第34話: 許しを乞う男
粥の湯気に、もう匂いはついてこなかった。
匙で縁を二度なぞり、立ちのぼるものを追いかける。届くはずのものが、途中のどこかで力を失っていく。舌はとうに死んでいた。鼻もそれを追うように、遅れはじめている。
残っているのは、掌に伝わる熱だけだった。指の腹はもう織りを拾わない。掌の熱だけが、今朝はまだ自分のものだと分かる。
七年前は、匙一本で毒の量まで測れた。三年前は、しびれの秒数で誰の手か言い当てた。今は、熱いか冷たいか、それだけしか分からない。測るものが、少しずつ削られていく。それでも、まだ何かは分かる。
匙で椀の縁を、そっと数えるようになぞった。一、二……十二で指を止めた。
分からなくなる日を、今日はまだ考えないことにした。
北棟の卓に、侍女頭が椀をもう一つ運んできた。
「お加減は」
「変わりません」オリヴィアは匙を置いた。「今朝も、匂いのほうが先に逃げます」
「舌のほうは」
「もう、聞きません」オリヴィアは椀を両手で包んだ。「掌だけが、まだ熱を拾います」
侍女頭はしばらく黙って立っていた。それから、卓の隅にある紙の束へ目をやった。
「今日、本国から紙が届くと聞きました」
「メリディアからでございますね」
「はい」侍女頭は言った。「御用の間に、昼過ぎに着くだろうと」
十一日目に開いた蝋、綴じ帳、盆の番の紙。この城に残る三つの証と、隣国から届く一枚。合わせて四つになれば、もう並べ直す手間もいらない。
「セリカさまのお部屋は」
「片づいたと聞きました」侍女頭は言った。「片づけた者の名は、まだ耳にしておりません」
「いずれ紙になります」
「そのようでございますね」
侍女頭は椀を下げようとして、手を止めた。
「殿下は、昨夜も筆をお持ちだったそうでございます」
「何とお書きに」
「侍従様も、存じませんでした」侍女頭は言った。「ただ、長くかかっておいでだったと」
「珍しゅうございますね」
「珍しゅうございます」侍女頭は言った。「あの方が、筆を止めて考え込まれるのは」
オリヴィアは椀の底へ指を沿わせた。熱は拾えた。指の腹より、掌のほうがまだ生きている。
「陛下は、この一件をどうお思いでしょうか」
「詳しくは」侍女頭は言った。「ただ、御前会議が急に長引いているとは伺いました」
「何を、話しているのでしょう」
「洗い場には、届きません」侍女頭は言った。「上のことは、上の紙にしか書かれませんので」
オリヴィアは頷いた。宮廷の上のほうで何が動いていようと、確かめる術は自分にはない。ただ、蝋も綴じ帳も番の紙も、遅かれ早かれ上の紙にも書かれるはずだった。
「今日は、御用の間へ寄ってまいります」オリヴィアは言った。「四つ目の紙を、この目で見ておきたく存じます」
「舌でなく、目でございますね」
「目でございます」オリヴィアは言った。「今はそれしか、頼れるものがございません」
「お一人で」
「お一人で参ります」オリヴィアは言った。「もう、立会いは足りております」
「炭のほうは」
「昨夜のぶんを、飲みました」オリヴィアは言った。「効いているかどうかは、分かりません」
「効いていないと、お思いですか」
「分かりません」オリヴィアは言った。「効いているなら、今より悪くなっていないという証にしかなりません。良くなる、とは違います」
侍女頭は、それに何も言わなかった。言葉より先に、椀を洗い桶へ運ぶ足の運びのほうが早かった。
渡り廊下は、朝より人の行き来が多かった。
扇の陰で、貴婦人たちが二人、声を合わせている。
「御前会議が、また明日まで続くそうよ」
「毒見役だった方が、王太子殿下のお命を七年守っていらしたって」
「まさか、あの陰気な人が」
「陰気だなんて、もう言えないでしょう」
「殿下は、どうなさるおつもりかしら」
オリヴィアはその脇を通り過ぎた。誰も、こちらを見ていない。七年前と同じ廊下で、同じような囁きが行き交っているのに、その意味だけが裏返っている。
三本目の柱を過ぎたところで、匂いのないことに気づいた。二年前から、この柱の脇にはいつもすみれと白い花の残り香があった。今朝は、何もない。
