元の徽章から、典礼官と知れた。
徽章の意匠は、宮内府でも上位の格を示すものだった。これほどの地位の者が、自ら洗い場まで足を運んだことに、まずオリヴィアは驚いた。
「はい」
「私はヴォルフと申します。典礼と宮内の職掌を預かる者です」ヴォルフは言った。「あなたに、伺いたいことがございます」
「わたしに」
「毒見役の職を、あなたが七年務めていたと聞きました。その務めぶりについて、教えていただきたい」
オリヴィアはその言葉を黙ったまま聞いていた。
「教える、とは」
「職を、また置くことになりました」ヴォルフは続けた。「陛下のお指図です。今度は、閑職とは呼ばせません。宮内でも重い役として据え直す」
「なぜ、今になって」
「今になって分かった、と申し上げるほかありません」ヴォルフは答えた。「先の触れがどれほどの穴を城に開けたか、卓の空席がすでに答えを出しております」
オリヴィアは食堂の空いた席を思い出した。恐れは、飾りだった役目の重さを、遅れて教えていた。
「あなたに、その職へ戻っていただきたい」ヴォルフは言い添えた。「相応の格と俸給を用意いたします。先とは、違う扱いで」
オリヴィアは自分の指先を見た。舌も鼻も、もう七年前の仕事に耐えられる体ではない。
「お受けできません」
「格が足りぬと」
「体が、足りません」オリヴィアは言った。「舌は、もう毒を測れません」
ヴォルフはその答えを予期していなかったようだった。
「では、後任の指南役として——」
ヴォルフの言葉は、途中で止まった。食堂のほうから、女の悲鳴に近い声が届いたためだった。
二人して振り返る。給仕の一人が、皿を落として立ち尽くしていた。
「毒ではございません」宮廷医らしき声が、遠くで応じている。「ただの、あたりでございます」
悲鳴も、あたりも、この城ではもう毒と地続きの言葉になっている。
ヴォルフはしばらくその方角を見ていた。
視線を戻したときには、何かを測り直したような目をしていた。
「……今のを、ご覧になりましたか」ヴォルフはオリヴィアへ向き直った。「ただの食あたりで、これです。本物が出たとき、この城の誰が見分けをつけるのか。それを教えていただきたい」
「知恵は、お貸しできます」オリヴィアは言った。「務めそのものは、お受けできません」
「なぜ、務めだけは」
「一度、飾りと呼ばれた役目でございます」オリヴィアは言った。「重い役だと言い直されても、わたしの体はもう戻りません」
ヴォルフは口をつぐんだまま、視線をオリヴィアの手のあたりへ向けていた。
荒れた指先に何かを読み取ろうとしているようだった。
「七年、その体を削って務めたと聞きました」ヴォルフは返した。「城は気づかず、あなたを追い出した。今さら重いと呼んでも、体は戻らない。分かります」
「お分かりでしたら、話は早うございます」
「早くはありません。分かったところで、私に埋められる穴ではない」
ヴォルフはそれ以上重ねなかった。
「分かりました」ヴォルフは言葉を継いだ。「知恵だけでも、いずれ改めて伺います」
一礼して去るヴォルフの背を、オリヴィアは見送った。
飾りと呼んだ口が、今度は重いと呼ぶ。
呼び方が変わっても、七年遅れていることに変わりはなかった。
夕刻、遠くに人だかりが見えた。
東の回廊を、アルヴィスが歩いていた。両脇に近侍がつき、以前より歩みが遅い。
すれ違う貴族たちの礼が、以前より浅かった。
深く頭を垂れる者はなく、形だけの会釈で済ませて通り過ぎていく。
誰も彼の目を長く見ようとしない。
以前はこの廊下を歩くだけで人が道を譲った。
今は道こそ譲られているが、譲る手つきのどこかに冷たさが混じっている。
アルヴィスはその視線の変化に気づいているのかいないのか、まっすぐ前だけを見て歩いていた。
頬の肉は、さらに削げて見えた。
オリヴィアの息が、束の間浅くなった。
