第33話: 一掃
煎じ薬の湯気が、鼻の奥まで届かなかった。
喉の粘膜には苦みだけが居座って、香りのほうは素通りしていく。舌の右はとうに死んでいたが、鼻までここへ来たかと、オリヴィアは湯気の下でしばらく手を止めた。
十日目の朝だった。
あと一日で、蝋が開く。開けば、証は立つ。だが証が立ったところで、殿下の血は止まらない。灰塵は退かない毒だ。証と快復は、別の紙に書かれている。
七年、この匙の重さで一日を測ってきた。重さが変わらない朝と、変わる朝があった。今朝は、変わる朝のほうだった。
匙で椀の縁をなぞり、匂いのもとを探る。届くまで、いつもより数を多く数えた。灰塵の匂いは古釘に似ているはずだが、今朝はその輪郭さえぼやけて届いた。
戸が開いた。
「お目覚めでございますか」
侍女頭が桶を提げて立っていた。
「起きております」
「顔色が、少し」
「良くなったとは申しません」オリヴィアは椀を置いた。「鼻のほうが、今朝は遅れます」
侍女頭は桶を卓の下へ置いた。
「昨日までは、舌だけでございました」
「今朝からは、鼻もでございます」
侍女頭はしばらく黙っていた。それから、桶の縁に指をかけて言った。
「二冊のほうは」
「昨夜のぶんも、書きました」侍女頭は言った。「灰の甕は、動かしておりません」
「洗い場は」
「変わりございません」侍女頭は言うと、そこで一度言葉を切った。「一つだけ」
「うかがいます」
「昨夜、見慣れぬ方が東の対のほうへ入られたそうでございます」
「誰が見ましたか」
「水を運ぶ下働きが」侍女頭は言った。「顔は、覚えていないと申しておりました」
オリヴィアは椀を両手で包んだ。手のひらの熱は拾えた。指の腹より、まだ掌のほうが生きている。
「顔を覚えていない、とは」
「灯りが暗かったのだと、最初は思いました」侍女頭は言った。「今朝もう一度尋ねますと、覚える前に目を逸らしてしまったと申すのです」
目を逸らさせる歩き方がある。オリヴィアはそれを知っていた。人に顔を覚えさせない足の運びを、二年前に一度だけ見たことがある。あのときは、盆番のベルタが暇を出された晩だった。
「東の対とは、どなたの」
「セリカさまの局でございます」
「局には、何人ほど」
「四人と伺っております」侍女頭は言った。「二年で、入れ替わりの多い局だと聞きます」
湯気が、椀の上でまっすぐに立っていた。届かない匂いを、目のほうで追う。
「今日の粥は」
「変わりございません」侍女頭は言った。「殿下は、今朝も筆をお持ちでございました」
「何とお書きに」
「存じません」侍女頭は言った。「侍従様が、紙を大事そうに運んでおいででした」
オリヴィアは頷いた。
「御用の間から、言伝がございました」侍女頭は続けた。「明日の蝋開けは、立会いを一人のみとすると」
「一人」
「洗い場の方お一人で、と書いてございました」侍女頭は言った。「わたくしは、参れません」
「よろしいのです」
「よろしいのですか」
「一人と決めたのは、こちらでございます」オリヴィアは言った。「あちらではございません。立会いが多いほど、あとで誰が見たかを疑われます」
「洗ってまいります」侍女頭は桶を持ち上げた。「今日で、蝋まであと一日でございます」
「あと一日でございます」
「オリヴィアさま」侍女頭は戸口で足を止めた。「昨夜、うなされておいででした」
「覚えておりません」
「三度、名を呼んでおいででした」侍女頭は言った。「殿下のお名を」
オリヴィアはそれに答えなかった。
夢の中身までは、飲んだ毒も炭も届かない。
戸が閉まった。
オリヴィアは椀を持ち上げ、口をつけずに戻した。匂いのほうが先に死ぬとは思っていなかった。
舌が使えなくなれば鼻が残り、鼻が使えなくなれば目が残る。目だけになったとき、何を測ればよいのか、まだ考えたことがなかった。
昼過ぎ、届け物を持って渡り廊下を歩いた。