東の対は、戸が閉ざされたままだった。人の出入りする気配もない。
柱の陰から、宮廷医が姿を現した。以前より、頬がこけて見えた。
「宮廷医様」
「随員……いや、洗い場の方でしたか」宮廷医は言い直した。「呼び方に、まだ慣れません」
「お慣れにならなくとも、よろしゅうございます」オリヴィアは言った。「呼び方は、いずれまた変わります」
「また変わる、とは」
「今のわたしを言い表す言葉が、まだこの城にはございません」オリヴィアは言った。「それだけのことでございます」
「殿下のお加減は」
「血の量は、増えも減りもしません」宮廷医は言った。「私に測れることは、もう多くない」
「他に、お測りになれないことが」
「あの方の御心のほうです」宮廷医は言った。「体より、そちらのほうが読めなくなりました」
彼は白い布の包みを抱え直した。
「あなたに一つ、伺ってもよろしいか」
「はい」
宮廷医の声は、以前より低かった。疲れが、言葉の端に居座っている。
「灰塵は、退かない毒だとお聞きしています」宮廷医は言った。「あなたご自身も、そうお見受けする」
「その通りでございます」
「なら、殿下は」
「治るとは、申し上げられません」オリヴィアは言った。「進みを止めるまでが、今できることでございます」
宮廷医はしばらく黙っていた。
「あなたも、お加減がよろしくないと聞きました」
「舌が使えません」オリヴィアは言った。「鼻も、今朝から遅れております」
「薬院に、お戻りになれば」
「まだ、決めておりません」
「この七年、私は殿下のお体しか診てまいりませんでした」宮廷医は言った。「あなたの体を診たことは、一度もなかった」
「診ていただく必要は、ございませんでした」
「必要がないと、あなたが決めておられただけかもしれません」宮廷医は言った。「今からでも、遅くはないと思いますが」
「お気持ちだけ、頂戴いたします」オリヴィアは言った。「今のわたしに要るのは、薬ではなく決めることでございます」
宮廷医は一礼して、廊下の奥へ消えた。
御用の間は、廊下の突き当たりにあった。
卓の奥に、若い書役が座っている。老いた前任者に代わって座ってからまだ半月にもならないのに、その姿勢はもう板についていた。
「洗い場の方か」
「はい」
「昼過ぎに、隣国から紙が来ると聞いている」若い書役は言った。「先に言っておくが、私はまだ読んでいない」
「かまいません」
卓の上に、すでに三つの預りが並べてあった。綴じ帳、番の紙、蝋の欠片。受け取ったと書かれた紙が、それぞれの下に添えられている。蝋だけには、開けたの一語が加わっていた。
「これに、四つ目が並ぶわけだ」若い書役は言った。「並べて、私が何をするわけでもないが」
「読み比べていただければ、十分でございます」
「読むのは私の役目だ」若い書役は言った。「並べるのはそちらの役目だったと聞いている」
「御前会議の話を、道々耳にいたしました」
「私も聞いた」若い書役は言った。「ここには、会議の紙は来ない」
「参りませんか」
「触れが出れば、来る」若い書役は言った。「触れが出るまでは、私の卓の上のことしか私は知らん」
昼を過ぎたころ、廊下に馬の匂いが差した。伝令が来たという声が、遠くから届く。
若い書役は席を立ち、しばらくして戻った。手にした紙は、封蝋がまだ半分残っていた。
「メリディア宰相府の記録だ」若い書役は言った。「洗い場の綴じ帳、盆の番の紙、蜜蝋の膜。この三つと同じ日を、向こうも別に記していたと書いてある」
「日付は」
「合っている」若い書役は言った。「向こうは向こうで、荷改め帳と関所の記録から辿ったらしい。書いた場所も人も違うのに、指す日が一致している」
彼はその紙を、三つの預りの隣に並べた。
「これで、四つだ」若い書役は言った。「並んだところで、私が裁くわけではないが」
「存じております」オリヴィアは言った。「裁くのは、この部屋のお役目ではございませんので」
「そうだ」若い書役は筆を取った。「十二日目、隣国よりの記録、到着。既存の三つの預りと日付相違なし。確認は書役の目による」