柱の陰でその行列をやり過ごす。近づく理由も、遠ざかる理由も、今の自分にはなかった。
行列が通り過ぎたあと、廊下に残ったのは足音の余韻だけだった。
七年前、この廊下で聞いた足音はもっと力強かった。
同じ人の同じ足が、今はこんなにも軽く床を踏んでいる。
軽さは、体の重さが減ったからではない。
支えていたものが一つ抜けたからだと、オリヴィアは思った。
誰が抜けたのかは廊下の誰もが知っている。
夜、北棟の戸を叩く音がした。
「洗い場の方に、お届け物でございます」
開けると、見覚えのない従僕が立っていた。
差し出された紙には、見慣れぬ蝋の印が押されている。宮内府の印ではなかった。
侍女頭が、卓の陰からそれを覗き込んだ。
「その印は」侍女頭は言った。「王家の私印でございますね」
「陛下の」
「殿下のものではございません」侍女頭は言った。「陛下ご自身の」
オリヴィアはその紙を手に取った。
蝋はまだ新しく、押した指の跡がわずかに残っている。
紙を受け取る指に、迷いはなかった。二日前、殿下の匙を拒んだときの指とは、形が違っていた。
「開けられますか」
「開けます」オリヴィアは言った。「開けねば、何が書かれているかも分かりません」
封を割ると、短い文字列が並んでいた。
差出人の名は、確かに陛下その人のものだった。
目を落としたのは一瞬だったが、頬から血の気が引くのが自分でも分かった。
卓の上の燭台の炎が、その一瞬のあいだに二度揺れた。
オリヴィアは紙を静かに折りたたんだ。
「何と」侍女頭が言った。「書かれておりましたか」
オリヴィアはすぐには答えなかった。
折りたたんだ紙の重みは蝋の分だけしかないはずなのに、掌に伝わる感触はそれよりずっと重かった。
「三日後に」オリヴィアは言った。「陛下の御前へ参るようにと」
「陛下ご自身が、お呼びに」
「はい。殿下ではなく、陛下ご自身が」
「用向きは」
「書かれておりません」オリヴィアは答えた。「日と刻限だけでございます」
侍女頭の視線は、燭台の火から動かなかった。
「良いお話でしょうか」
「分かりません」オリヴィアは静かに言った。「良い話ほど、先に理由を書かないものかもしれません」
窓の外で、鐘がまた鳴った。今朝、掠れて聞こえたのと同じ低さだった。
北棟に灯る火が、卓の上の紙をぼんやりと照らしている。
何を問われるのか、紙にはそこまで書かれていなかった。
分かるのは、宮廷が自分を必要とし始めているという遅すぎる合図だけだった。
紙を持つ指先が、まだかすかに震えていた。喉の奥が乾いている。
三日後、この震えを覚えているかどうかも、今はまだ分からなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
Arc4「帰結編」の開幕回です。Arc3では王太子アルヴィス個人の悔恨と謝罪を描きましたが、今回は視点を少し引いて「組織としての宮廷」がどう傾いていくかを描きました。毒見役を「飾り」と侮った城が、いなくなった途端に疑心暗鬼で自壊していく——これは一人の罪ではなく、城全体が七年ため込んでいた無自覚のツケだと思っています。
書いていて一番好きだったのは、食堂の空席の場面です。誰も毒を疑わなかった卓が、今度は誰も信じられない卓に変わる。恐れの中身が入れ替わっただけで、静けさの質は変わらない——そこにオリヴィアの七年の献身の大きさが、皮肉な形で証明されているつもりです。
典礼官ヴォルフが持ちかけた「重い役として据え直す」という申し出も、オリヴィアにはもう届きません。届かないことこそが、この宮廷の失ったものの大きさだと思います。
次話では、陛下からの呼び出しにオリヴィアがどう向き合うか、そして彼女自身の去就が動き始めます。
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