洗い場の届けを東の対の下働きへ渡す用は、以前からある。今日は侍女頭でなく、オリヴィアがそれを持った。歩くための理由が欲しかった。
渡り廊下の途中で、御用達の商人が机を畳んでいるのに行き会った。
「今日は、店じまいが早うございますね」
「東の対から、早馬の手配を頼まれましてね」商人は荷を担ぎながら言った。「今日中に一台、東の門から出したいとのことで」
「行き先は」
「聞いておりません」商人は言った。「行き先を聞かない約束で、代を弾んでいただいておりますので」
オリヴィアは礼を言って、先へ進んだ。
馬を用意しているのが、セリカ自身のためだとは限らなかった。
二年前、ベルタが暇を出された晩も、荷はいつもより早く仕舞われたという。侍女頭がそう言っていたのを、今になって思い出した。城を出る仕度は、いつも同じ形をしている。
渡り廊下の三本目の柱を過ぎたところで、匂いが変わった。
すみれでも、白い花でもない。焦げた種に似た、鋭く苦い匂いだった。
オリヴィアは足を止めた。
七年、宮廷の匂いはだいたい覚えている。花の下に差す金属臭も、粉に混ぜた砂の匂いも、みな名がついていた。この匂いには、名がなかった。
鼻の奥まで入る前に薄れて、それきり消えた。風が変わっただけかもしれない。だが、風で消える前に、この匂いはたしかにそこに立っていた。名のないものが立つ場所を、七年の勘はまだ覚えていた。
柱の陰から、下働きの女が出てきた。
「洗い場の届けでございます」
下働きはそれを受け取り、頭を下げて去った。目を合わせずに去る足の運びだった。誰の顔も覚えない歩き方を、この局の誰もが仕込まれているのかもしれない。
オリヴィアはその場にしばらく立っていた。
名のない匂いは、二度と来なかった。来なかったことのほうが、来たことよりも気にかかった。
夕方、戻りの廊下でセリカに会った。
同じ場所ではなかった。いつもは廊下の中ほどで待っていたが、今日は東の対の戸口のすぐ脇に立っていた。
「まだいたのね」
「おります」
セリカの髪は、いつもより結いが甘かった。巻き毛の一房が肩に落ちたままになっている。整える手を、今日はまだ動かしていなかった。
香水も、今日はいつもより薄かった。すみれの香が先に立って、白い花のほうが遅れてくる。いつもは逆だった。
「馬の話は、考えてくれた」
「お答えいたしました」
「もう一度訊いているの」セリカは言った。声の甘さが、途中で切れた。「今夜のうちに出れば、まだ間に合うわ」
「間に合うとは」
「知らなくていいことよ」
オリヴィアはその顔を見た。
琥珀の目の奥に、いつもの検分の光がない。代わりにあるのは、廊下の先を何度も見る癖だった。この人が誰かを待つ顔を、七年で数えるほどしか見たことがない。
「どなたかをお待ちでございますか」
セリカの肩が、一度だけ跳ねた。
「待っていないわ」
「昨夜、東の対へ見慣れぬ方が入られたと聞きました」
「下働きの噂話でしょう」セリカは言った。「宮廷なんて、そんなものよ」
「はい」
「はい、で終わりなの」
「終わりでございます」オリヴィアは言った。「洗い場は、噂を数えません」
セリカは笑おうとした。
口の端は上がったが、目には何も乗らなかった。二年前から見てきた笑みの、初めて見る崩れ方だった。
「あなた、蝋のことを本当に開けるつもりなの」
「明日でございます」
「開けて、何が出るか分かって言っているの」
「分かっております」オリヴィアは言った。「二つ、層が出ます」
「わたくしがそれを止めないと思っているの」
「止められません」オリヴィアは言った。「止めるには、名の要る紙が要ります。あなたさまのお名では、御用の間は動きません」
「殿下のお名でも、動きません」オリヴィアは続けた。「昨日、殿下ご自身がそれをお知りになりました」