控えが、また二通できた。一通は棚へ、一通はオリヴィアの手へ渡された。
「持っていくのか」若い書役が言った。
「はい」
「重くはないか」
「紙は、体より軽うございます」オリヴィアは言った。「軽いことに、今日はじめて助けられました」
「セリカさまの一件は、こちらではどのように書かれますか」
「急な病、と」若い書役は言った。「私が書くのではない。上から、そう回ってきた」
「その紙に、この四つは繋がりますか」
「私には分からん」若い書役は言った。「繋げるのは、私より上の誰かだ」
「灰の匙という名を、この部屋でお聞きになったことは」オリヴィアは言った。北方の毒を扱う者らのあいだで囁かれる、実在するかも定かでない組織の名だった。
若い書役の手が、紙の上で止まった。
「ない」若い書役は言った。「聞いたことがあると書けば、私の紙が誰かに狙われる」
「では、お聞きにならなかったことにいたします」
「そうしてくれ」若い書役は言った。「私は、日付を確かめる者だ。名を追う者ではない」
彼は帳面を閉じ、棚へ戻した。
「あの前任の御仁は、どうしておいでですか」
「聞かない」若い書役は言った。「聞けば、次は私が同じ道を辿る」
「それでも、案じておいでですか」
「案じたところで、私に何ができるわけでもない」若い書役は言った。「この部屋に座る限り、案じることより数えることのほうが役に立つ」
彼は小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
午後は、洗い場で麻布を数えた。
殿下の布は、もう血の点が減らない。一昨日と同じ数、昨日と同じ数。増えも減りもしない数を、今日も綴じ帳に書き足す。
「増えておりませんね」隣で洗っていた下働きの娘が言った。「よろしいことなのでしょうか」
「悪くなっていない、というだけでございます」オリヴィアは布を絞った。指の先まで力が通らず、絞りきれない水がまだ布に残った。
「随員様……いえ、殿下を案じておいでですか」
「案じるのが、務めでございます」
「務め、でなくても」娘は小さく笑った。「よろしいのに」
オリヴィアはそれに答えなかった。答えを持たないまま、次の布に手を伸ばした。
桶の水面に、自分の顔が映っている。目の下の色が、以前より濃い。七年、鏡より膳を見てきた顔だった。今は、膳を見る役目もない。
薬院にいたころ、ハルダは布を数えることさえ一つの見立てだと言っていた。数の増減は、体の内側の音だと。今、自分の内側が立てている音は、以前より遠くから聞こえる。
水を替えに立ったとき、日が傾きはじめているのに気づいた。もうすぐ、灯りを入れる刻限だった。
七年間、毎朝同じ台詞を口にしてきた。今朝も、問題はございませんでした、と。あの台詞は、噓ではなかった。ただ、問題を自分の内側へ移しただけだった。
今、桶の前に立って布を絞りながら、同じ台詞をもう誰にも言わなくていいことに、ふと気づく。誰にも言わない代わりに、誰も聞いてくれない。どちらが軽いのか、まだ分からなかった。
娘が水を汲みに立った隙に、オリヴィアは絞り終えた布を竿へかけた。指先の力が足りず、布の端がひとところだけ垂れ下がったままになる。直そうとして、直せなかった。垂れたままの布を、そのままにして次の一枚に手を伸ばした。
夕刻、戸を叩く音がした。
開けると、若い侍従が敷居の外で頭を下げていた。「東の棟まで、ご案内いたします」
東の棟へ上がる階段は、もう数えなくても足が覚えていた。段の途中、以前は嗅ぎ分けられた蜜蝋の匂いが、今日はどこにも立っていない。匂いの代わりに、階段の冷たさだけが足の裏に届く。
部屋の内は、燭台がひとつ灯っている。アルヴィスは寝台の上、背に枕を重ねて座っていた。膝の上に、書きかけの紙が数枚。枕元には薬包の紙が数枚、丸めたまま置かれていた。頬の肉が、以前よりさらに薄くなっている。
「来たか」
「参りました」
「掛けてくれ」アルヴィスは寝台の脇の椅子を指した。「立ったままでは、話しづらい」
オリヴィアは椅子に腰を下ろした。座るのは久しぶりだった。
「メリディアの紙は、見たか」
「見ました」
「同じ日を指していたと聞いた」
「四つとも、同じでございます」オリヴィアは言った。「書いた場所も人も、違うのに」
「そうか」
アルヴィスは膝の紙を、指の下で少しずらした。
「今日は、粥を五口食べた」アルヴィスは言った。「昨日よりは、多い」
「よろしゅうございました」
「宮廷医は、もう血の量を数えていない」アルヴィスは言った。「意味がない、と言われた」
「意味がない、とは」
「量が減らないからだ」アルヴィスは言った。「数えても、変わらない数だから」
「灰塵は、退かない毒だと聞いた」
「退きません」オリヴィアは言った。「溜まるほうにしか動かない毒でございます」
「お前も、同じか」
「同じでございます」
七年、身代わりに飲み続けてきた毒だった。理由までは、口にしなかった。
アルヴィスは、その答えをしばらく口の中で転がしているようだった。
「父上は、明日にも私を御前へ呼ぶそうだ」アルヴィスは言った。「毒見役を廃した理由を、私自身の口で説明しろと」
「殿下は、どうお答えに」
「まだ、決めていない」アルヴィスは言った。「本当のことを言えば、私はただ言われるままに触れを出しただけだ。それすら、恥だがな」
「恥だと、思し召しですか」
「思う」アルヴィスは言った。「命じたのは私だ。理由を教えられたのは、あとになってからでも」
「陛下は、殿下を廃されるのでしょうか」
「分からない」アルヴィスは言った。「廃されても、仕方がないとは思っている」
「殿下ご自身は、どうお望みですか」
「望みを言える立場かどうかも、分からない」アルヴィスは言った。「ただ、廃されるにしても逃げずに聞くつもりでいる」
「聞いた先に、何をなさいますか」
「まだ、決めていない」アルヴィスは言った。「決めていないことばかりだ、今日は」
「オリヴィア」
「はい」
「私は、お前に詫びなければならない」
その言葉が、部屋の中でしばらく浮いていた。オリヴィアは椅子の上で、その響きを黙って受け止めた。
「気づかなかった」アルヴィスは言った。「七年、お前が何を飲んでいたか私は知らなかった」
「殿下はご存じないままでよろしかったのです」オリヴィアは言った。「知られては、続けられませんでした」
「それだけではない」アルヴィスは続けた。「私は、毒など出たことがないと言い切った」
「はい」
「あの日、謁見の間で」アルヴィスは言った。「毒見の女など、もう用済みだと」
「覚えております」
「私は、あの言葉を七年正しいと思って口にしていた」アルヴィスは言った。「毒が出ないのは当たり前だと。誰かがそう仕向けているとは、一度も疑わなかった」
「疑わないように、努めておりました」オリヴィアは言った。「疑われては、犯人に手を変えられます」
「知っている」アルヴィスは言った。「お前がそのために黙っていたと、先日聞いた」
「殿下のお言葉があったから、黙っていたのではございません」オリヴィアは言った。「これは、以前も申し上げました」
「分かっている」アルヴィスは言った。「お前の沈黙は、私のせいではない。だが」
彼は紙を持つ手に、力を込めたようだった。指の跡が、紙の端に薄く残った。
「私が、七年のあいだ膳を疑わない城を作っていた」アルヴィスは言った。「それだけは、変わらない」
「殿下」
「最後まで言わせてくれ」アルヴィスは言った。「私が独りにした。お前を、この城で独りにした。気づく者が、お前ひとりしかいなかったのは私のせいだ」
声の終わりが、わずかに掠れた。膝の紙が、握った指の下で音もなく歪んだ。
オリヴィアは、それに何も答えなかった。答えることが、今は要らないと分かっていた。
七年、この人の慢心を恨んだことは一度もない。恨む代わりに、黙って毒を飲んだ。恨まなかった自分を、正しかったとも、間違っていたとも、今日まで一度も測ったことがなかった。測る意味が、なかったからだ。