「馬を出す算段は、もうなさっているのでしょう」オリヴィアは続けた。「今日、店の方が早馬を頼まれたと伺いました」
セリカの喉が動いた。
「余計な耳ね」
「洗い場は、耳がよろしゅうございます」
「あれは、わたくしのための馬じゃないわ」
「では、どなたの」
セリカは答えなかった。
「あなたに分かるはずがないわ」セリカは言った。「拾われた者が、どう扱われるか」
「存じません」
「知らなくて結構よ」セリカは言った。「知れば、あなたも同じ目に遭う」
オリヴィアは黙って聞いていた。
「わたくしは、拾われた駒よ」セリカは続けた。「駒は、盤の上でしか動けない。盤から降ろされれば、それで終わり」
声に、初めて素の響きが混じった。甘さでも、傲慢さでもない、ただの響きだった。
セリカは一歩、こちらへ寄った。
「あなたは、分かっていない」声から敬語が抜けた。「わたくしを止められるのは、あなたじゃない」
「存じております」
「何を」
「わたしを止めに来たのも、あなたさまではないと」
セリカの顔から、色が引いた。引いたと分かるくらい、はっきりと。
セリカは一度、廊下の奥へ目をやった。誰もいないことを確かめる素振りだった。
「……何が言いたいの」
「わたしは、あなたさまを罰しに参りません」オリヴィアは言った。「そう、先日も申し上げました」
「ええ」
セリカは、何かを言いかけて止めた。乞う形になりかけた言葉を、自分で呑み込んだように見えた。
「あなたさまを罰するのは、わたしではないと申し上げております」
「わたくしの名は、あの紙のどこにも無いのでしょう」セリカは言った。
「今のところは」
「今のところ」
「揃えば、出るかもしれません」オリヴィアは言った。「今はまだ、出ておりません」
石の廊下に、沈黙が長く落ちた。
セリカは、何かを言い返そうとして、言葉のほうが先に見つからなかった。
二年前、盆番の一人を理由も告げずに退けたのはこの人だった。同じ手が、今度は自分の番を数えられている。そのことに、この人はまだ気づいていない。
「……下がりなさい」ようやく出た声は、低かった。「洗い場の者は、下がってちょうだい」
「失礼いたします」
オリヴィアは礼をして、背を向けた。
振り向かずに歩き出すと、衣擦れの音だけが後ろに残った。
振り返らなかった。振り返れば、この人がまだそこに立っているかどうかを確かめることになる。確かめて、何も変わりはしない。
夜、侍女頭が湯の椀を運んできた。
渡り廊下で拾った匂いのことを話すと、侍女頭はしばらく考えてから答えた。
「焦げた種のような匂い、でございますか」
「知らない匂いでございます」
「わたくしには、分かりません」侍女頭は言った。「洗い場では、灰と灰汁のほかは存じませんので」
「よろしいのです」オリヴィアは言った。「分からないものを、分からないと申し上げただけでございます」
「明日、蝋を開けます」オリヴィアは続けた。「わたしの舌でも鼻でも、確かめられないかもしれません」
「では」
「困りません」オリヴィアは言った。「中身は、預けた日に四行書かせてございます」
「四行」
「表に一つ、芯に一つ。表の痺れが先、芯の重さが後。順序は入れ替わりません」オリヴィアは言った。「出たものが四行と違えば、わたしの見立てが違っていたことになります」
「同じであれば」
「わたしが確かめずとも、確かめたことになります」
「お体は」
「鼻が、今朝から遅れております」
「明日、間に合いますでしょうか」
「間に合わなくてよいように、書かせてございます」オリヴィアは言った。
侍女頭はしばらく黙っていた。
「セリカさまのことでございますが」
「はい」
「今日、局の下働きが二人暇を願い出たそうでございます」
「理由は」
「聞いておりません」侍女頭は言った。「ただ二人とも、今夜のうちに発ちたいと申したそうでございます」