「あの朝、五十七まで数えた」アルヴィスは言った。「お前に数えろと言われて、意味も分からず数えた」
「覚えております」
「今なら分かる」アルヴィスは言った。「あれは、お前の頭がまだ働く数だったのだろう。私は、それを知らずに数えていた」
「殿下は、あの朝わたしを支えてくださいました」オリヴィアは言った。「それで十分でございました」
「十分では、ない」アルヴィスは言った。「支えたのは、その日だけだ。七年、お前を支えたことは一度もない」
「用済みだと言った」アルヴィスは続けた。「あの言葉を、私は取り消したい。だが、取り消したところで七年は戻らない」
燭台の炎が、少しだけ揺れた。
「毒など出ぬのだから、私はいつも無事だ」アルヴィスは、その一言を自分の声でもう一度なぞった。「あのとき、私はそう言った」
「はい」
「今、分かる」アルヴィスは言った。「無事だったのは、お前がいたからだ。私は、それを自分の運のように語っていた」
「殿下は、ご存じなかっただけでございます」
「知らなかったことが、罪にならないとは思わない」アルヴィスは言った。「知ろうとしなかったことも、同じだ」
オリヴィアは、その言葉を静かに聞いていた。反論も、慰めも、口にする気にはならなかった。
「オリヴィア」
「はい」
「毒見役の証を、返したい」
アルヴィスは、枕元の小箱から銀の匙を取り出した。柄の窪みに、古い指の跡がまだ残っている。あの日、詰所の盆に置いてきたものだった。
「これは」
「詰所に、ずっと置かれたままだった」アルヴィスは言った。「誰も、手を出さなかった」
彼はそれを、両手で持ち上げた。
「お前に、戻したい」アルヴィスは言った。「毒見役として、というだけではない。私の隣に、もう一度」
オリヴィアは、その匙を見た。柄の窪みは、七年ぶんの重さのままだった。
「殿下」
「答えなくていい」アルヴィスは言った。「ただ、受け取ってくれるだけで」
「この匙を受け取れば、殿下は何をお望みになりますか」
「望みは、ない」アルヴィスは言った。「強いて言うなら、七年前に戻ってやり直したいだけだ。それが叶わないことも、分かっている」
「叶わないと分かっていて、なぜお渡しになりますか」
「渡さなければ、私は何もしなかったことになる」アルヴィスは言った。「何もしないまま、お前を行かせたくない」
オリヴィアは、手を伸ばさなかった。
「お受けできません」
「……そうか」
「わたしの舌は、もう毒を測れません」オリヴィアは言った。「鼻も、指も、日ごとに遅れております。毒見役に、お戻しいただいても務まりません」
「体のことを、言っているのではない」アルヴィスは言った。「私は」
「存じております」
オリヴィアは、匙から目を上げた。
「殿下のお言葉は、うかがいました」オリヴィアは言った。「詫びていただいたことも、受け取りました」
「では」
「ですが、それとこれとは別のことでございます」
アルヴィスは、匙を持ったまま動きを止めた。
「許してくれるのか、くれないのか」アルヴィスは言った。「それだけでも、教えてほしい」
「許す、許さないの話ではございません」オリヴィアは言った。「わたしはもう、殿下のお食事を見ておりません」
その言葉に、アルヴィスは何も返さなかった。
「見なくなってから、わたしの中で何かが変わりました」オリヴィアは続けた。「毎朝、器の底を数えることがわたしのすべてでございました。今は、違います」
「違う、とは」
「分かりません」オリヴィアは言った。「ただ、以前ほどこの城のことを考えなくなりました」
アルヴィスは、匙を膝の上へ戻した。
「隣国の宰相殿は、息災か」アルヴィスは、それだけ尋ねた。
「存じません」オリヴィアは言った。「随員の名簿から、わたしの名はもう落ちております」
「戻れば、また名が載るのだろう」
「分かりません」オリヴィアは言った。「戻ると、決めてもおりません」
「私は、遅かったのだな」
オリヴィアはそれに答えなかった。答える言葉を、持っていなかった。
「一つ、決めたことがある」アルヴィスは言った。「洗い場の綴じ帳を、燃やす年を作らない。これからは、毎年のぶんをすべて残す」