「引き止めましょうか」侍女頭が言った。「洗い場の届けに、まだ用があると言えば」
「引き止めなくてよろしいのです」オリヴィアは言った。「行く者を行かせて、残る者を数えます」
「残る者、でございますか」
「今日まで局にいた者の数と、明日局にいる者の数の差でございます」オリヴィアは言った。「それも、紙に残ります」
湯気が、椀の上で揺れて消えた。
人が、局から抜けはじめている。抜ける前に理由を言わないのは、理由を言えば足止めされると知っている抜け方だった。
「明日は、朝から御用の間でございますね」
「はい」
「戸口までは、お供いたします」
「お願いいたします」
侍女頭は椀を卓へ置き、桶を両手で抱えて出ていった。
戸が閉まる音が、いつもより長く尾を引いた。
卓の上、蝋の預りの控えの紙は、端がもう乾いて反りはじめていた。
丑三つを過ぎても、眠れなかった。
麻の寝床の上で、指先を一本ずつ動かして確かめた。動く指と、動かない指の境が、また少し内側へ寄っていた。
戸の外で、床の軋む音がした。
「オリヴィアさま」
「起きております」
侍女頭が戸を細く開けた。手燭を持っている。
「眠れませんか」
「眠れません」
「わたくしも、眠れません」侍女頭は言った。「今夜だけは、隣の桶部屋におります」
「休んでくださいませ」
「休めません」侍女頭は言った。「あの方を退けた方々が、次に誰を退けるかを考えますと」
「わたしのことでございますか」
「はい」
「立会いは、わたし一人と決めました」オリヴィアは言った。「一人しかいない証人を消せば、預りそのものが宙に浮きます」
「開ける前に消せば」
「若い書役様が、預りを預かったことは変わりません」オリヴィアは言った。「証人がいなくとも、預りは残ります。ただし、確かめる者がいなくなります」
「では」
「今夜のうちにわたしが消えれば、あちらは疑われずに済みます」オリヴィアは言った。「消さなければ、明日に証が立ちます」
「どちらが、あちらにとって都合がよいのでしょう」
「分かりません」オリヴィアは言った。「分からないから、今夜のうちに眠っておくべきなのですが」
侍女頭は手燭を卓へ置いた。
「眠れませんね」
「眠れません」
二人は、それ以上何も言わなかった。手燭の炎が、卓の上で小さく揺れていた。
十一日目の朝、御用の間の卓に蝋の包みが戻された。
若い書役が布を解き、結び目を丁寧にほどいた。中から蝋の欠片が二つ、転がり出た。八日目に採ったときより、色が少し沈んでいる。
「立会いは、洗い場の方だけか」
「わたしだけでございます」
若い書役は蝋を刃の背で割った。
割れた面に、色の違う二つの層があった。外側は白く粉を吹き、芯のほうは飴色に灯を透かしている。高い窓から落ちた光の帯の中で、その境目だけがくっきりと立っていた。
蝋の割れ口に光を透かすと、白い粉と飴色の境が、刃で描いたようにまっすぐ通っていた。滲んでもぶれてもいない、迷いのない境だった。
芯の飴色の沈みは、三日前に採った滓よりも深かった。同じ手が、量を増やしたときにだけ出る深さだった。
「前より、厚みがある」若い書役が言った。「初めて見るときより、飴色の側が深い」
「増やした証でございます」オリヴィアは言った。「同じ手が、日を追って強くしていた証でございます」
「これが」
「表に一つ、芯に一つでございます」オリヴィアは言った。「預けたときに、そう申し上げました」
若い書役は先に紙を広げた。
「預り書きに、表に一つ芯に一つと書いてある」彼は紙と蝋を見比べながら言った。「表の粒が細かく芯の粒が粗いとも書いてある」
「そのとおりでございますか」
「そのとおりだ」
彼は蝋を卓の上、光の帯の中に置いた。白い粉と飴色の透きが、そこだけくっきり分かれて見えた。
「開ける前の紙と、開けたあとの実物が同じかを確かめる」若い書役は続けた。「これが、この部屋の役目だ」