「三年より、長く」
「三年より、長く」アルヴィスは頷いた。「読む者が誰もいなくとも、書いたものは残す。それだけは、御前会議でも通した」
「調薬の間の願いは」
「四度目で握り潰されることのないよう、御用の間に写しを置かせる」アルヴィスは言った。「遅い手当てだと、自分でも分かっている」
「遅くとも、無いよりはよろしいかと」
「無いよりはましだ、というだけの話だ」アルヴィスは言った。「お前を七年独りにしたことは、それで消えない」
オリヴィアは、その言葉に頷きも、首を振りもしなかった。紙が増えることと、七年が戻ることは、別の重さで並んでいた。
「オリヴィア」
「はい」
「これから、どうする」
「決めておりません」オリヴィアは言った。「洗い場のお勤めは、続けます。それ以外は」
「メリディアへ、戻るのか」
オリヴィアは、その問いに一拍置いた。
「まだ、分かりません」
「メリディアへ戻らずにいてくれと、頼めば」アルヴィスは言った。「聞いてくれるか」
「殿下」オリヴィアは言った。「それは、殿下のためのお願いでございますか」
アルヴィスは口をつぐんだ。
「私のためだ」しばらくして、彼は言った。「分かっている。それが、もう遅いことも」
「はい」
「なら、頼まない」アルヴィスは言った。「頼む資格が、私にはない」
「明日の御前では、何とお答えに」
「本当のことを言う」アルヴィスは言った。「七年、気づかなかった。それだけだ」
「それで、よろしいのですか」
「よくはない」アルヴィスは言った。「だが、それしか言えることがない」
オリヴィアは、答えを待たずに立ち上がった。
匙を見ないまま一礼し、戸口へ向かう。
「オリヴィア」
背に、声がかかった。振り返ると、アルヴィスはまだ匙を膝に置いたままだった。
「すまなかった」
短い言葉だった。飾りのない、ただそれだけの言葉だった。
七年、この人の口から聞きたかった言葉のひとつだったはずだ。届いたら、何かが変わるだろうと、幼い自分はどこかで信じていた。今、届いた言葉は思っていたより軽く、そして思っていたより静かに、胸の上を通り過ぎていった。
「うかがいました」
オリヴィアは、それだけ答えて戸を開けた。
振り返らなかった。振り返れば、匙を持ったままのあの人の顔を、また見ることになる。見て、何か変わるわけではなかった。
廊下は、燭の灯りが届かず暗かった。
北棟へ戻る道すがら、指先で紙の束の端をなぞった。四つの預りの控え、その一枚だけを持ち歩いている。重さはないのに、七年の毒より確かに手に残った。
殿下は、詫びた。詫びは、誠実なものだった。取り繕う響きは、どこにもなかった。
それでも、心は動かなかった。動かないことに、自分でも驚くほど落ち着いていた。
あの城で過ごした七年は、器の底を数えることだけでできていた。数えるものがなくなった今、自分の中に残っているのは、あの部屋よりも遠くにあるもののほうが多い。
薬院の書架の匂い。ハルダの低い声。宰相府の廊下を急ぐ足音。まだ形になっていない何かが、少しずつ、あの城の輪郭より濃くなっている。
東の対の前を通ると、戸には板が打ちつけられていた。急ぎの仕事らしく、釘の頭がまだ光っている。
中を検める者も、悼む者も、今はいない。二年前、盆番のベルタが暇を出されたときも、部屋はこうして黙って片づけられたのだろう。
誰の手が板を打ったのかも、いずれ紙になるのかもしれない。ならないのかもしれない。オリヴィアは、その戸の前で足を止めなかった。止まる理由を、自分の中にもう見つけられなかった。
七年前、幼い自分に匙を放って寄越したのも、あの人だった。つまらない役目だと、睨むから毒が出ないのだと、笑って言った人だった。
同じ人が今日、その匙を両手で捧げて寄越した。差し出す形が変わっただけで、遅れの重さまでは変わらない。
幼いころ、祖母に言われたことがある。痛みを引き受けた手だけが、誰かを守れると。あのころは、それが誰の役に立つ言葉かも分からずに聞いていた。今は、痛みを引き受けた先に何が残るかを、はじめて自分の手で確かめている。
残ったのは、感謝でも、詫びでもなかった。ただの静けさだった。誰かに向けて怒る力も、誰かを許す力も、今の自分にはもう残っていない。残っているのは、この先どこへ足を向けるか、という一点だけだった。
北棟の戸を開けると、侍女頭が卓の前で待っていた。
「お戻りでございますか」
「はい」
「殿下は、いかがでございましたか」
「詫びられました」オリヴィアは言った。「毒見役の証も、お返しくださろうとしました」
「お受けに」
「お受けしませんでした」
侍女頭は、それ以上訊かなかった。
「四つ目の紙は」
「揃いました」オリヴィアは、手にした控えを卓へ置いた。「これで、この件は終わりでございます」
「終わり、でございますか」
「証としては、終わりでございます」オリヴィアは言った。「わたしの中では、まだかもしれません」
侍女頭は、卓の上の紙をしばらく見ていた。
「これから、どうなさいますか」
「まだ、分かりません」オリヴィアは言った。「ただ」
「ただ」
「殿下に、その問いをいただいてはじめて気づきました」オリヴィアは言った。「この城のことを、あまり考えていない自分に」
「洗い場のお勤めは」
「続けます」オリヴィアは言った。「決めるまでのあいだ、体を動かす場所が要ります」
「明日は、御前会議でございますね」
「殿下が、御前でお答えになります」オリヴィアは言った。「わたしは、呼ばれておりません」
「呼ばれずとも」
「呼ばれない立場のほうが、今のわたしには合っております」オリヴィアは言った。「上の紙になれば、いずれ耳に入ります」
侍女頭は、燭台に新しい火を移した。小さな炎が、卓の上を淡く照らす。
「あなたさまは、行かれるのでございますね」侍女頭は、ふとそう言った。「いつか、この城を」
「分かりません」オリヴィアは言った。「ただ、行き先を思う時間のほうが長くなりました」
侍女頭は、燭台の火をじっと見つめていた。
窓の外で、夜の風がひとつ、格子を鳴らした。夏の終わりの風だった。七年前、この城に上がったのも同じ季節だったと、ふと思い出す。あのころは風の匂いまで読めたのに、今はただ音だけが届く。
卓の上には、四枚の控えが重ねて置かれていた。綴じ帳、番の紙、蝋、そして隣国の記録。証はこれで、確かに揃った。だが証が揃うことと、この先どこで生きるかは、別の紙に書かれることだった。
窓の外は、もう星ひとつ見えない暗さに沈んでいる。
オリヴィアは、その紙の重なりへ、しばらく目を落としていた。
明日、御前会議で殿下が何を告げられるのか、自分はもう部外の者として聞くことになる。
七年、この城の中心にいながら誰にも数えられなかった自分が、今は城の外から数えられる立場に近づいている。近づいたことに、悲しみは湧かなかった。むしろ、久しぶりに息がしやすい気さえした。
窓の格子の向こうを、一度だけ見上げた。星は見えないが、風の音だけが、遠く別の場所から吹いてくるように聞こえた。あの音の先に、まだ名前のない何かがある。名前がつく日を、今はまだ待つしかなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
王太子アルヴィスに、初めて謝らせました。EP31・EP32・EP33と三話かけて禁じてきた一言です。誠実に書きたかったので、言い訳や取り繕いは足しませんでした。それでも、遅いものは遅い。誠実さと手遅れは両立する、というのが今回のテーマでした。
毒見役の証の銀の匙は、EP2で盆に置いたまま誰も手に取らなかったものです。今度は彼のほうから差し出し、彼女のほうが受け取りません。同じ形を裏返しただけで、七年の距離が見えるように書いたつもりです。
Arc3「王都崩壊編」は、これで幕を閉じます。次のArcから、オリヴィアは自分の居場所を選び直します。
☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、続きを書く大きな励みになります。