「ありがとうございます」
「洗い場の方は、この色が分かるのか」
オリヴィアは蝋へ目を落とした。
「今は、目でしか分かりません」
「舌では」
「今朝は、拾えないかもしれません」
若い書役は少し黙り、それから筆を取った。
「開封。十一日目。立会い、洗い場の方一名。蝋の中身は、預り書きの記述と相違なし。確認は、書役の目による」彼は書きながら読み上げた。
「わたしの舌によらずともよいのですか」
「舌がなくても、目がある」若い書役は言った。「目がなければ、字がある。この部屋にあるのは、それだけだ」
控えが、また二通できた。一通は棚へ、一通はオリヴィアの手へ渡された。
若い書役は三つの預りを卓に並べた。
盆の番の紙、洗い場の綴じ帳、蝋。書いた場所も人も用も違う。それでも同じ日ごろを指していた。
盆の番の紙は、運んだ手が一人だったことを示す。洗い場の綴じ帳は、血の布が四日目に増えたことを示す。蝋は、その膜がどの毒とも違う層を持っていたことを示す。
一つだけでは、疑いにしかならない。三つ揃えば、疑いは形になる。
「それが揃うことに、何の意味があるのか私には分からんが」
「分からなくてよろしいのです」オリヴィアは言った。「揃えるのは、この部屋のお役目ではございませんので」
若い書役は蝋を布で包み直した。
「これは、どうする」
「そのまま、お預けください」
「開けたあとも、預りのままか」
「開けたと書いていただければ、それで十分でございます」オリヴィアは言った。
彼は頷き、蝋を棚へ戻した。
棚の奥で、蝋の包みが小さな影になって消えた。
八日目の朝から数えて、三日だった。その三日のあいだに、舌が死に、鼻が遅れた。指の腹は、それより前から織りを拾わなくなっている。三日で、体の測り方をほとんど失った。
だが紙は、体より長く保つ。
御用の間を出て、渡り廊下へ戻った。
三本目の柱を過ぎたところで、人の声が固まっていた。
東の対の戸口に、侍従が二人と、見覚えのない衛士が立っている。王宮の衛士に、見慣れぬ顔はいないはずだった。戸は半分開いて、内から声がした。
「近づくな」
オリヴィアは戸の隙間から漏れる空気を吸い込み、その場で息を止めた。
侍従の一人が、こちらへ気づいて振り返った。
「洗い場は、ここまでだ」
「何がございましたか」
「お前の知ることではない」
もう一人の侍従が、先の者を手で制した。
「セリカさまが朝、お目覚めにならなかった」
「お加減が」
「加減ではない」侍従は言った。「侍女が声をかけても、返事がなかった。医師を呼びに走らせた」
オリヴィアは戸口の内から流れる匂いを拾った。
焦げた種のような匂いが、今度ははっきりと残っていた。廊下で嗅いだときより、濃く、はっきりと。
灰塵でも、銀舌でも、夜香でもない。七年で覚えた三つの毒のどれとも、結びつかない匂いだった。
「昨夜、どなたかお見えでしたか」
侍従は答えなかった。
「教えてほしいのではございません」オリヴィアは言った。「洗い場は、下がります」
「そうしろ」
もう一人の衛士が、戸を大きく閉めた。閉まる音の前に、香水の匂いが一度、外へ漏れて消えた。すみれと白い花に、焦げた種の匂いが今度は分けて拾えるくらい濃く重なっていた。
二年前、ベルタを暇に出した使いも、顔を覚えられていなかったという。運ぶ手も、消す手も、日ごとに顔を変える。的を絞らせないための作りだと、いつか誰かから聞いたことがある。
廊下の先で、洗濯女が桶を抱えて立ち止まっていた。
「随員様」洗濯女が小声で言った。「昨夜、局の前で馬の支度をしている音を聞きました」
「何刻ごろでございますか」
「丑三つを過ぎたころかと」洗濯女は言った。「馬は、結局出なかったようでございます」
出るはずだった馬が、出なかった。
誰かが乗るはずだった場所に、誰も乗らなかった。
オリヴィアは踵を返した。
四歩、進んだところで、体の向きを変えられなくなった。
動けずにいるのは、確かめたいことがあったからではない。
この匂いに、耐性がない。七年、鼻で覚えてきたどの毒とも違う。覚える前に、たぶんこの人はもう、覚えさせる相手ではなくなっていた。
二年前、名も残さず退けられたベルタと同じ形で、この人も局から退けられた。退けた側の誰かの手も、たぶん覚えられないままだろう。
オリヴィアは歩き出した。
戸の奥で何が起きているのか、確かめには行かなかった。確かめれば、その場にいたことになる。いたことになれば、あの部屋の誰かが、洗い場の者を名指すことになる。
大廊下を横切ると、貴婦人たちが数人、扇の陰で声をひそめていた。
「急なご病気だったそうよ」
「昨日まで、あんなにお元気でいらしたのに」
「殿下は、さぞお力落としでしょうね」
オリヴィアはその脇を通り過ぎた。
誰も、傷のことは口にしていない。触れが回るより先に、言葉のほうがもう出来上がっていた。
北棟へ戻ると、侍女頭が卓の前で待っていた。
「お聞き及びでございますか」
「聞きました」
「亡くなられた、と廊下で申しておりました」侍女頭は言った。「宮廷医のお見立てで、喉に傷が一点あったと」
「毒とは」
「その言葉は、誰も使いませんでした」侍女頭は言った。
急な病と、触れが回るはずだと侍従が話していたという。急な病。この城の紙は、いつもそう書く。
「昨夜の見慣れぬ方のことは」
「もう誰も、口にいたしません」侍女頭は言った。「顔を覚えていないと申した下働きは、今朝暇を願い出ました」
「早うございますね」
「早うございます」侍女頭は言った。「二人が昨夜のうちに発ちたいと申した意味が、今朝分かりましてございます」
オリヴィアは卓の上、預りの控えを一枚、指で寄せた。蝋の預り、開封済みと書き添えられた紙だった。
「これは、消えませんね」
「消えません」侍女頭は言った。「開けたと書いてございます」
「あちらが、あの方を消しても」
「消えません」オリヴィアは繰り返した。「あの方が消しても、消した者の紙はまだございません」
侍女頭は、しばらくその紙を見ていた。
「本国からの紙は、明日でございましたね」
「十二日目に届きます」オリヴィアは言った。「あの方がいてもいなくても、届きます」
「あの方がいなくなって、何か変わるのでございましょうか」
「変わりません」オリヴィアは言った。「変わるとしたら、あちらの紙に書く名が一人減るだけでございます」
「昨夜、馬が出なかったそうでございますね」侍女頭が言った。
「出ませんでした」
「あの方が、お乗りになるはずだったのでしょうか」
「分かりません」オリヴィアは言った。「乗るはずだった方が、もう乗れなくなっただけかもしれません」
「あの方を、悼まれますか」
オリヴィアは椀の温もりへ指先を寄せた。
「悼みには、思うことが要ります」オリヴィアは言った。「わたしが今思っているのは、紙のことだけでございます」
「それだけでございますか」
「それだけでございます」
誰にも気づかれず消えることを、オリヴィアは長く恐れてきた。セリカは、誰にも気づかれず消えることを、他人に仕向ける側にいた。今日、その仕向けた側が、仕向けられる番になった。
オリヴィアは、それを見届けても、何の慰めにもならないことを知っていた。
「オリヴィアさま」
「はい」
「あの方のお部屋は、どうなるのでございましょう」
「片づけられます」オリヴィアは言った。「片づけた者の名も、いずれ紙になります」
「わたくしたちが、見届けるのでございますか」
「見届けません」オリヴィアは言った。「見届けるのは、次にあの部屋を使う者でございます」
侍女頭は頷いた。何か言いかけて、結局それを飲み込んだまま、部屋を出ていった。
夕刻、侍従が呼びに来た。
「殿下が、お呼びでございます」
東の棟へ上がった。階の数はもう数えなかった。
部屋の内は、獣脂の灯りが二本立っていた。アルヴィスは寝台に半身を起こし、膝の上に紙を広げている。
枕元に、白い布が一枚、畳まれたまま置かれていた。端に、赤い染みが二つ。
「来たか」
「参りました」
「セリカのことは、聞いた」
「はい」
「私は、何も命じていない」アルヴィスは言った。「これだけは、言っておく」
「存じております」
「なぜ分かる」
「殿下のお名でも、御用の間は動きませんでした」オリヴィアは言った。「殿下のお名で人を消すことも、できません」
「今日は、何を書かれましたか」
「粥を三口。あとは残した」アルヴィスは言った。「昨日のぶんも、まだ書けていない」
「書けなかった日と、お書きください」
「もう書いた」
紙の隅に、薄い字で「昨日は書けず」とだけあった。
「オリヴィア」
「はい」
「明日の粥は、誰が運ぶ」
「まだ、決まっておりません」オリヴィアは言った。「番の紙が参りませんと」
「番の紙は、もう来ないかもしれん」アルヴィスは言った。「局の主が、いなくなった」
「参ります」オリヴィアは言った。「番を決めるのは、局ではございません。御用の間でございます」
「そうか」
アルヴィスは筆を持ったまま、しばらく黙っていた。
「オリヴィア」
「はい」
「セリカは、誰に殺されたのだ」
オリヴィアはその問いを、しばらく胸の内で置いた。
「あの方を使っていた方々でございます」
「なぜ使っていた者が、使っていた者を殺す」
「使えなくなったからでございます」オリヴィアは言った。「蝋が開いて、証が立ちました。証が立てば、あの方は問われます。問われれば、あの方は誰かの名を言うかもしれません」
「言う前に、消したのか」
「そのように見えます」
「昨日の朝、粥を運んできたとき」アルヴィスは言った。「笑っていた。いつもと同じ顔で」
「はい」
「同じ顔の下で、何を数えていたのだろうな」
オリヴィアは答えなかった。答えを持っていなかった。
持っていないことが、今日はじめて心もとなかった。数えることでしか立っていられなかった七年の癖が、数えるものを失っている。
アルヴィスは、筆の先を紙から浮かせたまま止めていた。
「私を七年生かしたのも殺そうとしたのも、同じ紙一枚で分かるところにいたのだな」
「はい」
彼は何か続けようとして、言葉のほうが出てこなかった。膝の上の紙が、指の下でかすかに波打っていた。
オリヴィアは、その先を待たなかった。
「今日はここまでで、よろしゅうございますか」
「……ああ」
「失礼いたします」
一礼して、部屋を出た。
戸が閉まる前に、紙をめくる音が一つした。
北棟に戻ると、卓の上に紙が二枚、重ねて置いてあった。
蝋の預りと、綴じ帳の預り。どちらの下にも、同じ名が一つ書いてある。
もう一枚、増えるだろう。十二日目に、隣国から届く紙が。
オリヴィアはその二枚を、卓の隅へ寄せた。
窓の外はまだ薄明るく、獣脂の灯りは、まだ点けられていなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
蝋を開けたのはオリヴィアですが、開けた先で誰かを裁いたわけではありません。層が出て、預りが確定しただけです。セリカを局から退けたのは組織のほうで、二年前に彼女自身がベルタにしたのと同じやり方で退けられました。オリヴィアもアルヴィスも、手は下していません。
証は紙になって残り、人だけが消えました。組織が動いたのは、蝋の開封に立会人がついた日でした。十二日目に隣国から届く紙は、もう誰にも止められません。名の無い紙で人を消してきた側が、今度は名の無い紙に消される番でした。
次話、王太子が七年探せなかった言葉を、もう一度探します。
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